内田樹ブログが、新聞コラムの批判をしている。
ただし対象は、毎日新聞の“余禄”である。
ぼくは、ご存知のように“天声人語”と“読売編集手帳”の批判を何年も続けてきて、もう飽きたのでやめようと思っている。
内田氏の“批判”を引用するが、その“部分”だけなら、ぼくとほぼ同じような“意見”が書かれている、しかしそもそも内田氏はなぜ“毎日新聞コラム”を批判しているのだろうか?
いまマスメディアを批判するなら、読売、朝日、フジ産経グループこそ批判すべきだ。
引用開始;
《このコラムは典型的な「世論」の語法で書かれている。
新聞のコラムというのは「そういうものだ」という醒めた感懐をたぶん持って、このコラムニストは定型を書き飛ばしている。
それが書けるのは「自分が書かなくても、誰かが同じようなことを書くだろう」と思っているからである。
たぶん、多くの記者たちは、そう自分に言い聞かせて「定型」的な文章を書く自分との折り合いをつけているのだろう。
自分が書かなくても、どうせ誰かが書くのだから、自分ひとりがここで「こういうのを書くのはもういい加減にしないか」と力んで見せても始まらないと思っている。
新聞の凋落にはさまざまな説明があるけれど、「私には言いたいことがある。誰が何と言おうと、私は身体を張っても、これだけは言っておきたい」というジャーナリストがジャーナリストであることの初発の動機をどこかに置き忘れたためではないのか。
私にはそのように思われるのである》
(引用終わり)
《新聞の凋落にはさまざまな説明があるけれど、「私には言いたいことがある。誰が何と言おうと、私は身体を張っても、これだけは言っておきたい」というジャーナリストがジャーナリストであることの初発の動機をどこかに置き忘れたためではないのか。私にはそのように思われるのである》(引用)
というのは、まさに、“ぼくも”言いたいことである。
ただし対象は“新聞(コラム)”だけではない。
すなわち、“内田先生”にも言いたい(笑)
さて今日の天声人語である(爆)
ほんとうに、天声人語というのは、どうしてこうも“ぼくの神経を逆撫でする”ことを毎日書き続け“られる”のであろうか!
この“コラム”を書いているのは、<男>であろうか!!!
男なのである(笑)
男でなければ、こんな“女が腐った”文章を書けるはずがない。
引用開始(笑);
《女優の故沢村貞子さんに「男女同量」という随筆がある。ある日、新しい夫婦茶碗(めおとぢゃわん)を買いに行った。気に入ったのを眺めていてふと気づくと、紺と赤の色は違うが、二つは同じ大きさである▼男物の傍らに小ぶりな女物がそっと寄り添う。そうした夫婦茶碗を見慣れた目には新鮮だった。買って帰り、食卓に並べてみた。同じ大きさが「嬉(うれ)しかった」と沢村さんはつづっている。その一文を、宇宙飛行士の山崎直子さんが夫に支えられて飛び立ったニュースに思い出した▼頭では分かっていても、「男女同量」的な夫婦の実践は難しい。山崎大地さんの場合も単なる美談ではなかったようだ。仕事をやめて家事や育児、介護もこなしてきた。小紙の別刷りに連載した「新宇宙家族」には複雑な胸の内がにじんでいた▼葛藤(かっとう)の中、夫は心身の調子を崩す。妻も追い込まれた。すべて崩壊しかねない危機を、米国の神学者ニーバーの一節に支えられたと、直子さんは自著に書く▼〈神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ〉(大木英夫訳)。宇宙飛行も生身の人間の営みなのだと、改めて思う▼沢村さんに話を戻せば、男女同量の茶碗でつい食べ過ぎたそうだ。使うに難しいと悟るが「何とか上手に使いこなしたい」と結んでいる。同量の茶碗に、妻の幸と夫の幸を上手に盛り合う時代と心得たい。夫婦でいっぱいの地球を眺めて、宇宙船は回っている。》
(引用終わり;全文引用だよ)
あ~あ。
といえば、おしまいである。
しかし“ブログ”であるからには、その“理由”を説明する“義務”がある(そうでなければ自分のブログに取り上げなければよい)
その理由を一言で言えば、この世の中には、<夫婦>でないひともいる、ということである。
これだけで、ぼくの<論拠>は充分である。
“天声人語の世界”には、夫婦+子供数人の家族しか、<住めない>。
このような<差別>が、“公共的な世界観”でありうるはずがないのである。
にもかかわらず、天声人語氏が、自分の<個人>的信念で、自分が“夫婦+子供数人の家族”が好きだ、というのなら、わかる。
しかし、ここで、天声人語氏は、そういう<私的見解>を述べているのではない。
これが、ぼくには、“不快”であるだけでなく、根源的<虚偽>と思える。
しかもこういう<ベーシックな認識>において虚偽である“認識”を、公然と書くということは、もし殺人が罪であるなら、それにひとしい<罪>である。
いいですか、<ぼく>は子供はいないが、何十年も<夫婦>をやっている。
だから、ぼくは結婚できないので“ひがんで”上記のようなことを言っているのでは、ない(笑)
ただし、ぼくにとっての<夫婦>も、天声人語氏が理想とする(規範とする)<夫婦>では絶対にない(なかった)ことも、たしかである。
ぼくはここで“沢村貞子の夫婦茶碗”(笑)や“宇宙飛行士の夫”を、批判しているのでは、ない。
あまり“面白くない”が、他人の夫婦がどうであっても、とやかく言いたくはない。
ぼくが批判しているのは、そういう個別の夫婦(すなわち“唯一の夫婦“を、例に挙げて、しかも“神学者の言葉”まで持ち出して、なにかを<標準化する(規格化、規範化する)>天声人語の<意図>である(<無意識>でもよい;下記ブログ参照!)
《同量の茶碗に、妻の幸と夫の幸を上手に盛り合う時代と心得たい。夫婦でいっぱいの地球を眺めて、宇宙船は回っている》
などと、結論付けられても、<夫婦>のリアルについて、なにも述べたことにならない。
それどころかこれは、<夫婦>についての、ひからびた糞のような“思い込みを”を読者に向かって投げつけているのだ。
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