時間がたっぷりあった学生時代には、いわゆるポストモダンあたりの哲学の本も読んだ。大学の教養部のときには、哲学の授業でニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」の講義を聞いたし、哲学のゼミも取ってハイデガーの「存在と時間」の輪読会に参加した。だけど何が自分の中に残っただろうか。哲学の表層をなぞっただけで、何も自分の中にひびいていないような気もする。そもそも哲学書は難しくてなにを言わんとしているのかつかむのが大変だし、営々とした哲学の歴史の中でどの思想が自分にとって大切なのかがわからない。この「読まずに死ねない哲学名著50冊」は、プラトンからデリダまでの哲学の営みの中で重要な著作50冊をわかりやすい言葉で説明してくれる。それはどこまで本質をついたものなのか、単に表層的な説明に終わっているだけなのかはわからない。しかし、とりあえずの形で哲学の全体を見渡せるようにしてくれた。この本を読んだ後、気になる哲学書があったら原著にあたって自ら読解するためのきっかけになればいいだろう。あるいは哲学書は自分に必要ないという判断があってもいいと思う。
頭の整理のために少しだけ、ポイントをまとめる。
・近代哲学の認識論においては、合理論と経験論という対立がある。合理論は、世界は知覚経験によらず、根本原理から推論を合理的に積み重ねることで認識できるとする立場で、デカルト、ライプニッツ、スピノザが代表的な哲学者だ。一方、経験論は、根本原理なるものは存在せず、世界はただ知覚経験によってしか認識できないとする考え方で、ロックとヒュームが代表的な哲学者だ。
・フッサールの作った現象学は、「判断停止」と「還元」という概念によって認識の原理を明らかにする方法を提案したが、多くの現代哲学の土台になっていたり、思考の参照点になっていたりする。例えば、ハイデガーの「存在と時間」では、現象学の方法によって、「存在」とは何か答えを与えようとする。メルロ=ポンティは現象学の観点から、「知覚」や「身体」についての本質論を展開した。レヴィナスはフッサールの「発生的現象学」を用いて倫理の根拠を答えようとする。サルトルやデリダはフッサールを批判しながら持論を展開する。
・現代の哲学が人間存在のあり方として記述していることにはある共通点があるようだ。ハイデガー、メルロ=ポンティ、サルトルらは、いずれも人間はそこにただある存在ではなく、前へ前へと先へ目がける存在であると捉えているところに一つの特徴があるように感じられる。
さて、この本を読んで私自身どう感じたかというと、人間の精神を正確に記述し生きる指針を与えることにおいては、哲学よりも、脳科学や心理学、そして仏教のほうが魅力的に感じられるというのが正直なところだ。
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