MBCドラミアを見て移動、昼食を食べた後、京畿道(キョンギド)水原(スウォン)市にある水原華城(スウォンファソン)へ。
18世紀末に李氏朝鮮第22代国王・正祖が老論派の陰謀により非業の死を遂げた父(思悼世子)の墓を、楊州から水原の顕隆園(隆陵)に移し、その周囲に城壁や塔、楼閣や城門を築いて防護を固めました。中国から西洋築城技術を輸入し、東洋と西洋の技術を融合させて、1794年から1796年まで2年を越える月日と37万人の労力が投入されて華城が完成しました。華城は実学を重視した正祖の理想都市であり、党派政治を根絶しつつ強力な王道政治の実現のための政治的な抱負が盛り込まれたところです。華城への遷都も考えていたようですが、完成直後に正祖が死亡したため、遷都は見送られました。
城郭の築造に石材とレンガ、挙重機(コジュンギ)が始めて使われ、平山城の形態であり、軍事的防御機能と商業的機能を兼ね合わせています。
日本占領時と朝鮮戦争を経て一部が破損・損失しましたが、1975~1979年にほとんど築城当時の姿に補修・復元され、ユネスコの世界文化遺産に登録されています。
城壁の長さは5.7km、城郭の高さが4~6m、面積は130haに至る巨大な城郭で、現在残っている部分の内部にも大きな自動車道が通っていたり、一般の住宅や商業地域が含まれている広大なものです。
東門として1795年に建立された蒼龍門。東のシンボルは青龍なので、青い旗が立っていました。
ここから城壁の上を歩いて東→北東へとまわりました。
城壁には鉄砲や矢を射る狭間がたくさん開けられています。
大型弓を射るための施設、東北弩台。
大型弓は当時開発された多連発弓で、火薬を設置して射ていました。東北弩台は東北側に出っ張った城壁の上にあり、レンガを積み上げて造られています。
カトリック水原聖地が遠くに見えましたが、これも華城の内部にあります。
東将台、練武台(ヨンムデ)。前に広場があり、兵士たちが武芸の練習を行なった場所です。
その前の広場では伝統的な弓を射る体験ができるようになっていて、大勢の人が参加していました。
長い城壁の上を歩いていくのはいいウォーキングになりましたが、暑い日だったので、こたえました。
東北舗樓(角巾台)。舗樓とは城壁の凸部の雉城の上に建てた見張り台のことを言い、城の中で移動する味方の動向を敵にしられないよう設置された施設で、見張り台や兵士の休憩所として使いました。
北暗門。
暗門とは大門と大門の間に位置している小さな間の門であり、奥深く入った所に造ることによって、敵に知られずに、人、家畜、車、食糧、武器などの軍需物資を城内に供給する重要な役割がありました。
東北角楼。訪花随柳亭とも言い、周辺を監視したり、休憩ができるように造られていました。
戦闘の機能よりは宴会の空間として活用されていました。
高い所にあって、開かれた造りなので、風が吹き抜けて気持のいい場所でした。
眼下に滝淵という池のある庭園も見下ろせて、正祖もここで休憩したかと思うと感激でした。
華虹門。
水原華城を横切って流れる水原川の北側に建てられた水門で、門の上には楼閣があり、民が休むことが出来るようになっています。また、楼閣の左右には大砲が設置出来る施設があり、華城を保護していました。
随分たくさん歩きましたが、まだ城壁の一部を歩いただけで、ここからまだまだ向こうに見える長安門(北門)、それから華西門(西門)、八達門(南門)と続いているのですが、とても全部は見切れず、華城の城郭見学はここで終わりになりました。
2014年韓国旅行(6)に続く。