ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

重要伝統的建造物群保存地区「ちりめん街道」

2020-03-22 02:06:14 | 遠出(国内)
丹後地域では約1300年前から絹が織られていましたが、1720年に京都西陣から「ちりめん」の技術が伝わり、絹織物産地として大きく発展していきました。加悦地域は、与謝峠を介して、丹後と京都をつなぐ物流の拠点となり、大きく栄えた住宅や土蔵、ちりめん工場、職工宿舎などが一帯となって存在しています。古いものでは江戸時代中期、主には明治初期から昭和初期の屋敷が多く立ち並び、丹後ちりめん産業の隆盛を今に伝える町並みになっており、2005年に重要伝統的建造物群保存地区「ちりめん街道」として認定されました。与謝野町は、2017年に宮津市、京丹後市、伊根町とともに、「300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊」として「日本遺産」にも認定されています。




旧加悦町役場庁舎から西山工場までの南北700mの旧街道は、16世紀後期の安良城築城に端を発する、敵兵の侵入を防ぐためにつくられたとされる、途中4ヶ所で鉤の手に折れ曲がった形をしています。







井筒屋旅館。
大正時代に建てられ、1933(昭和8)年に再建された総2階平入りの建物で、正面入口には銅板葺き入母屋屋根の車寄せがあり、旅館の玄関にふさわしい構えです。今も旅館として営業を続けています。



松村家住宅。1888(明治21)年築。
明治期から昭和17年頃まで旅館を営んでいました。明治期の宿帳にはロシア人や中国人の名も記されており、様々な人がちりめん街道を往来していたことがわかります。






表がわの間でちりめん織機を展示実演するお家がありました。



杉本家住宅(下之町)。1848(嘉永元)年築。
中庭を持つ地区内でも大規模な住宅。明治43年、当主の利右衛門が電気事業の必要性を強く感じ、丹後電気株式会社を設立し、現加悦小学校グランド南側の土地に発電所を建設しました。またこの建物は、地区内で2番目の郵便局、その後「杉本医院」として医者をされていた場所でもあります。



川嶋家住宅。1929(昭和4)年築。
昭和2年の丹後大震災後に建てられた川島酒造の酒蔵で、当時は蔵の奥にある井戸水で酒を造っていました。銘柄は「大山政宗」といい、戦後の酒の統制まで造り酒屋を営業していました。大きな建物の割に窓が小さく、酒蔵の特徴をよく表しています。
土日のみ、10時~17時30分、酒蔵の中でカフェ「ちりめん茶屋」が営業されています。



旧尾藤家住宅。1863(文久3)年~1930(昭和5)年築。
江戸時代に大庄屋などを務めた生糸ちりめん問屋で、当主は代々庄蔵を名乗りました。明治初期には北国と大阪を結ぶ北前船「蓬莱丸」を所有しました。丹後銀行頭取、加悦鉄道の社長、加悦町長も務めました。
主屋は江戸末期に、但馬の綿屋長右衛門の主屋を移築したもので、明治から大正にかけ、蔵や屋敷などが増築され、昭和3年には大林組設計部長今林彦太郎の助言を得て、洋館を増築しました。中庭を囲んで、ロの字型に座敷や5つの蔵が立ち並び、和と洋の融合する大規模建築で、京都府指定有形文化財になっています。同時に尾藤家から与謝野町に寄贈され、保存修復工事の後、一般に公開されています。
入館料200円で館内を一巡して案内してもらえました。 9時~17時開館。 休館日:月曜日・年末年始 



実相寺。加悦谷唯一の日蓮宗の寺院。
この前で街道が直角に折れ曲がっています。



下村与七郎家住宅。 1804(文化元)年築。
地区内に現存する最も古い建物。右端の窓は「機屋窓(はたやまど)」と言って、外からは中が見えず、光は上から入ってくるようになっている珍しいものです。左側の土蔵は、明治20年から8年間、加悦郵便局として使われました。局舎2階では、モールス信号による電信が始められ、変動の激しい生糸価格をいち早く知ることができました。







下村家住宅(旧丹後産業銀行)。1920(大正9)年築。
宮津を本店として設立された「丹後産業銀行」の加悦営業所の蔵で、側面には丹後産業銀行の「産」の文字が刻まれています。 丹後の金融機関は融資の担保にちりめんや反物を取ることから、蔵が大きく作られています。



下村五郎助家住宅。 1904(明治37)年築。
街道がもう一度折れ曲がる南西角に位置することから屋号を「角屋(かどや)」と称し、明治初期に北前船による廻船問屋を営むことにより富を築きました。その後、ちりめん業に取り組んで京都に店を設立し、昭和初期には加悦に株式会社丸中を立ち上げました。 




天満神社と宝巖寺。



渋谷家住宅。1897(明治30)年築。
切妻造り平入り厨子二階建てで、正面には腰高の格子と「えんがき」があり、ちりめん産業が盛んであった丹波地域の特徴をよく表しています。

現在は「天風庵」(骨董・がらくた屋)となっています。




杉本家住宅(上之町)。1893(明治26)年築。
二階両側の軒近くまで防火用の壁、うだつがあがっています。ちりめん街道の家の中で、うだつがあるのは、ここだけです。明治20年から34年にかけて「生糸縮緬仕切通(機屋)」を家業とし、その後薬局も営んでいました。



珍しく街道側に入口がない造りの家もありました。



旧伊藤医院診療所。1917(大正6)年築。
木造二階建て入母屋造り桟瓦葺きの洋館です。漢方医学が主流であった当時、西洋医学の診療所として地域で最初に開業しました。



玄関まわりの漆喰の装飾は「健康」を主題としており、加悦の左官職人萬吉によって描かれた鏝絵です。


杉本治助家住宅。
加悦谷の丹後ちりめん創始者の一人、手米屋小右衛門の直系にあたる家。早い時期から織物業の近代化や製織技術の新開発にも注力しました。



杉本家住宅(西山第二工場)。明治~大正時代。

主屋は、丹後最大のちりめん工場(西山工場)の職工たちの集会所として明示40年代に建てられました。二階が講堂であったため階高が高いです。



西側には、明治30~40年代建築の西山第二工場があり、大正中期には計5棟の工場がありました。



何と、その工場の中から「ガチャガチャ」と機を織る音が聞こえてきました。今もこの工場の中でちりめんの製造が続けられているのです。






加悦町のマンホール。大江山の鬼もいます。

2006年(平成18年)3月1日、与謝郡加悦町・岩滝町・野田川町の3町が合併し、与謝野町が発足しましたが、加悦、岩滝、野田川の各地区に庁舎が残されています。

加悦SL広場を見に来たついでに、駆け足でちりめん街道を見てまわりましたが、与謝野町には原種ヤブツバキの大木や、蛭子山古墳と作山古墳の古墳公園、与謝野鉄幹の父・与謝野礼厳、与謝蕪村の母親のふるさとなどがあり、またいつかゆっくり来てみたいものです。



ちりめん街道から与謝野駅までバスに乗って、16時50分与謝野駅発の特急たんごリレー6号で17時43分福知山着、17時49分福知山発19時9分京都着の特急きのさきで帰ってきました。京都丹後鉄道の切符は硬券でした。


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