夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

霊感と宗教

2015年11月01日 23時32分38秒 | 真理の言葉
宗教はなんであるかを語り合いました。 

霊感と云うのは、感覚によらないでものを知る、たとえばある人の出会うとパァと『この人は深切な人』とか『善い人』とかわかるでしょう。研究しないでも、直接にわかるでしょう。それは眼や耳のように外から触れてわかるのでなしに、内からわかる、だから眼・耳などの感覚を『外的感覚』と云いますれば、霊感は『内的感覚』とでも云えましょう。それが霊感でありまして、五感に見るその儘ではないのであります。
自分の生命の中に天地に充ち満ちている『いのち』と同じ響と天地の『いのち』の響とが一つに波長が合った時に
その霊感と云うものが起こります。その霊感によって天地の成り立ちや、人間の成り立ち、人間がどうして生きて行くべくかの、『生きる道』の書かれたものが宗教的経典であります。 霊感と宗教について



霊感も四次元的世界の幽霊等を観じる事と違い、もっと高次元の世界である、言い換えると無次元の世界である、
神の愛と仏の慈悲に満ちた世界を今此処に観じることが大切だと思えます。
アイシュタインの相対性理論のようにある条件では、時間の認識の形式が変わりますが、言い換えれば時間の認識の形式そのものがあやふやであり、もっと突き詰めれば、時間そのものが無い世界が実在することになります。
時間が無いとすると時間を現す空間も無いことになります。時間も空間も無い、相対の反対の絶対ではなく目無し堅間の、絶対無の龍宮城の楽園の世界を今此処に直感的に観ずるのが本当の霊感と云えます。





早朝五時の幽の幽玄なる瞑想・・・神想観 人間神の子の自覚、自己解放、四無量心への道と世界平和の祈り

2015年11月01日 13時43分00秒 | 日記・エッセイ
早朝五時の幽の幽玄なる瞑想・・・神想観の実習

人間神の子の自覚、自己解放、四無量心への道と世界平和の祈り。

朝靄の 月明祈る 七五三

恒例の月一度の仲間との道場での瞑想と三社参拝と菩提寺参りに行きました。
お寺では玄関前に常夜灯が灯り、本堂の御明かりが灯されていました。
仁王さんがそびえ立つ山門の入り口で三宝禮の後十念仏を唱え、本堂に拝礼して、一族に縁の深い薬師堂の前でお参りをしました。

神社でも七五三の準備の為か、早くから拝殿に明かりが灯り、忙しそうにされていました。
神社前では朝市が開かれ、何時もより朝参りの人との出会いが多くありました。








如何にすれば、人類が自己解放を遂ぐべき真理を自覚し得るであろうか、釈尊は、六波羅蜜すなわち、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の六つの到彼岸の道を示された。
神想観というのは、私が修業中に神授せられたる般若の智慧を禅定によって到達せる道である。
動的修行としては布施、持戒、忍辱、精進、が必要であるが、静的修行としては禅定によって般若の智慧を体得するほかはないのである。                             神想観



10月31日(土)のつぶやき

2015年11月01日 05時08分27秒 | コラム・人文

古代より一族の氏神神社である日佐住吉神社の覚書 goo.gl/kUNsZu


肉体人間に何の真実の心があろうか、御仏の慈しみの真心が此の身此のままに我が身を通して顕われるのである。