夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

かぼちゃのお客さま・・・離れて観ること。思善悪(ふしぜんなく)

2020年07月13日 22時59分45秒 | 自然の育み・環境
この大雨降りしきる時に20mの高さの石垣の上の

住宅の菜園からかぼちゃのツルが降りてきて

実をならせてその蔓の先端がまた上に上り始めました。

かぼちゃの壮大なる旅路であります。


 
離れて観ること・・・不思善悪(ふしぜんなく)

ものを観るのに、即いた観方と、離れた観方とがある、

即いて観るときには、事物の渦中に捲き込まれて却って其の真相を見ることが出来ず、

事物の混乱の中に自分も埋没して苦しまねばならないのである。

自分の眼球もまつ毛も自分では見ることが出来ず、

自分の欠点はよくわからず、

灯台の下は却って暗いのである。

心で苦しみをつかめば苦しみがあらわれる。

苦しみは自分自身で仮に顕している姿に過ぎないのである。

そのような苦しみのときにどうすれば好いのであろうか!

親鸞上人の『善悪総じて存知せざるなり』の境涯になり切ることである。

雲の中にいては入道雲の美しさはわからない

父や母や、夫や、妻や、子や、嫁やの美しさが見えないには離れて見ないからである。

宗教的な観方は芸術家の観方の如く、

すべてを離れて観ることによって、

どんなものにも神の生命の生動せる美しさを見出し、

『不思善悪』の境涯に達するのである。

『注』
不思善悪(ふしぜんなく)・・・不思善不思悪(ふしぜんふしあく)善悪の二つを脱して、
唯一絶対の念(こころ)に住すること。



子の愛は母の愛の反映である。



清くしてしかして美しき

わがマリアよ

おん身はかって

ルルドの聖泉の岸壁に

きざまれし黄金の

三輪の薔薇の花を踏んで立ちし

聖母マリアか

わが愛は汚れたれども

君にふれなば

たちまち清まりぬ。


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