夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

若竹のお吸い物

2012年03月24日 19時33分07秒 | 日本の食文化

海の幸の若布、山の幸の竹の子との出会いの季節となり

若布の如く真緑でお椀の底まで透きとおり、

永遠の青竹が大空に真直ぐに伸びていくように、

実直にいついつまでも初々しく育ってほしいとの願いから、

この季節から5月5日の節句の料理とし受け継がれてきました。

このように日本の料理は月々の節目を節句として捉え、穢れを祓い晴れの日として

崇めてきました。

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お彼岸

2012年03月20日 18時15分59秒 | 日記・エッセイ

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午後から雨が止みましたので、

花を買い求めて墓参りいきますと

皆さん思うことは同じで沢山の人出でした。

最近は雨の日が多くて、石塔が綺麗に洗い流されていました。

お念仏と延命十句観音経を唱えてきました。

中日には甘露の法雨を読誦したいと思っています。

帰り道の小さなダムの中で"オシドリ"が仲良く遊んでいて、

季節柄が好くなって来たことを肌で感じ、

爽やかな気持ちの良い時間でした。


愛しき花よ

2012年03月20日 18時13分24秒 | 日記・エッセイ

くる年もくる年も咲き続ける花よ

どうしてあなたは強いのよ

どうしてどんな時代にも生きつづけられるのよ

この胸の裂き裂かれる時にも

どうして可憐な花でわたしを魅せてくれるのよ

憎しみに満ちたときにも

どうして温かい豊かな花びらでかざるのよ

涙で悲嘆にくれた時にも

どうして温かい優しい希望の蕾でささやくのよ

どうしてあなたは喜びの世界でうめ尽くされているのよ

おしえて下さいあなたの誠実さを

おしえて下さいあなたの愛のすべてを

あなたにいだかれ甘い真実の世界へと


まどろみ

2012年03月11日 11時29分35秒 | 日記・エッセイ

久しぶりにお天気がよく、水平線に広がる田園と遠くに霞む山々,

青空を眺めながら車で走っていますと、

風ひかるの言葉がピッタリする季節となり本を読んでいますとウトウトと“まどろみ”

夢想の世界に引きずられる一日です。

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生長の家神性開発第25回信濃練成会

2012年03月11日 11時21分33秒 | 旅行記

0001  写真は当時藤原敏之先生を囲んでの記念写真です。

今日は相愛会誌友会でした。講師の先生から藤原敏之先生のお話があり、生長の家神性開発第25回信濃練成会に参加した当時のことが蘇えりました。当時京都に在住しており東山区祇園の近くの大和相愛会でお話を聞かせて頂いていましたが、生長の家の真理のお話聞きだして間もない頃でした。最初は宇治別格本山練成会、舞鶴の両丹道場等に参加しておりましたが、信濃練成会の評判を聞き参加しました。その当時地方練成会では異色で、沢山の参加者でした。特に東京地区の上品な方の参加者が多く、お山で谷口輝子先生の御そばでお世話をなさって居られた女性の方も参加なさって居られました。私共は親子3人で参加し、私は参加なさって居られる方々のお子さんを別のお部屋で遊ばせていましたが、スピーカーから流れる沢山の耳を疑うようなお話を聞いていましたが、特に印象に残っていますのが、椅子に腰掛けて居られた男性の方の黒ずんだ顔色がズンズンと白くなり、良くなっている姿にただ驚くばかりでした。

練成道場から見おろす松本の素晴らしい風景とお食事時のキャベツの甘い美味しい味が忘れられません。当時参加なされた皆さんありがとうございました。


食の喜び

2012年03月07日 21時57分21秒 | 日本の食文化

食事の時、幼子が口を大きく開き、喜びを表現している姿をみていますと、

その心を一心にして母を見つめ、微笑み信頼し、

求める者と与える母と一体となり不安、恐れ、穢れも無い、

其のままの常住坐臥の法性、真如、菩提の生活が今此処に観られ、

極楽世界が今此処に存在することを新ためて感じました。


大海のように広大で深い功徳

2012年03月04日 14時08分50秒 | 日本の食文化

道元禅師が食事を調える人は、功徳が大きいことを『典座教訓』で説かれています

(典座の心の用いかた)

お米をといだり、おかずを調えたりすることは、典座が自信で手を下し、よくよく注意し細やかな点まで気を配り、心をこめて行い、一瞬といえども、おろそかにしたり、なげやりにして、一つのことはよく注意し気をつけるが、他の一つのことには注意をおこたったりすることがあっては成らない。

典座の職責全うすることは、大海のように広大で深い功徳を積むことであり、この大海も一滴一滴が集まってできているのであるから、ほんのわずかのことでも他人にまかせてはならないし、また山のように高い善根を積み重ねることにおいても、大山はひとつまみほどの土が積もり積もって成ったものに外ならなのであるから、高い山のひとつまみの土ほどの小さなことでも、自分で積み重ねなければいけないのではないか。

『禅苑清規』に「苦い、酸い、甘い、辛い、塩からい、淡いの六つの味がほどよく調っておらず、また軽輭(あっさりとして柔らかである)、浄潔(きれいでけがれがない)、如法作(法にかなった調理がなされている)という、料理の三徳がそなわっていないのでは典座が修行僧達に食事を供養したことにはならない」と言っている。

まず米をとごうとしたなら、そこに砂が混じっていないかどうかよく見、さらに砂を捨てようとしたなら、そこに米が混じっていないかどうかよく気をつけ、このように念をいれてよくよく注意し、気を緩めることがなかったなら、自ずと三徳は十分行き届き、六味もすべてととのい備わってくるであろう。

道元禅師 典座教訓より

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