夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

物質は神の愛の賜わり物

2016年02月29日 22時52分43秒 | 真理の言葉
身をかがめてエレベーターに乗り込み『外は雪が降っている!』と話す外来の患者さん。
帰宅時には時折冷たい突風が吹きぬけ車のドアがあおられました。
昨日とは打って変わって七変化の天気でした。


物質は神の愛の賜わり物

すべてのものに優しくそして深く切に愛して、心から礼拝する態度は人生を深切丁寧に生きることであります。一枚の紙、一粒の米、一切れの菜っ葉、一つの塵(ほこり)でさえも佛の顕れであります。
これらを深く切に愛して礼拝することでその生命が生きてくるのであります。
このようにすべてのものが佛国土であり、如来が説法したまうことであると見るとき、
日常生活の様々の出来事、些細な事にも、愛が現れ、親切さが現れ、
ことごとく丁寧親切さが自分自身の心に浸透して広がるのです。
神棚に献饌(けんせん)した米を庭に散米するとスズメが喜んで一粒、一粒を悉く丁寧に残さずに食べてしまいます。
人間もこのように喜んで一粒、一つ粒のお米を丁寧に愛して頂くことが
佛の生命を礼拝することになり愛することになります。
このような生活をひたむきに実践されますと健康に満たされた明るい希望に溢れた運命へと導かれます。



キリストがある時、奇蹟を行なった。五つのパンを五千人に分けたら食べ飽きて尚籠十二杯に山盛りパンが残った。
そんな事が本当にあるものかと思われますが、聖書を詳しく読むと、
イエスは一片の欠けらも残らないようにそのパンの屑を集めと弟子に命じたのである。
ここに眞に無限供給の原理があるのである。
一片の欠けらもすべて神からの賜(たまもの)なのである。
その賜を尊重するところに、その欠けらが増殖して、ついに十二杯の籠に山盛りのパンとなったのである。
神からの賜を尊重しないで、それは単なる物質的な塊であると、軽く考えているところに、
人間が貧しくなる原因があるのである。
百丈和尚は一枚の菜の葉が川へ流れて行ったのを駈け足で追って行き、
それを拾って『佛物』として有り難く頂いたと云うことである。

『注』
百丈和尚・・・懐海大智禅師・・・百丈懐海(ひゃくじょう えかい)

      中国唐時代の禅僧。江西の馬祖道一禅師の法燈を嗣いだ名僧。
      大雄山に請ぜられて法を説いた。その大雄山は洪州にあり、
      その山は巌石重疊峻嶮百丈(がんせきちょうでんしゅんけんひゃくじょう)なる山であるから百丈山と呼ばれた。
      百丈和尚の俗称もここから出たものであります。
      無門關(第二則)・碧巌録(五十三則)等の公案に登場する。
      八百十四年正月十七日入滅。








 




























2月28日(日)のつぶやき

2016年02月29日 04時46分27秒 | 日記・エッセイ

愛の心は愛の心を呼び寄せます。

2016年02月28日 21時39分07秒 | 真理の言葉
春の風がそよぎ、美空が広がる長崎で研修会でした。

愛の心は愛の心を呼び寄せます。

あなたの内に既に宿っている神の御心である―優しい愛と明るい善意と皆と共に歩む平和を
あなたの生活に見出してそしてそれを積極的に現して行くならば
イエスが『神の国は汝の内にあり』と云った意味が本当にお判りになり、
あなたの生活に温か味のある雰囲気が漂うことになります。
そしてあなた自身が周囲から愛されることになります。 



         
心は即ち神明の舎(みあらか)、形は天地と同根たり

人間は明神から神の御心のたましいを授かり、この世に生まれ出でたのである。
人間の最も尊いのは自分の心(魂)である。
それ故に人間の心(魂)こそは神明(かみ)の魂の寄っているところである。
人間の形である肉体も、天地の生気を受け、その源は天地の源と同じであり、
天地と同じ根につながり、天地と同体である。
人間の心も肉体も天地と離れて存在していない以上、神も天地も人間も同体である。


夫れ神と者天地に先てしかも天地を定め、陰陽に超えてしかも陰陽を成す。
所謂、天地に在てこれを神と云い、万物に在りてこれを霊といひ、
人倫に在りては、これを心という。
心と者神也。
故に神は天地の根源也。
万物の霊性也。
人倫の運命也。

                                        吉田兼倶・・・神道大意

『注』
吉田兼倶(よしだかねとも)・・・本名は占部兼倶。(一四三五~一五一一)
                 室町時代の神道家。吉田神道の大成者。
                 文明十二年後土御門天皇に日本書記、中臣祓を進講する。
                 前将軍足利義政に神道大意を献上する。




2月27日(土)のつぶやき

2016年02月28日 04時50分34秒 | 日記・エッセイ

花吹雪の中のお釈迦様

2016年02月27日 17時57分13秒 | 真理の言葉
花吹雪の中のお釈迦様

しだいに明るさが増し、桃色の花の芽も膨らみ温かさを感じ、花ざかりの道を想い、
生命の躍動と美しさを喜ぶ今日この頃です。

釈尊の母摩耶夫人は、お産のために故郷の城に向かわれる途中に、
城園の池の側に咲く花を手で折られようとした時に産気づかれ、釈尊を産み落とされました。
こうして釈尊は花吹雪の中でお生まれになりました。
また八十歳でタシナガラの樹の下で涅槃に入られた時には、サーラの花は、時期はずれに真っ白な花をつけたといわれています。
白い花のついた枝ぶりが、鶴が羽をひろげたようであったので、鶴林と呼ばれるようになりました。
釈尊は花吹雪の中で息を引きとられました。
花吹雪の中でお生まれになり、花吹雪の中で散っていかれました。
お釈迦様の美しいお姿、尊い御心が顕れている曼荼羅模様であり、今もなお私達、衆生を導いておられます。
まさに尊い花のような潔い佛の道を説かれ、衆生をお救いになられました。

『一切の業障海は、皆妄想より生ず。
若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念(おも)え。
衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す。』

仏説観普賢菩薩行法経

今までの一切の迷妄を洗い浄める為の懺悔は、ただ慈悲と賢さ、善が普く宇宙に広がる実相の普賢菩薩と
一体であると観ずる瞑想(神想観)を修すれば智慧の太陽が迷妄を朝露が太陽によって照らされ消えてしまうように
諸々の罪を消去して本来の人間に具わっている円満で完全な姿が光明燦然と顕現するのであります。



時に十方の佛、各々右の手を申べて行者の頭を摩(な)でて、是の如き言を作(な)したまはん。
善男子、汝今大乗経を読誦するが故に、十方の諸仏懺悔の法を説きたまう。
菩薩の所行の結使(けっし)を断ぜず使海(しかい)に住(じゅう)ぜず。心を観ずるに心なし、顚倒(てんどう)の想いより起こる。
空中の風の依止(えし)する処なきが如し。
是の如き法相は生ぜず、没せず。
何者か是れ罪、何者か是れ福、我が心自ら空なれば罪・福も主なし。
一切の法は是の如く住なし、壊(え)なし。
是の如き懺悔は心を観ずるに心なし。法も法の中に住せず。諸法は解脱なり、滅諦(めったい)なり、寂静なり。
是の如き相をば大懺悔と名づけ、大荘厳懺悔と名づけ、無罪相懺悔と名づけ、破壊(はえ)心識(しんしき)となづく。
此の懺悔を行ずる者は、身心清浄にして法の中に住ぜること、猶ほ流水の如し。
念々の中に普賢菩薩及び十方の佛を見てたてまつることを得ん。
時に世尊、大光明を以って、行者の為に無相(むそう)の法を説きたまはん。

                    仏説観普賢菩薩行法経・・・諸仏廣説甚深大悔法

『注』
結使(けっし)・・・・・束縛・執着・煩悩の異名 
使海(しかい)・・・・・煩悩の海。
顚倒(てんどう)・・・正しい見方。あり方の反対であること。
            さかさまなる考えを持ち正しい理に反すること。

依止(えし)・・・・・力や徳のあるものに依存して、そこにとどまること。
法相(ほっそう)・・・一切のものの真実の姿。清浄な教えの特質。
住(じゅう)・・・・・とどまる。執着、迷執のこと。
壊(え)・・・・・・・・・変化して滅びること。宇宙が破壊すること。
滅諦(めったい)・・・苦しみの消滅した状態こそ理想の世界であるという真理。
         迷いを断ち尽くした永遠な平安の境地が理想であるという真理。
破壊(はえ)・・・・・やぶられること。
心識(しんしき)・・・たましい。こころ。一切の差別的認識。心と思慮と認識。精神活動。
無相(むそう)・・・・・物事には固定的、実体的な存在はない。差別対立の姿を超えた一元の世界であり、
             一切の執着を離れた境地であり、真実の存在は佛の実相のみが実在する。




2月26日(金)のつぶやき

2016年02月27日 04時50分45秒 | 日記・エッセイ

信仰の本義 (愛と奉仕との実践によってたましいは進歩する) goo.gl/fxNNXN


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心こそ運命を形造るものである。



信仰の本義 (愛と奉仕との実践によってたましいは進歩する)

2016年02月26日 22時17分55秒 | 真理の言葉
信仰の本義(愛と奉仕との実践によってたましいは進歩する)

たましいは愛と奉仕とによって発達します。
生活とは仕事と犠牲と奉仕と愛とでございます。
イエスが人に使われんが為に臨られましたように、私達も他のために使われなければなりません。
信用は頭の仕事であるが、愛は心の仕事である。
眞の人格は肉体を動かすことで形成されるよりも、むしろ心を動かすことで形成される。
心こそ人格を形造るものであります。
イエスキリストがいった『行いなき信仰は死である。』は信仰の本義である。




前回の出講の時、今度は隣に座っている高齢の男性が、以前先達の人が、
海で亡くなった人を供養するために仏壇の前でその人の名前を勧請して経を読み始めたら、
即座に座っている横の畳がびっしょりと酷く濡れたと言われました。
これはその人の名前を勧請してお祀りした御縁で、亡くなった場所(海中)に眠る荒霊(あらみたま)が
その亡くなった場所(海中)を袈裟して、ここに幸魂(さちみたま)として顕れて救われて喜んでいるのですと答えました。
このように海中に没した霊魂も名前を呼べば来るのです。
人間は霊的であり、霊界もただ肉体を脱ぎ捨てただけであります。
肉体の声はどれだけ叫んでもアメリカには届きません。また手のひら療法等の磁気波動も届く距離に限界があります。
しかし念(こころ)の思い、祝福の祈り等は瞬時に霊界、現世を飛び越えて世界、宇宙をかけ巡ります。

霊魂は肉体から脱け出たのちも肉体にいた時とまったく同じ状態です。
欲望、知識、経験、思想、習慣、性癖等はまったく此の世にいるときのそのままです。
性格を形成するものは心なのです。
それ故に思想や、感情の動きや、心に思い浮かべられた想像や、此れらによって霊魂(たましい)は審判(さば)かれるのです。
何故なら、内部的な自我の本質的な性格を造りあげるものは、
思想や、感情の動きや、心に思い浮かべられた想像なのでありますから、
此れらは霊魂(たましい)が肉体と云う仮の宿を脱け出たときに隠すべき術もなく人格が露(むき)出しに見えるようなるのであります。
こうして収税吏や遊女が天国上げられのに、学者やパリサイの徒はその光栄から投げ出されたりするのです。

『注』
勧請―・・・まことの心をもって仏、菩薩、神、霊魂等に道場、仏壇、神殿等に降臨して頂くことを請願すること。

荒魂(あらみたま)―・・・亡くなった場所や墓地等に眠る。
幸霊(さちみたま)―・・・家族と共に生活して、家に祀られた位牌等を
媒介としてそこに鎮まる。
























 

2月25日(木)のつぶやき

2016年02月26日 04時52分14秒 | 日記・エッセイ

袖触れ合う縁も他生の縁 (天地一切のものに感謝しましょう) goo.gl/mx6uFt


袖触れ合う縁も他生の縁 (天地一切のものに感謝しましょう) fb.me/4znNQo9TG


風が吹きぬける
心の想いが霞む
のこり香に煌く
貴女の微笑みが
いと優しく映る
御愛の花が茲に
永遠に結実する



袖触れ合う縁も他生の縁 (天地一切のものに感謝しましょう)

2016年02月25日 20時58分32秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
袖触れ合う縁も他生の縁(天地一切のものに感謝しましょう)

何億のご先祖様より選ばれた父と母との深い御縁により、今此処に生かさせて頂く有り難さを感謝しましょう。

前回の出講の時もう一つ質問がありました。
自分の娘の恋人が見知らぬ霊が憑依するような霊的な事象で悩まされ、
ある所で数珠のようなリングを手首にはめたらその現象がおさまったと言われました。
またそのお母さんが娘の恋人である男性と一緒の時は男性にそのような現象は現れないと言われます。
それは貴女様の守護霊の悟りによって、その霊魂が安心しているのですと答えました。
しかし根本的な解決には至っていない様子でした。
そのリングによって、強制的にその霊を排除しますとその時は立ち去りますけれどもその霊の復讐を買うことになります。
根本的にはその霊に対して人間は罪も、苦しみも、病も、迷いも無い、素晴らしい神の子、仏の子であり
霊的実在であることの永遠の真理を説いて理解して頂くことです。
そのお母さんは基本的な霊的なことは理解が出来ている人でした。
その男性に信仰への導きをさし上げたらいかでしょうかと申しますとまだ機会が熟していないと言われました。
それでしたら貴女様からその男性に縁がある霊魂に対して光明のお祈りと聖経『続々甘露の法雨』を読誦なされたいかでしょうかと進めました。
娘の為に読誦致しますと言われました。

その男性の事情を少し説明なされました。幼少の時に実母に置いていかれ、捨てられたと思い、再婚の後妻さんにもコンプレックスを感じ、
男性は実母、継母、両方の母を憎んでいる様子でした。




その出講時には申し上げませんでしたけれども、
その男性は表面上では母に対して激しい憎しみの心で満たされていますが、
母の愛を心の底から求め、母の真実の優しい愛を求めているのではないかと思えます。
母の愛を求めて三千里と申します。
お別れになった実母が既にお亡くなりになっているのではないかと推測されます。
その男性は母の愛を求めているが故に、母の霊魂が現れていると思えます。
またその男性の母の霊魂はただ一人の息子を頼っているのではないでしょうか。
私も実母とは一才の時別れ、養母に育てられました。

袖触れ合う縁も他生の縁と申します。
今この一瞬に出会う縁は、前世、前々世又は来世で出会う深い因縁のある人々であり、また出来事でもあります。
それ故に、この一期一会の全てに有り難く感謝して生きて行くことが神、佛の道であると思えます。


神に感謝しても父母の感謝し得ない者は神の心にかなはぬ。






















 

2月24日(水)のつぶやき

2016年02月25日 04時51分37秒 | 日記・エッセイ

『痛み』と云う観念の根源とその贖い (自己処罰) goo.gl/vwKLIc


『痛み』と云う観念の根源とその贖い (自己処罰) fb.me/4QjVs5roY



『痛み』と云う観念の根源とその贖い (自己処罰)

2016年02月24日 20時56分07秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
『痛み』と云う観念の根源とその贖い(自己処罰)

人間の生命の実相は『佛』であり『如来』であり「神の子」である。
たとい心が迷って『痛み心』を現していても、本当は『痛み心』を観ずる『心も無し』であり、
従って、その本来無い『痛み心』が悟って成る佛もなしであり
況や『心』迷って生じる『痛み心』もないのである。
ただ『極楽世界』の安楽に満ちた本当の姿のみが実在する。

『痛み』と云う観念の根源とその贖い(自己処罰)

痛みは本来的には心が感じるのであります。
物質の岩石や机を打っても『痛い!』と叫ばないのであります。
物質である肉体が『痛い!』とは感じないのであります。
それは人間の心が『痛い!』と感じるのであります。
戦時中、爆風で右腕が吹き飛ばされた人が戦後復員した後に、ある時期が来ると右腕が激しく痛むのです。とっさに左手でその右腕をつかむとその右腕は既に爆風で無いので有ります。
既に爆風で飛ばされた無いはずの右腕が痛むのです。
これはどうしてか言いますと、心に過去の痛みが意識の中に存続しているからなのであります。
このように『痛み』は石や机や肉体の中には存在しないのであります。
『痛み』は人間の心の内(なか)に存在するのです。
例え対症療法的に一つの痛みを治療しても、新たに次ぎの痛みが出てくるのであります。
ですから心の潜在意識に潜んでいる『心の痛みの根』を取り除かないと完全には痛み自身は消えないのであります。
この『心の痛み』は、秘められた自分自身の罪の意識、今まで積み重ねた業(ごう)等の贖い(自己処罰)でもあります。
また痛みは敵対する存在でもあります。
イエスの言葉に『汝の敵を愛せよ』と言う聖句があります。
このように『痛み』は自分自身の贖い(自己処罰)でありますから敵対しないで、
吾が味方として『痛み』を心から赦し、和解して愛することが痛みを軽減する道となります。


この事が『痛い!』というその事実に合掌礼拝してありがとうございますと唱える理由であります。

『注』
    自己処罰―・・・自分自身で自分自身を処罰すること。

             無意識の底に潜んでいる所の『神に罰せられたい欲望』
             あるいは苦痛を受けることによって罪障を償いたい願望。
             自分自身の潜在意識に存在する心理的な暴君。





2月23日(火)のつぶやき

2016年02月24日 05時21分01秒 | 日記・エッセイ

信仰の本質 (祈りは必ず成就する)

2016年02月23日 22時17分06秒 | 真理の言葉
信仰の本質(祈りは必ず成就する)

先日(二月二十一日日曜日)に地元の山間部へ出講してお話をしました。
祈りは必ず実現して現れるのである。と云うタイトルでお話をさせて頂きました。
祈りは神社、寺院、祭壇とか瞑想等などで祈ることのみが祈りの全てではないのであります。
祈りは私達の心の奥深くから湧き出でる生命の念(おもい)であり、宣言(のりごと)であり、
神との人格的な対面であります。
普段日常的に思っていること、また念じていること、唱えていること、呟いていること、
このようなことはことごとく形をかえた祈りであります。
だから痛い!、苦しい!とかを呟いたり、その苦痛を人に訴えている者は、
ネガテイブな不幸等のコトバを心の中で祈っていることになります。
このように痛い!、苦しい!などの不幸を呟いているのは不幸から逃れたいと思いながら、
不幸を招くように祈っていることになります。
人間や物、一切の有情非情ありとし、あらゆるものは本来清浄無垢であります。
それ故にすべてのものが大調和であり、死も争いも病もないのが本当の世界であります。
これが天国であり、極楽世界であります。
この天国、極楽世界を今此処に既に実在していることを認識することが覚りであり、救われる第一歩であります。
このように迷っている心、これから精進して成る仏は無いのであり、
『この身このままで救われている仏』であることに目覚めることが『即身成仏』であります。


聞いて頂いている一人の女性が私は膝が大変『痛い!』と言われました。
貴女の痛みは貴女自身の今までの業(ごう)がその痛みに顕れているのであります。
そしてその業は本来速やかに消えつつあるのです。
しかし『痛いと呟く』ことは、また業を重ねることになります。
それはどうしてか言いますと人間は『痛い!』と思うことの潜在意識の中に他の責任でこの痛みが発生した思っています。例えば長年苦労して仕事をした結果この痛みがあると考えています。また隠れた憎しみが存在しています。
しかし本来は自分自身でこしらえた『痛み』であります。
丁度横に石油ストーブの上にヤカンが乗せられ、蒸気が上がっていました。
このヤカンの水を『業』に喩え、火を『善き想念』、蒸気を『業が消えて行く姿』に喩えてお話をしました。
下からの火(善き想念)』で熱するならば水が蒸発して、水が無くなり『水に喩えた業』は自然に消え去ってしまいます。
しかし業である『痛い!』と呟くことはヤカンにさらに水なる『業』を注ぎ入れることになり永遠にその業(痛み!)は消えないことになります。
だから『痛い! 』と呟かずに、その膝が『痛い!』というその事実に合掌礼拝してありがとうございますと感謝しますと
『痛い!』という観念の事実に隠されている『業である因縁』が自然に消えて行きます。
このようなお話をさせて頂きました。

・・・続く





















 

2月22日(月)のつぶやき

2016年02月23日 04時54分10秒 | 日記・エッセイ

薔薇がバラを愛しないで、どうして薔薇であり得るだろうか。



神の如き素晴らしい母の愛

2016年02月22日 22時16分02秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
神の如き素晴らしい母の愛

フエティシズム(Fetishism) 崇物症(愛玩症)について

金銭崇拝とか、愛する女性その物には魅力を感じないないで、
愛する女性が身に着けている、ネックレス、リボン、靴等などをもって満足している。
これは男性のみにある症状で、女性には見られないのであります。

男の幼児時には、すべての人間が男性器ををもっていると信じています。
よく男の幼児が女児のスカートめくり、女児の下着を下げたりする悪戯をするしぐさがそうであります。
ある機会に女児には男性器が無いことを知り、無くなったのは去勢されたのでなくなったのであると思い、
自分の性器も去勢されるかもしれないと考えることが即ち男の子の幼児期における『去勢恐怖』であります。
これにより父を憎むことになります。
このことがエディプス・コンフレックス(oedispus complex)に関係してきます。
父を憎み、母を愛する、失われた母の象徴的な記念品を愛したい、
これが失われた性器(去勢された性器)の代償としてのフエティシズム(Fetishism)崇物症(愛玩症)なのであります。
このような意味でも女性にはフエティシズム(Fetishism)崇物症(愛玩症)はないのであります。


ある中学三年生が父から買ってもらった腕時計の革のバンドをはずして、紫色のリボンをつけて、
艶かしい女性的な感じの腕時計を結んで喜んでいたのです。
両親は、誰かを愛する代償として腕につけていると思い、そのことを追求すると反抗するのではないかと気をもみ、心配したのであります。
これは母に対する愛情の表現が足りないことであると母親は理解して、一輪挿しに紫の花を生けて、机の上の置いたのです。
そうすると今まで隠すような態度で腕に紫のリボンを着けていましたが、紫の花のことで、安心して親の前でも紫のリボンを着けたまま食事をするようになりました。
しかし紫のリボンはまだ腕に着けたままでした。
母親は自分の愛がまだ足りないと思い、今まで結婚の時、夫の為に一度だけ身に着けた紫色の振袖を切り裂いて、
息子の為に机の前に敷く座布団を作ってやったのであります。
その座布団を机の前に置いたのです。
すると少年はどうしたのこの座布団は尋ねると、お母さんは今まで結婚の時、一度だけ身に着けた紫色の振袖だけど、お前の為に切って座布団を作ったのです。
お前のためならどんなことでもしてあげたいんだとその母は言ったのです。
すると少年は突然泣き出しました。
『お母さん、僕悪かった、僕勉強しないで悪かった。ゆるしてね。今でのことお母さんすまなかった。・・・・・』と
少年は泣き叫んだのでした。
それ以来、腕に結んでいた紫色のリボンは消えてしまいました。
そして今まで勉強しないでふらふらして歩き周り、映画ばかり見ていた少年はしっかりと勉強するようになったのです。
これは子の為にすべてを投げ出し、母の全てを赦し抱擁する尊い神の如き愛のよって
少年は母の心に『完たき母の本当の愛』を感じて癒されたのであります。





少年は母は父よりも私を一層愛していたのだと感じたので、父を憎み、母を憎んで、
その復讐を父母以外の誰かに満たそうと考えていた動機が消えてしまったのです。
精神分析はただフエティシズム(Fetishism) 崇物症(愛玩症)のようなコンプレックスを分析して暴露するだけでは効果がないのであります。
分析して、それを導いてそのその傷口を癒すには、温かい愛と宗教的な深い洞察と慈愛の実践が必要なのであります。

『注』
エディプス・コンフレックス(oedispus complex)

       フロイトによって発見され、理論づけられた。子供の両親に対する愛と憎しみの感情の欲望からなる観念複合体。
       ボジテイブでの形では異性の親に対する欲望とライバルである同性の親に対する敵意として顕れ、
       ネガテイブでの形では同性の親に対しては親愛が、異性の親に対しては嫉妬と憎しみが現れる。
       母、父に心理的に拘束されており、マザー・コンプレックス、フアーザー・コンプレックスとも云います。
       去勢コンプレックスと連合している。