夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

『愛は心の仕事である』・・・外見の美しさより、心の清明さが『死後』高く上げられる。

2018年01月31日 22時58分56秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
島原の子守歌の情景が島原鉄道の列車に描かれています。

『島原鉄道の重役でもあった宮﨑 康平が

妻と離れて我が子を背負い歌った切ない子守り歌です。

以前島原の自宅で一度仕事のことでお会いしたことがあります。

おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の
梨の木 育ちよ・・・・・


神学や教条、教義を信用することは頭の仕事であるが、
『愛は心の仕事である』。



此の世でその仲間の者たちから卑しい人物思われていた人達に、

かえって外見を美しく見せて内の心を汚している人達よりも、

純潔で『聖いたましい』の人達があるものです。

思想や感情の動きや、心に思い浮かべられた想像によって

人は審判(さば)かれるのです。

このようにして造りあげられた人格は『たましいが脱した死後』に

その性格は露出して隠すことが出来ないようになります。

霊界に行って、急に人格が変化するものではありません。

人々は此処に来ても現世と同じ人格なのです。

人々は肉体が滅びた時に立っていた其の地点から出発するのです。

より善くなろうと努力しない限り同じ地点にとどまるのです。

そのことから税金とりや、遊女は天国へ上げられ、学者やモーセの律法を

厳格に守っているパリサイの徒はその光栄から投げ出されたりするのです。

神学や教条、教義を『信用』することから

『信仰』にまで進まなければならない。

そして信じ仰いでキリストの生活を模倣するとき、

吾らは初めてキリストの信者たるの名に相応しきものを得るのである。








怨念の行方

2018年01月30日 21時14分04秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
冬野菜はこの厳しい冷え込みにも

伸び伸びと生長しています。




表面に現われた悪心よりも、

心の内に在る『悪心』はなかなか捨て去ることが困難である。

それは、『悪心』は実在しているという観念からである。

『悪心』は、本当は存在しないのであるから

捨て去ることが出来るのである。


『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』

マタイによる福音書5.8

怨念の行方


怨念の行方は怨念をうけるべき条件に値する対象が存在する時は

その対象に憑依するが、しかしその怨念をうけるべきものが存在しない時には

その怨念は怨念を送り出したその人自身に憑依する。



利己的行為は自己犠牲によってのみ相殺することが出来る。



愛とは煩悩が解脱して

おのづからひらけゆくものである。

私的な愛欲の遠離であり、

釈迦出家の心であり個我の執着の断滅である。

性愛は人を呪詛にみちびくが

愛は人に平安と祝福とを与える。

愛は利己的な執着から脱却して

衆生に平等に慈悲の涙をそそぎかける。







『そのまま、有るがままを幼児のように素直に生きる』・神の意思はある瞬間にフラッシュする。

2018年01月28日 19時54分12秒 | コラム・人文
月1回の研修会でした。
長崎と諫早間をインターネット回線を利用しての勉強会です。

『そのままを生きる』ことを体験された方のお話がありました。

その方は何年も欠かさず神想観(瞑想)を毎日午前3時から実習され、

日頃から『そのままを生きる』にはどのようにすると得られのかと思い悩まれていました。

毎日色々な事に関心を寄せ、懸命に精進なされていましたがある時、

ふと静かな雰囲気に誘われ、深い『静寂な世界』を体験されました。

その体験を機会に『そのままを生きる』ことの意味が直感的に理解でき、

物事を素直に受けとることが出来たそうです。

それまでは常に何事も比較して、相対的な意識の世界に住んでいて葛藤があったそうです。

その方が毎日午前3時から欠かさず『神想観(瞑想)』という禅定を厳修なされた功徳ではないでしょうか。

相対的な意識の世界を脱することにより、

相手、又は自分自身をも縛ることなく全てのものを捨て去り、

自由に放つことが出来、

その結果自分自身をも『真』に自由自在で素直な『そのままの自分』を

生きることが出来たのではないでしょうか。

素晴らしいお話でした。

ありがとうございました。




『かな文字』ほど日本人に大きな恩恵を与えている文化財はないのです。

漢字が大陸から仏教およびその経典が伝わった頃に伝来しましたが、

それを理解し使用したのは古事記、日本書記、風土気の編纂の頃と思われています。

記紀も今まで口承されてきた歴史的な事柄を漢文体に翻訳した歴史書であります。

最初に万葉集にみられるように、漢字の音訓(よみ)を利用して

倭歌謡(やまとうた)そのままを写した『万葉がな』 が発明されました。

そうした経過をへて知識人や僧侶の間に、

漢字を借りるよりより自由自在に自国語が表現される文字を考案しようとする気運が芽生え、

かな文字が創り出されることになったのです。

『カタカナ』は吉備真備(きびのまきび)また『ひらがな』は弘法大師空海が創ったといわれています。

もともと表意文字である漢字から本質的に違う表音字母の『かな文字』創りだしたことは、

日本人の素晴らしい発想であり、すぐれた創造力であります。

かな文字の創案により、この『かな文字』を麹(こうじ)の種として日本文化の発酵が進み、

源氏物語、竹取物語等世界に誇れる文学作品が生まれ出だすことになりました。


      日本の古代・・・海神の伝統








足下から生命尊重を・・・身近に在る生命に愛を

2018年01月27日 21時39分26秒 | コラム・人文
八重の椿、仏の座(ホトケノザ)が寒風にさらされ、

紅色に染まり始めました。

風光る春も、もうそこまで近づいています。




生命尊重の喪失から、

動物性たんぱく質の摂取に何らの抵抗も感じられないようになりました。

食生活にもその影響が広がっています。

歯も野菜等の繊維を噛み切る為の門歯が8枚、

穀類を押しつぶす臼歯が20枚、犬歯が4枚、と

大体自然に定められた食物の割合が決まっているのです。

穀物食が3分の2、副食が3分の1、

その副食の3分の2が菜食、残りの3分の1が魚類、肉食であります。

このように人間の歯も食物をどのような配分で食べたら良いかということが歯並びに現されています。

天が与えた知恵であります。

これにそって穀物、野菜を主食にして摂取なされば健康にもよく、

大地に恵まれた穀物、野菜主体の食生活は自然環境にも貢献することができます。

日本の懐石料理等は本を正せば寺院の質素な『僧坊料理』から発展したものであり、

長い歴史のなかで積み重ねられ、考案料理され安全性等の裏打ちが確りしていますので

世界に『和食文化』が広まったのではないでしょうか。




科学文明が発達して、人間が唯物論的になり、物質で何でも支配出来るような錯覚を持って来て、

物質で生命がつくられると考えて、生命を霊的なものと考えないで、

ただ『物質の生産物』だという考えから、生命尊重ということが失われています。

もっと科学が発達したら、人間に必要なたんぱく質を、生きている鶏を使わないで、

食用になる良質なたんぱく質を化学的に製造するということもでてくるのであり、

科学の進歩は人生にとって悲観すべきことではないのです。

科学の進歩に人間の道徳性の進歩が伴わないところに問題がある。

科学の進歩と道徳の進歩とが並行的にもっと進歩すると、

生き物を殺さないでも、おいしい食物がどんどんできて来て、

食物を奪い合い争うことをすることなどが必要でない世界が出てくるのだと思います。




生命尊重から有情、非情全ての生物、植物等が仲良く共存することが出来き、

平和な時代が必ずやって来ます。












心そのものがその人運命を左右するものであります。

2018年01月27日 00時37分50秒 | 日記・エッセイ
今週は冷え込みました。

とは言え北海道とか東北等と比べると比較にはなりませんが。

外の水鉢は凍りましたが車のフロントガラスは凍結しませんでした。

東京の次男から10才になる姪の歯並びが悪くなっていると心配して電話がありました。

次男は兄弟、姉妹のことによく心を寄せてくれています。



心そのものがその人の運命を左右するものであります。

人相を見れば心がわかり、心がわかれば、その人の運命もわかるということになるのです。



歯の観相も今までの運命、我が心の相(おも)い、環境を現してしています。

歯は一つの歯茎から出た兄弟でありますから、

兄弟姉妹との仲の良いものは、歯列びが正しいのであります。

上顎は固定して動かないのでありますから、上の歯は天命をあらわし

下の歯は動いて大いに努力して噛むものですから、

自分の力で孤軍奮闘して得られる運命であります。

歯にも一本一本観相学的に深い意味があります。

歯が外向きに噛み合っている人は陽気であり、快活であります。

やや内向きに噛みあっている人は陰気であり、無口であります。

昼間悔しい思い等を持ちますと、

睡眠している時にそのストレスの解消の為に潜在意識が歯ぎしりをします。

そのストレスを放置していますと歯がボロボロになったりします。

昔から『噛み合わせ』を良くするということは、

案に周りの人と仲良くしなさいと言うことであります。



恋愛の情熱と永遠の情熱

2018年01月25日 21時32分06秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
2016年の熊本地震で長崎出島の商館の『シーボルト』も泊ったことがある由緒ある寺の

300年程の歴史がある鐘つき堂(鐘楼)が傾き、

復興の為にやっと屋根が出来上がり、5月頃にもとの勇姿が見られるそうです。

江戸時代(1720年)に領主である諫早家の殿様から命じられ、

時刻を知らせるために鐘をついていたそうです。

当時の庶民は寛容な心があったのですね!

今の時代ですと難しいことです。

この地域の浄土真宗の要のお寺さんです。

職場の検査技師の同僚が在職している時にコツコツと勉強し、

京都の本山で研修を受け、お坊さんの資格をとり退職後このお寺さんで奉仕しています。

葬儀の時に時々会います。

もう立派なお坊さんであります。

10代の頃このお寺さんの娘さんであり、

諫早家とも縁の深いお嬢様とお話をさせて頂いた機会がありますが、

もう50年程の前のことであり淡い思い出であります。




恋愛の情熱

彼または彼女の相手に於いて『永遠なるもの』を観ることが出来るのは、

彼自身又は彼女自身の中に『永遠なるもの』が既に宿っているからである。

情熱は、人間の生命に内在する男性の『永遠の理想』と女性の『永遠の理想』とが互いに見出しあって、

互いに認めあって発するところの稲妻の如き閃光であるがゆえに、

その奥には『永遠なるもの』が存在するのであるけれども、

火花そのもの、情熱そのものは、在る時期が来れば消滅するのは、

例えば、春雷がいつのまのかその稲妻の光りを消すのと同じことなのである。





永遠の情熱

永遠の情熱は『永遠なるもの』を対象に於いて見出し得ない限り、

それを持続することは出来ないのである。

大自然は『永遠なるもの』の顕現であるけれども、

人間は『永遠なるもの』の顕現ではないと考えるような傾向が人間の大多数にあるようであるが、

しずかに人間の本性を光明思想に照らして見詰めるとき、

人間こそ『永遠なるもの』の最高の顕現であり、

これに反して、大自然に対するよりも、より大いなる情熱の湧き起きらないのは本当ではないのである。











日々これ好日(趙州和尚)・・・暗黒の人生観から光明の人生観へと

2018年01月24日 17時22分39秒 | 日記・エッセイ
日々これ好日(趙州和尚)・・・暗黒の人生観から光明の人生観へと



冬の川

青空が広く冴えわたり、

風が頬を打ち、白雪舞う。

冬の川は清く、キラキラとひかり、

川辺の陽の下で、仲良く羽を広げている。

近づくと慌てて、いっせいに水に入り、

ゆるやかな清流で気ままに

ゆうゆうと生きている鴨たち。

石の間に間をひとつひとつ飛びぬけ、

いにしえの人々の思いが映る『飛び石』の道。

岸辺の石段を上がるともう鎮守の鳥居なり。




『毎日毎日がその年のもっともよき日であると魂の上に記録せよ』
                                      
                                 エマソン( RALPH WALDO EMERSON )

心がくらりと一転して光明に面する時、

世界が光明に変貌するのである。

あなたの心の中より悲哀の感情をなげすてよ。

憎みの感情をなげすてよ。

恐怖の感情をなげすてよ。








THE ANIMALS  (どうぶつたち)・・・広大無辺なる愛に恵まれている有り難さよ!

2018年01月23日 20時16分07秒 | コラム・人文
THE ANIMALS  (どうぶつたち)・・・広大無辺なる愛に恵まれている有り難さよ

皇后さまの和歌50首をボン大学名誉教授の日本学者、ペーター・パンツァーさんがドイツ語に翻訳して

歌集『その一粒に重みのありて』が17日、ドイツで出版されるそうです。

美智子皇后陛下の歌集が初めてドイツ語で紹介されるそうです。


以前も児童文学のノーベル賞とも云われている国際アンデルセン賞を受けられた『まど・みちお』の作品の中から

最も公務、多忙な時期である1989年に美智子皇后陛下が選択され、

そして英文に翻訳なされた20篇の英詩が『THE ANIMALS  (どうぶつたち)』というタイトルのもとに

書き上げられ、お手作りの小冊子にまとめられ、

アンデルセン賞国際審査委員の数だけ複製され、

海外に送られました。

日本の子どものための詩が、世界の児童文学者の脳裏に刻み込まれることになったのは、

これが初めてのことでした。

後にマーガレット・マッケルダリー女史により安野光雅氏の装丁で日米同時出版されました。



私もこのTHE ANIMALS  (どうぶつたち)という絵本を知ることによって

初めて『美智子皇后陛下』が日本の文化を世界に向けて、

広めて頂いていることをおそまきながら知りました。

有り難いことです。


美智子皇后陛下の英文は簡素な英文であり素晴らしい翻訳でありました。



ひとこと
                         まど・みちお


この地球のうえには、無限といいたいほどのさまざまな生き物が生かされています。

なんと素晴らしい有り難いことでしょう。

その中の一ぴきである人間も、夢つきない、命かがやく日日を、ここでおくることができています。

またこのことから私たちは、間違いなくはっきりと天の声を聞くこともできています。

この地球は人間だけのふるさとなのではなくて、

その無限といいたいほどの生き物たちみんなにとっての、

かけがえのないふるさとなのだという天の声です。

そしていま私は、過分の恩恵につつまれて世に出ようとするこの貧しい声たちが、

その天の声に響き合いますようにと、図に乗って、念じている次第です。


1992.2.10



以前、妻が『子どもの句集』を高齢であられる『まど・みちお』さんに送ったことがあります。

すると丁寧な愛深い優しい言葉で書かれたご返事を頂きました。

2014年〈平成26年〉2月28日に心優しい『まど・みちお』さんはお亡くなりになりました。










先祖供養の大切さ     真理供養(法供養)・・・・・霊魂の浄化の為に 最終章

2018年01月22日 20時42分29秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
東京は大雪ですが、

こちらはまだ風もなく青空がひろがっています。

週明けはもう一つリズムが乗らないようで、足が重たいです。

帰宅時に車から降りて、

一寸足を止めると一羽の野鳥(水鳥)が挨拶に来ました。


先祖供養の大切さ     真理供養(法供養)・・・・・霊魂の浄化の為に


霊界に於いて霊魂が背負う『罪業』を浄化・消滅する道は

二つの道がありますが、自然に消滅する道は『霊魂自身が苦しむことによって罪業を償う』ことにより

その過去の罪業が清算されるのですが、

その方法では長期の時間がかかります。

その事は縁者が長期間その影響を受け共に苦しまなければならないことになります。

祖先及び家系に属する縁者の霊魂が霊界で苦しんでいるのを救う道を講じてやらなければならない。

霊魂の浄化は物質ではないのであるから、

摩擦のしめ木で拷問のようにしめ上げねば浄化できないというものではないのです。

霊魂の浄化は消極的には『懺悔』と

積極的には『真理を悟る』という二つの方法で行われる。

其の一つは過去の罪業を悪うございましたと懺悔して

心の世界でその罪業を否定して消去してしまうことです。

もう一つは人間の本来の姿は仏であり、如来であり、素晴らしい神の子であるという真理が書かれた経典を

霊魂の縁者から読誦(物施に対して法施とも『法供養』とも云います)してもらい

その真理の放送、霊波を霊界の霊魂が感受して

人間の本来の姿は仏であり、如来であり、素晴らしい神の子であり、

もう既に肉体が無いのですから、人間は本来『罪』も『穢れ』も無いことを霊魂が自覚して、

『悪業三昧の存在の世界』から解脱して、『如来の実相世界』へと超入することであります。

『如来の実相世界』へと超入することを『成仏』するというのである。

祖先、縁者の霊魂を成仏させてあげるのが子孫、縁者の務めでもあり義務でもあります。

またその『法供養』をすることにより、

その果報が自分自身に報いられて来て、家族、親族全体の健康ともなり、繁栄ともなるのです。






幽明の境を超えて語る(Speaking Across the Border-line)・・・・・ 神癒 (メタフィジカル・ヒーリング)

2018年01月21日 19時55分48秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
『魂』の訓練の為に長崎の練成会に、

僅かな時間ですが参加して来ました。



知恵の言葉

自己の内に宿るキリストを復活せしめる、これがキリストの再臨であり、

普賢菩薩の『東方浄妙国土』の地上再現なのであります。

これこそ一切苦厄を度(すく)う『神癒』の根本原理である。




人間は本当には死んではいないのです。

愛する人に死別して悲しめる人々よ、その悲しみは死後の生活をしらないからです。


幽明の境を超えて語る(Speaking Across the Border-line)

貴方は私が幽界へ移り行きついた状態を知りたいと思っていらしゃる。

私が死んだ時に、私は無意識の状態に陥ったのです。

と同時に私は自分の母の愛深き保護を受けていたのであった。

この状態で私は貴方かたの時間に直すと二週間の間じーつとしていた。

やがて自分の母と親しい身寄りの者の看護によって私は意識を回復したのであった。

すると、次第にこの新しき世界の脅威と美しさとが展開して来た。

木や花の愛らしさ、山々の荘厳さ、遥かなる湖面の輝き、

それらはいともなつかしく見え、すべてが霊動しているように思われた。

何事が起こったかというと、死の峠を自分はほんとうに通過したと

云うことを理解したのはそれからしばらく後である。

気がつくと私は小躍りした。

何故なら地上に於ける我が苦しみは耐えがたきものであったし、

私は死ぬことを望んでいたからであった。

私は不思議に新しき力が湧き出でるのを覚えた。

そうだ、私は文字通りに再び出生したのだ。

母や身寄りの者の霊魂達は私を美しい家の中に運び入れた。

そこには私の好きであった花が一つ一つ私を出迎えているように見えた。
・・・・・・・・


『注』
 
 神癒
(メタフィジカル・ヒーリング)・・・霊的治療・現象的に手がふれるとか、磁気的流動体がふれるとかの問題を超えところにある、
                  心理的療法を越えた、宇宙の実体は『一』であるから、
                  その一つであるものは完全な姿であるという哲学原理を根拠としている。









人間の肉体が滅した後の存在は如何なるものか?    霊魂の浄化・・・其の五  

2018年01月20日 17時51分58秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
年を重ねて行くと、人生を振り返るよりも是から先のことを考えることが多いようですね!

世間では『終活』と云う合理的な考え方が広まっています。

古代より死後の観念が神話、仏教説話より引継がれています。

生きている間から『死後の存在(生活)』を知ることは

是からさき人生を明るく生きていく上で大切なことであります。

『転ばぬ先の杖』と言う言葉がありますように死後の存在を理解しておくことは

今の生活をより良い心で暮らす事にもなります。

また『素晴らしい人間の本来の姿(実相)』を知るきっかけにもなります。


日本の古代における他界観念     

日本の古代における他界観念は、内陸部(山間部を含む)、及び海岸等の沿岸部とでは

死後の世界の観念が違っていたようであります。

内陸部では居住している場所、村落から近くの山中、又は地下が死後の『魂』がいく場所とされたいました。
 
沿岸部では海岸沿いの洞窟、海の彼方や海底を他界の観念としていました。

万葉集にあらわれた葬制、他界観、霊魂観。

明瞭に魂の昇天をうたったのが万葉集 167 に歌われています。

万葉集 167 日並皇子尊の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂作る歌に

・・・・・神の命 天雲の 八重かき別きて 神下し 座せまつりし 高照らす 

日の皇子は 飛鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます國と 

天の原 石門を開き 神あがり あがり あがり座しぬ わが王 天の下 知らしめしせば・・・・・

『天の原 石門を開き』は現実の横口式石槨の入り口ではなく、

観念の上では高天原の石の入り口(天の岩屋戸)を意味している。

この歌では明らかに死後に天武天皇の魂は昇天したとうたわれている。

このような観念が、歴代の天皇を天照大御神の子孫とする

『皇御孫の命』(すめみまのみこと)の意識が生まれたのだろう。

大嘗祭の本義とも密接に関わるところがある。



地下を他界とする観念は『古事記』、『日本書記』に

火之迦具土神を生んで火傷で『神避りしぬ』・・・・・(死に絶えた)伊邪那美神に逢うために

伊邪那岐神が死者の国である黄泉国(よもつくに)に行き、

伊邪那美神の凄まじい姿をみられた。

日本民族は此処にも『死』は生命の移行に過ぎず『永遠の死』を見なかったのです。



古代中期から中世になると、『山中他界観念』は恐山のように霊山の成立に結びついていく。

仏教の他界観の影響が浸透して、山中に極楽、地獄があるような観念がひろがっていきました。









霊魂の浄化・・・其の四

2018年01月19日 22時22分30秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
霊魂の浄化・・・其の四

今昔物語には『あの世』も『現世』も一つに結ばれた世界で語られた

『因果応報』の仏教説話等が沢山掲載されてあります。

ユング派の心理学者の河合 隼雄は『合理主義』を乗り越え、

多様性を重視したポストモダニズム(Postmodernism)的な知恵が『今昔物語』には多くの示唆が含まれており

二元論的な世界を超越するヒントの素材を提供してくれると言っています。


原因があれば結果を生ずる。これは宇宙の大法である。

これを仏教では『因果は 昧(くらま)さず』と教えている。


悪業を重ねながら現世に於いてその悪業の結果が出てこないということは、

どこかに、悪業の帳尻の総決算がおこなわれる世界があるという証拠である。

その悪業の総決算が行われる世界が霊界及び未来の世界である。

現世で支払いをしていない悪業が霊界に於いて

その悪業の支払いの清算をさせられるために苦しんでいる霊魂がたくさんあることが、

近年精神科学、心霊科学の発達により明らかにせられつつあるのである。

仏教の地獄・極楽説等の通りではないが、霊魂の行く世界には、

地獄とか煉獄ということばで形容されるような多種多様の苦しみの境涯があり、

その境涯にあって、霊魂の浄化作用が行われるのである。

霊魂の浄化とは、汚れ、穢れた霊魂を洗濯するようなものであります。


『注』
     因果応報(いんがおうほう)・・・すべてのものを『因果の法則』が支配し、

                    善因には善果、悪因には悪果が必ずあるということ。

     因果の法則・・・・・・・・・・ 原因があれば必ず結果があり、結果があれば必ず原因があるというのが因果の理。

                      あらゆるものは因果の法則によって生滅変化する。

                      善悪の行為には必ず報いがあるという道理。










   

想念の性質・・・其の三 謙遜の美徳

2018年01月18日 23時46分41秒 | 真理の言葉
壮年層の仲間達の研鑽会でした。

やはり若い人は清々しいです。

そして鋭敏な心で真理の呑み込みが素早いです。

たたけば響くとは此の事です。

若いことは素晴らしいですね!




想念の性質・・・其の三 謙遜の美徳


物質宇宙の背後には大生命なる宇宙霊があるのである。

吾々の『真実の自我は』その精髄において宇宙大生命と一体であり、

宇宙大生命と吾々の『生命』とは一体である。

この自覚を得た程度に応じて、私たちの内部にある霊的な想念の力を応用すれば、

宇宙霊が想念の力によって此の宇宙を創造したと同じような意味において

創造力を発揮し得る筈である。

鋭敏な感受性を持っている人たちは不幸な人たちと考える人々もあるが、

内在の神性から来る魂の高き衝動にも感応し易いし、

外界から来るすべての一層高き霊波や精神的影響力をも鋭敏に感受することが出来ることは幸福なことである。



まことに汝らに告ぐ、

もし汝らひるがえりて幼児の如くならずば、

天国に入ることを得じ。

されば誰にてもこの幼児の如く

己を卑(ひく)うするものは、

これを天国にて大いなるものなり。


          マタイ伝 第十八章 3-4










霊魂の存在・・・『宇宙の大生命』と『吾々の生命』は一体である。 其の二

2018年01月17日 21時26分47秒 | 真理の言葉
霊魂の存在・・・『宇宙の大生命』と『吾々の生命』は一体である。 其の二

六階は窓を閉めた部屋よりも窓を開けたほうが、

温かいという不思議さを看護婦さんがつぶやいていました。

それほど今日は温かかったです!!

全館の空調が一定の温度で管理されているからでしょう。





私達は『霊』の存在を認めるか否かによって生きて行く上で大きな違いが生じます。

もし霊的な存在を認めないであれば、人生は肉体が滅びると共に

その人の愛・個性及び価値、感性、心根も永遠に失われる事になり二度と還ることはありません。

例えば一本のマッチ棒を燃やし切ったならば炭となり、

やがて土にかえりもう二度とそのマッチ棒としての存在は還らぬものとなります。


人間の生命がマッチ棒の様なもろい、頼りの無い儚い『物質』であるとするならば、

人類が是まで叡智を傾け努力、精進をして切りひらいたこの素晴らし世界は

マッチ棒のような儚い『物質の力』で出来上がったのでしょうか!



これは人類が持ち合わせている『想う心』或いは『想念』という力を働かせて偉大な偉業を成し遂げたのです。


このような肉眼のような五感では観じることが出来ない『心の力』・『想念』を『霊的生命』とよんでいます。
 
この『人間の霊的生命』は、宇宙の『大生命の霊的生命』と本質的には同一のものであります。


花が美しいと感じることは、花の生命と自分の生命が一つであるからなのです。

夜空に煌く星に悠久を感じるのは、星の生命と自分の生命が一体であるからです。


宇宙の大生命の霊的生命を『神』と称します。

想念の力=『霊的生命』を『霊』又は『霊魂』といったりします。



光明主義の人生観の持ち主は、

事物を偏って見ないで、

十全の相において観、

それを正しい関係において見る。

         R.W.トライン







先祖供養祭・・・霊魂の浄化。其の一

2018年01月16日 21時09分02秒 | コラム・人文
もう直ぐ一年の中で一番寒い『大寒』ですが、

今日の先祖供養祭は温かい日に恵まれました。

今年初めての地区の先祖供養祭でした。

神道様式の供養祭です。

毎月例祭日を定めて行われています。


江戸時代に『寺請制(檀家制度)』が設けられた影響で仏教様式の葬儀がひろがりました。

その影響で皆さんは神道様式のお葬式、先祖の供養は馴染みが薄いのではないかと思います。


生まれてこぬさきも生まれて住める世も

死にても神のふところのうち

人は死に遭遇して悲しみに沈む。

                    橘 三喜 神道四品縁起

仏教では引導を渡す色々な唱えごとや所作がある。

神道でも鎌倉時代以後、信仰心に根ざし生死を見極めた歌も少なくない、

それが神道引導歌という形で生まれて来たのは、江戸時代中期、

『神葬祭』というものが段々形を整えるに至ったことに伴ったものである。

死んだものはどこへ行くのであろうか。

死者の魂の行方を思うものに対して、過去も現在も未来も、

これを生んでくれた祖神のふところを離れるものではない道理をわかり易く説いたものである。

『生まれてこぬさき』は現世『死にても』は未来のことで

そのいづれもが自分を生んでくれた祖神のふところに(御心)をはなれぬものであることをいったものである。

神道の生みの信仰、産霊(むすび)の信仰が明瞭に言い現わされている。

氏神信仰に於いて『氏神に出たものは氏神に帰る』と説くことも同じ道理である。

何故なら氏神も祖神であり、祖神の現われでないものはないからである。

             


先祖の魂は子孫に伝わる

我が身生まれてあるは、

即ち是れ、先祖の身分れたる故なり

                  林羅山 神道伝授

自分は先祖の分身(心)であるといえる。

祖孫一体、氏神と氏子とは一体であるという信仰が、

神道では明瞭である所以である。




父母はわが家の神、

わが神と

心をつくしていつけ人の子

                     本居宣長・玉鉾百首

わが家の今日あるのは、その初め、父母が私共を生んでくれたお陰による。

その意味で実際の人生に於いては、自分を生んでくれた父母を、

最も身近なわが家の守り神として大切にすべきである。

更にその祖父、高祖父、曾祖父とさかのぼっていけば、

遠い神を大切にするのはよいが、

現実の最も身近な父母を我が家の守り神として大切にすることが、

神まつりの第一歩であることを教えたものである。


先祖供養は今、此処に私達が神様(祖神)・仏様(先祖)に生かされていることに対して

(祝詞・経典・真理の言葉等)を捧げて無条件で感謝することであります。

お蔭を得る為の先祖供養ではありませぬ。


『注』
      神葬祭・・・佛教の葬儀にあたる。