夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

良寛和尚の懺悔と慈悲心

2017年04月30日 15時16分57秒 | コラム・人文
危機管理は普段からの準備と訓練はもちろんですが、それに対応する直感力を養うことが寛容であります。
危機はある時、突然にやってきます。
とっさに判断して対応することが要求されます。
小さな細かい部分にも細心の注意が必要でありますが、もっと大切なことは全体を掌握することであります。
庭先の可憐な花には気がついても、その花の奥底に存在している大いなる大地、広大無辺なる宇宙は見過ごしてしまうことがあります。
この玄関前の綺麗な花の奥に広大無辺なる宇宙、深遠なる神秘的な世界を直感的に意識することが大切であります。
これが危機意識にも普段の生活にも通じることであります。

良寛和尚の懺悔と慈悲心
弟の由之(よしゆき)の道楽息子の馬之助に意見を頼まれた良寛は久しぶりにわが家の敷居をまたいだのであった・
良寛は馬之助には意見をせず和歌や俳句の話に興じ三日間を過ごし、もうわしは帰ると言い出し、
弟の由之は息子の放蕩がなおらないと、老いたわが身のいく末が案じられ、先祖に対して申しわけがない。
あれほど頼んでおいた、馬之助への意見はもうろくして忘れたのであろうかと・・・・
兄、良寛がうらめしく思われた。
玄関へ出て、良寛はワラジのひもを結ぶのに手がかかっていた。
『馬之助、すまないが、わしのワラジのひもを結んでくれぬか』
馬之助は直ぐ飛びおりて、ワラジのひもを結んでやった。
すると結んでいるその手に、ほろりとひとしずくこぼれ落ちた。
馬之助がはっとして見上げると伯父の良寛和尚の目に涙がいっぱいたまっていた。
『やあごくろう、ごくろうと』と言って表に出て去っていった。
不思議なことに、馬之助の道楽はそのとき限り、止んでしまった。

町では、たった一滴の涙で道楽息子の心を改心させたといって、あの坊主はたいしたものだという評判がたった。
良寛はあの涙はあの息子のために流した涙でないと言い、最後の別れで草履のひもを結んでいる時に、
あれだけ頼まれた意見を今しょうと思い、言い出そうとした時に、自分も出家しないときの若い頃は道楽ものであった自分の心の醜さに気がついて、恥ずかしくなり自分が悲しくなり涙が流れたのであって、道楽息子の為に流した涙ではないと言ったのです。


若い一人の道楽息子が救われたのは、良寛が人の過ちを責めないで、我が心の非を観じて、涙を流された深い切ない良寛の仏の慈悲心を、その息子が有り難く観じたのではないかと思われます。

人の悲しみを、我が悲しみとしてうけとるには、自分の苦い経験を通してその悲しみを相手に映し、再び相手の悲しみを摂取して相手の心と吾が心とが愛と云う絆で結ばれなければならない、
そうすることにより相手の悲しみを我が悲しみとして真実にして享けとることが出来る。










寛容の精神・・・(一水四見の譬え)

2017年04月22日 17時41分25秒 | 真理の言葉
妻の診察時間の待ち時間に近くの山里を散歩しました。
青空がひろがり、斜面にはツハブキが伸び伸びと揺れていました。


寛容の精神・・・(一水四見の譬え)

天人は水を珠玉と見る。
鬼畜は水を濃血と見る。
竜魚は水を宮殿と見る。
人間は水を水と見る。

天人、鬼畜、竜魚、人間というようにそれぞれの類に従って見るところが違うのである。
人間も水を水と見るからと思って他の類族も同じ水と見なければならないと強制することは出来ないのである。
人間のみが水の客観的な真理を知っているわけではないのである。
これを道元禅師は『本水なきがごとし』といわれた。

珠玉でもなく、濃血でもなく、宮殿でもなく、水でもなく、本当の水というものが別にあるわけではなかろう。
もし水の実相があるとしても、どうして人間がそれを知り得るはずないのである。
人間が知り得るのは四類の所見の一つである『水』だけに過ぎないのである。
この思い上がった一人よがりの人間中心主義(ヒューマニズム)の思想が根本になって
人間関係のあいだにも一人よがりの不寛容が出てくるのです。

宇宙が人間のために存在するかのように錯覚したのと同じ原理で、
世界や社会は一集団、一階級、一国家のために存在するかのごとく思い込んで行動する。
そこに、救われ難い、『二つの世界』の争い、相反する葛藤が生ずるのである。

わけても禅の真髄はあきらかに寛容にある。
禅の訓練は惨烈をきわめたものであっても、なお仏陀の慈悲を背負っている。
慈悲とは他者、有情非常有りとしあらゆるものの身になって感じる人間最高の能力のことである。
それが寛容ということの真髄なのである。
 





人間の本当の食性

2017年04月20日 21時16分36秒 | 日本の食文化
人間の本当の食性

ミニ菜園にキュウリ、トマト、ミニトマト、ブロッコリー、茄子、サニーレタス、カボチャを
爽やかな五月晴れの日に仲間と植えつけました。
植え付け後に直ぐ帰宅しましたが不思議にもその直後に激しい雨が降ったそうです。
後日会議がありましたのでミニ菜園をのぞきますと、僅か三日間で大きく生長していました。
植物の生長には水が大変重要な要素であることを再認識しました。
若々しい野菜は吾々に初々しい感性と瑞々しい生命の潤いを与えてくれます。

今、旬の山の美味である筍と潮騒の薫りがする若布との出会いの椀物が端午の節句の料理として出されますが、
まだ朝陽があたらない時に生まれ出た初心な筍と海の中に潜っている若布(和布)との出会いを
大自然の一期一会としてとらえ椀の中で一体となる調和の美を日本人は大切にしてきました。
ですから『筍』も穂先部分の香りを失わないように、また『若布』は熱湯の中を潜らせ直ぐ冷水に落とし、
真っ青な緑の色を失わないことが肝要であります。
このように食材の自然の色と薫りを失わないことが日本料理の掟であります。
出来ればだし汁も精進がよろしいです。
さすれば互いの食材の持ち味が出て、調和がとれます。

このように山海の自然の恵みを一皿に大調和せしめるのが日本料理の醍醐味であります。

野菜食を頂きますと健康管理はもちろんですが集中力と直感力が増します。
野菜食をおすすめします。

神は彼らを祝福して言われた。
『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』
神は言われた。
『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木をすべてをあなたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
                                         
                                           創世記 第一章28、29






 

 

心の真実をつかむ

2017年04月18日 21時13分09秒 | 真理の言葉
心の真実をつかむ

ながきよの夢を ゆめぞとしる君や さめて迷える人をたすけむ

明恵上人

吾々の生きている世界は今、山々は若緑に染まり、大地には花が輝き、
美しい世界のように感じられいるようですが、
それは時間も空間もまだ顕われていない世界から観ると束の間の夢であり幻であります。
このように人生の浮き沈み、喜怒哀楽、迷い、病気、一切の苦しみ等が現れている、
現象世界は束の間の夢であり幻であります。

人間は霊なり、生命なり、不死なり、神と一体なり。
人間は光明かがやく、神一元、光明一元の世界を貫く霊的実在であり、
永遠なるものである。

軽やかな衣装を着て肥えた馬に乗り、水の流れるように都を走り廻る貴族たちの生活をみていると、
いまはときめいている彼らの生活もやがて雷光のようにまた幻化(まぼろし)のようにはかなく消え去っていくのだと思い、
人生の無常を嘆く心にさいなまされるのです。
また身体(からだ)が不自由な人々や、ぼろをまとっている人々の生活をみては、
人の世の悲しみが心にひびいて何ともいえない苦しみをおぼえるのです。
このようにして私の目にふれるすべてが私の心を仏道に傾斜させ、
私を仏道の道の修行へとかり立ててしまします。
吹く風にも似たこの想いをいったいだれが引き止められましょうか。

三教指帰(さんごうしいき) 弘法大師空海

淳和(じゆうなん)天皇の詔命(みことのり)をうけて十住心についての本書を著しました。
人々が直ちに妄執(まよい)を乗り越えて、心の真実をつかんでもらいたと願っています。
心の霧を払って、明るい光の中で自分の心を正しく見直せば、そこには無数の宝物がつまっているのです。
それに気がつけば、わたしもあなたも、毎日が新しい生活となることでしょう。

秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)弘法大師空海






魂が愛に生きるとき

2017年04月17日 20時52分42秒 | 日記・エッセイ
魂が愛に生きるとき

院内の窓の向こうは激しい雨が降っている。
気温があがりマスクをかけて仕事をしていると息苦しくなる季節になりました。
エアコンが効いている部署に行くとホッとします。

水も温み、休日には男の子、女の子の声が響きわたり、
共に遊んでいる小さな太刀洗川(たちあらいがわ)も豊な流水となり、
散り敷く花びらと共に諸々の穢れをあらい流しているようである。

能く一念『喜愛の心』を発せば、煩悩を断ぜずして涅槃を得。
                         親鸞上人

愛は決して観念の遊戯ではないのである。
諸々の愛着がことごとく解脱されたとき
真の法愛、仏の愛に達するのである。

悩みの波紋は、必ず消えつつあるものであって、
必ずしも一度にすみやかに消えるとは決まっていないということを知ることが肝要であります。

魂が深切に飢えるとき、人間はこの世に生きていられなくなるほど淋しくなるのだ。
かかる人間にとっては金や寿命などは魂の深切さにくらべると破れた瓦にひとしいのだ。








鶴和尚・・・・・むさぼりの心から放れよ

2017年04月16日 22時03分52秒 | 真理の言葉
鶴和尚

福徳薄くして、貪り、執着(自我)の心で善事を求めることは、その貪欲の心を映して却って足元をすくわれ、良い結果を招くことにはなりません。

鶴勒那(かくろくな)尊者は『いかなれば、わたしの身に、かくも多くの鶴が附いてまわるのでありましょうか』と魔拏羅(まるら)尊者に問うと
お前ははるかむかしの前の世においてすでに坊さんであった。
しかも非常に優れた得道の坊さんであった。
あるときお前は竜宮から招待を受けて出かけることになったのだ。
するとお前の弟子5百人が、われわれもとお前に随従したいと言い出した。

お前は最初、この弟子たちの願い出を許さなかった。
お前は言った『なんじらは、まだ仏法において未熟である。竜宮の大饗応につらなって大ご馳走を受ける資格も力量もまだ備えていない』と

しかし弟子の懇請に負けて竜宮の饗宴に参加させたが、いかにせん彼らの福がうすく、彼らの徳が軽かった。
それを押し切って竜宮の饗宴に参加した因縁により、5百人の弟子は羽毛を生じて鶴となり、
いまもなお生まれ変わり、死にかわりをして、なんじを慕うてなんじに附きまとうているのだ。

鶴勒那尊者は魔拏羅尊者について修行して悟りをひらき、無上の法を得た後、
5百の鶴を深くあわれみ、彼らを羽族の境遇から脱却せしめてやった。


注…釈迦牟尼佛から迦葉尊者、阿難陀尊者と数えて二十三代目が少年聖子と云われた
   鶴勒那尊者である。



名残惜しい

2017年04月08日 22時23分25秒 | コラム・人文
名残惜しい

自分自身が何かを失い、空虚になった時は寂しく、
儚い気持ちになりますが本当は今まで現世で執着していたものが剥がれていく姿であり、
その因縁から遠離して超越することであります。
またそれは新しい生命の躍動する機会でありますから、
自分自身の内なる静謐な囁きに心を傾け、高き理想に向かって行くならば、
魂が磨かれ美しい真珠のような生活となるでしょう。

世界の混乱の最中ににあっても、『我は道なり、我は光なり』と称する
『神なる自我』なる真の汝自身をわすれてはならない。
霊のために毎日を生きよ。
人々の内部に宿る『神の国』を呼び出すために高邁なる想念を放送せよ。
而して『光の指導霊』より送られる祝福の光を汝自身に吸引せよ。
『我は道なり、我は光なり』とあるその『我』とは汝(あなた)自身である。
汝自身の眞の自我なる『神性の火花』である。

アガシヤの言葉







幽明の境を越えた問答

2017年04月07日 21時04分38秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
幽明の境を越えた問答

帰宅途中に携帯電話が鳴り響き、仲間より道場の総務が急に入院したとの連絡がありました。
翌日に見舞いに行き、事情を聞きますと、所謂脳梗塞らしいのです。
まだ眠っていましたが顔色は良くて元気そうでした。
手を握るとピクッと反応しましたので安心しました。
全治3ヶ月の診断だそうです。
先先日不思議なことがありました。

午前四時頃、布団の上でウトウトとしていると、尊い御恩がある先輩であり道場の総務が顔の前に顕われて、
私の名前を呼んで『俺は何処へ行ったら良いのか』と訴えがありました。私は一瞬驚き、途惑いましたが、
『神の御懐へ』と先輩に答えました。

話は前に戻りますが見舞いに行ったときに、奥様に午前4時頃に私の前にご主人が顕われましたと話をしますと、
どんな事を話したのですかとお聞きになりました。
私の名前を呼んで『俺は何処へ行ったら良いのか』と言われましたので、
私がご主人に対して『神の御懐へ』と返答しました。
奥様と娘さんは午前4時頃の事を振り返り、思索をしておられ不思議そうにしておられました。

神は自ら助くる者を助く―しかし神は又他人を助ける者をも助け給うのである。
神は多くの補助霊をつかって働き給うのであって、吾々がこれらの補助霊の一人となり、
助けられたいと望んでいる人々を助けた時、はじめて吾々は自分自身の業(カルマ)をはたし、
自ら完全なる大調和に一歩近づいたことになるのです。

                               アガシャの哲学(運命の力)より




『今』の瞬間に、一切を浄めることが出来る

2017年04月05日 20時06分34秒 | 真理の言葉
『今』の瞬間に、一切を浄めることが出来る。

どんなに悪業を積もうとも、『今』この身此のままで、清らかな自分自身が存在している。
過去にさかのぼって、浄めることが出来る。
罪悪という幻から覚める事こそ、真の実在を観ることができる。
自分自身の心の内にこそ、真の宗教的真実の拠り所である。

過去は過去として無い。過去は『今』の中にだけある。
だから『今』の心によって変貌する。
現象では殺生も泥棒も同じことだ。
殺生というのは人の生命をとって、生き物の生命を盗むことであって、泥棒の一種である。
『今』というのは過去。現在。未来の中の現在ではない。
過去・現在・未来を超越して内在する『今』である。
『今』の瞬間に、一切を浄めることが出来る。


帰命無量壽如来
南無不可思議光

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無し奉る。
『佛如来は来たって来るところなく、去って去る処なく生なく、滅なく過現未来に非ず』。
空間を超越し、生滅を超越したまう、そして過去現在未来を超越したまう、宇宙大生命が法蔵菩薩としてお生まれになった。


        正信偈






変化の中にチャンスあり

2017年04月04日 20時30分29秒 | 真理の言葉
変化の中にチャンスあり

年度替わりは色々と気をつかう事がありますが、
心をリセットして新たなる気持ちで出発する良い機会であります。

恐れずに勇気を持って新しい環境に挑戦しましょう。

神はつねに私とともにあり給い、常に私を護りたまうのである。

私は今、新しき日を迎えたのである。
過去の悪しきもの、好ましからざるもの、見苦しきもの、明るかざるもの、消極的なるものの一切は過ぎ去ったのである。
すでに過去の一切は消え去って、私は新生したのである。
私の心の中には新しく善きもの、好ましきもの、美しきもの、明るきもの、
積極的な想念を神から与えられて新生したのである。





幽玄の世界へ・・・・・

2017年04月03日 20時04分03秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
薄いピンク色の花びらがひらひらと揺れ、迷夢から覚めるような輝きを憶えました。
眼が輝き、張りのある動きで、さわやかさが引立つ新人の研修医、看護師さんが
大勢入って来て院内も活気が溢れる季節です。

この世に生きている諸々の姿や現象は
旅をして宿に泊まって居る束の間の夢の如き世界である。


明恵上人の死夢(しにゆめ

上人夢に、大海の辺に大磐石さきあがりて高く聳(そびえ)え立てり、
草木、果菓鬱(うつ)もして華麗の勝地なり。
大神通を以って大海と共に相具して、十町ばかりを抜き取りて、
我が居所の傍に指し置くと見る。
夢のなかで、来世の世界の華麗な自然を観て、
その夢の世界を現世の世界へ持ち来たして見る。
この夢は死夢なりと覚ゆ。
                                        梅尾明恵上人伝記
ユングの瞑想

彼独特の世界の城を築き、日常生活を避けて、瞑想をして、
内界の世界と接触をして、精進していた。
晩年に光明輝くその城の夢を見て、ある声が聞こえ、
その光明輝く城で住むこと告げられた。




『ほほ笑み』の大いなる力

2017年04月02日 10時59分58秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
『ほほ笑み』の大いなる力

微笑と云うものは魔術的な働きをもっているものです。
微笑は慈悲の顕れであり、大いなる恵みであります。

今夜は仲間と輪読会です。

太陽が落ちて行き、ほのかに色づき始めました。
人間の目は内には向いていなくて、外の外界に向いていますので外界の現象は顕微鏡で見るが如く精密に観察が出来ますが、
自分自身の顔や自分自身の内面の心を客観的に観ることが出来にくいのであります。
特に顔は自分の今ある姿を良しきにせよ、悪しきにせよ其のまま端的に現わしています。
ですから鏡の前で普段の自分の顔を詳しく観察することが大切であります。
意外と自分自身の顔を精密に観察ことは、ハニカミトと劣等感がともない勇気がいりますが、
鏡で自分自身の顔を見て見ると普段の自分のどの様な雰囲気をしているかを知ることができます。
楽しい顔をしているか、陰気な暗い顔をしているか、苦しい顔をしているか、悲しい顔をしているのかが判ります。
もし暗いネガティブな顔をしているならば、これを機会に鏡の前で表情を柔らかくして笑って見てください、
そして今までに経験した楽しいこと、嬉しいことを思い出して『微笑』すると不思議と顔の固さがとれて明るく輝いてきます。

フランスのルーブル美術館所蔵である
『レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (L(Lenona di ser Piero da Vinci)の作品である
『モナ・リザの微笑』の魅力が幾世代にも感動を与えている事実がこの『ほほ笑みの力』を照明しています。








心の自由 (静謐な心)

2017年04月01日 11時35分39秒 | 真理の言葉
心の自由

一日に一回は、息を整え、心の凡ての思いを捨て去り、心を静寂に保ち、明るい善きことのみを心に留めましょう。
一日の全てのものに対して、眼では見ることも、また感じることが出来ないネガティブなものに対しても
『深い慈愛に満ちた神の愛』が潜んでいること観じて、全てのもの対して感謝して、誉め讃えて、
そして明るい善き言葉で書き留めましょう。
さすれば『光明生活』への第一歩となることでしょう・

霊の世界の良き物はまだ肉眼には見えないが霊の世界に網をひろげてこそ、
やがて肉眼見える多くの魚(現象的な良きもの)をうる事が獲ることが出来るのである。
霊の世界に網をひろげるには現象的にはさわいではならないのである。静かな心こそ、『霊の網』である。
静謐の度が深まるほど、その程度に応じて、霊の網はひろがり漁獲高が増加するのである。