夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

『説法印』の神秘に突いて・・・癒しのプラナ

2018年03月24日 20時30分56秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
春休みになり、

朝の登校もお休みになり、

子供たちの弾む動きと、

白い息づかいの生き生きとした、

楽しい風景が見られなくなり、

チョッと寂しいです。



希望の春

青い空と

白い雲と

麦の青さがひろがり、

心も豊かにひろがり、

新しい希望が芽生える

春一色のこの朝よ。



『説法印』の神秘について


釈迦が説法しているときに、『説法印』と称して聴衆の方へ手のひらを向けているのは、

一種の催眠術の於けるパス(Pass 人体磁気想念法)である。

想念は必ずしも神経系統と通じてのみ伝わるものではないのであって

『プラナの体』(又は人体磁気の体)を通して伝わるものである。

神経系統があってもプラナの体が消耗すれば肉体は無感覚となる。

而して人体磁気はオーラ(後光的雰囲気)のように其の人の全身から放散されるものであって、

誰かがその雰囲気の中に入ると、激しい一種のショック又は感動を受け、

時として病気が癒されたりするのである。

病人がイエスの衣の房に触れたときに

『力われより流れ入りて汝に入れり』とイエが云ったとき、

既にその病人が癒されていたと云うのも、

イエスの強烈な磁石的雰囲気の中に入ったときに、

その病人が非常な感動を受けたと云うことを顕している。





視えざる神秘力に導かれよ。・・・麦は踏まれれば、踏まれるほど、多くの実を結ぶことになる。

2018年03月22日 21時27分00秒 | 誌編
希望のメロディー


幼きメロディーが流れゆく

あの銀幕の風景が流れゆく

あの切ない思いが流れゆく

あの望みの世界が流れゆく

あの心ときめくメロディー

あの心奪われるメロディー

あの望み満されるメロデイー

いつまでもつづくメロディー

とわに響く希望のメロディー




視えざる神秘力に導かれよ


植物の根は、自分の『この根』をどの方向に伸ばそうと、

ハッキリと計画したり、

又はその行動を予想したりはしなかったに違いないないのである。

植物が根の方向を定めるのは、

植物自身の意識的、心のハタラキでは決してないのである。

それは『視えざる神秘の力』によって導かれているのである。

山野に生える自然界の植物の根すら、

神の『視えざる神秘の力』は

かくの如く生命の生長を導き給うのである。

万物の霊長たる人間の生命(たましい)の生長を、

神がその『神秘なる力』によって

導き給わないということはあり得ないのである。








一粒の真実・・・極楽世界への道。

2018年03月21日 22時02分30秒 | コラム・人文
冷たい花曇りのお墓参りでした。

満開の山桜が見える墓所で

花を手向け香を焚き合掌礼拝すると

立ちのぼる香が心に沁みいり、

念仏を唱え、経を読誦しますと

爽やかな風がふいて参りました。




一粒の真実

むかし一人の婆さんがいました。

このお婆さんは朝から晩まで『南無阿弥陀仏』を唱えて暮らしていました。

『念仏婆さん』と云われた彼女も寿命が尽きて亡くなり、

お通夜で近所の人が今頃極楽浄土に向かっているであろうとうわさをしていました。

一方死んだ婆さんは閻魔大王の前で地獄行きの判決をうけ、

地獄の黒門の扉を開けその中に叩き込もうとした時、

婆さんがまってくだされと叫んだ。

あたしは娑婆世界におるときは、

念仏婆さんという仇名がついたほどです、

何かの間違いでありませんかと抗議しました。

閻魔大王は何か証拠でもあるのかと問うた。

婆さんは、はいお土産に娑婆世界でとなえた

『念仏の粒』を大八車に二台も積んで来ました。

赤鬼、青鬼がその『粒』をザルにのせ『ふるい』にかけたところ

全部実のない『しいら』ばかりでありました。

閻魔大王がやっぱり地獄に行けと言いかけた時、

赤鬼が走ってきて『一粒だけ実』が入っていると言いました。

しからば、いつ如何なる時にこの『正味の一粒』は発生したのか調べろと言うことでした。

調べてみると婆さんがお寺詣りに行く道すがらで

にわかに雲が出てきて雷が鳴り出し、ついにその雷がピカリ・ドンと落ちたのです。

婆さんは思わず『ナンマイダー!』と叫んで気絶しました。

その時の念仏が『正味の一粒』でした。

そのほかの念仏はみなしいららばかりで、

婆さんは畑を耕して石が出てくると、みんな隣の畑に投げ入れていました。

閻魔大王はたとえ『一粒でも正味の実』があるからには地獄に入れるわけにはいくまいと言い、

この婆さんを極楽に案内せよと叫んだ。

                          
                                       明治の関精拙(せきせいせつ)和尚














愛するものを一遍捨てなければならないのです。・・・すべてを捨て得るものは生命の泉を得る。

2018年03月20日 23時42分07秒 | コラム・人文
冷たい春の雨、花の便りが聞かれるようになりました。

春野菜も春の息吹をうけ健やかに生長しています。

天地の循環の有り難さにただ感歎するばかりです。




生命の喜び

生々流転の世界のひと時を彩る花々、

大地に根つく青麦をふき貫けるいのち風、

雨上がりの水辺に、いと細き柳葉のしなやかさ、

麗らかな春光を浴び、睦みあう生きものたち、

温かさは喜びを招く、明るさは安心を招く、

優しさは平安を招く、真理は永遠の糧を招く、

羽ばたく勇気は未来を開く、

祈りは希望を叶える。

すべてを捨て得るものは生命の泉を得る。

無条件の愛はすべてのものに生命を与える。




獅子児を教う迷子の訣。

前まんと擬して跳躑(ちょうてき)して早く翻身(ほんしん)す。

端(はし)無く再び叙(の)ぶ当頭著(とうとうじゃく)。

前箭(ぜんせん)は軽く猶お後箭(こうせん)は深し。


                           無門関

獅子は愛児を千汊の谷に突き落とすのです。

人間も絶対絶命の境に立たされたときに本当の力が出るのです。

獅子が児を教えるのに先ず、迷っている児と一遍別れなければならない。

迷っている児をそのまま可愛がって置いていたならば、

本当にその迷っている児を悟らしめることが出来ない。

愛するものを一遍捨てなければならないのです。



『注』
跳躑(ちょうてき)・・・踊り飛び上がる。
翻身(ほんしん)・・・早く身をひるがえす。
端(はし)無く・・・思いがけずも。
当頭著(とうとうじゃく)・・・頭をぶっけること。
前箭(ぜんせん)は軽く猶お後箭(こうせん)は深し・・・

      獅子の児を一度目は可哀想そうな気がして軽く突き放つけれども

      二度目は前よりもひどく突き飛ばすこと。




子供の自尊心・・・優しい愛撫と愛の表現 &『無力の理性』と『心情の底力』

2018年03月18日 22時01分24秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
娘が職場で上司から次へのスキルアップを呼びかけれ、

受けて良いものかと相談があり、それを受けると新たなる事象が発生するので、

それに対応することが出来るのかと迷っていました。

未来のことは未来が解決するのであるから、

未来のことについて心配せず、

スキルアップを恐れずに受けて、

『今置かれた位置』を『亀さん』のように

一歩一歩ゆっくり歩むことがよい結果を得ることが出来ます。

そして他の人の仕事を手助けたり、

教えることは他の人の喜びとなり徳となり、

その喜びと徳があなたに巡り巡り廻ってきますよと答えました。



『無力の理性』と『心情の底力』

無意識はいつもあらかじめ存在しているのであります

祖先の生活を後代の子孫から説明するには、本末を転倒しているでしょう。

したがってまた、無意識を意識に因果的に依存しているとみなすのも、

私は間違っていると思うのであります。

むしろその逆のやりかたがただしいのではないかと思われます。



火が私の体をこがすならば、火の実在性を疑いません。

ところが幽霊が出るという恐怖を私がもっているとすれば、

私が単なる幻想に過ぎないという考えに逃避しょうとします。

幽霊に対する私の恐怖も、精神的な起源をもつ心的形象であって、

火と同じように実在性をもっているのです。

というのは幽霊が私に現実の恐怖を与えることは、

火が私に現実の苦痛を起すのとまったく同じであります。



感覚に映る真理は『理性』を満足させるかもしれませんが、

『心情』も捕え、これに表情を与えるような人生の意味は、決して生みださないのです。

けれども『心情の力』は、善しきにつけ悪しきにつけ、

主として、そして最終的にものごとを決定する要因であることが、非常に多いのです。

けれども、もしもこれらの力が私たちの理性に応援に駆けつけないならば、

理性もたいていみずから無力を暴露してしまうのです。

『理性とか善意』とかいうものが、世界大戦やその他の破局的な愚行から私たち守ったためしがありましょうか。



もし心理学者が重大な過ちを犯すまいと思うならば、

『道徳的な態度』こそ彼が考慮すべき実在的な要因なのです。

合理的に論証できぬある種の宗教的信念が多くの人々にとっては、

死活の問題であるという事実についても、これと同じことがいえます。

それからまた、精神的な実在が病気を起したり、病気をなおしたりすることもあります。

文明民族の場合に、精神的な一般表象が部分的に欠如していたり、

これを否認したりすることは、退化の兆候と考えねばなりません。

1934 カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)


子供の自尊心

子供の怠惰、朝寝、不勉強は権力者に対する無言の反抗であることがある。

大人でも権力で拘束せられる場合は、無言の怠惰―ハンガーストライキ、サボタージュを行う。

子供の怠惰も必ずしも人格の低下のしるしではない。

それは子供の自尊心の強さから、

自尊心を傷けられたことに対する反抗心の顕われであることもあるし、

先生や、親や、友達が認めてくれない絶望からの自暴自棄であることもある。



『近代の心のない心理学 』 &  意識は心的現象の必然的条件(conditio sine qua non)であり、心そのもである 。

2018年03月17日 19時06分24秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
春の歓び

雲ひとつない、春日和の野原に、

スマートな土筆がひょっこり顔をだし、

自慢げに悦んでいました。




心のない心理学

意識は心的現象の必然的条件(conditio sine qua non)であり、心そのもである。

近代の『心のない心理学』は、すべて意識心理学であり、

そこには無意識の心的現象は存在しないのであります。

19世紀の後半にいたって『心のない心理学』が生まれました。

自然科学的唯物論の影響を受けて、目で見、手でさわることのできないものは、

すべて疑わしいと思われるようになりました。

いやそれどころではありません。『形而上学』くさいからというので、

汚らわしいとさえ思われるようになりました。

『科学的』とみなされ、したがってともかくも許されることになったのは、

物質とみとめられたものか、

さもなければ感覚によって知覚できる原因から演繹されたものだけに限られました。

精神の実在性に対する信仰は、物質の本質的実在性に対する確信がしだいに

台頭するにつれて影がうすくなり、とどのつまりは―ほぼ四世紀のあいだに

ヨーロッパの思想および研究者の先端的意識は、

精神をば物質的諸原因にまったく依存するものとみなすようになりました。




むかしは、存在する一切のものは精神的な神の創造的意志から生まれたものであるということが、

自明な前提であったように、

十九世紀は一切が物資的な原因から生じるという、

同じように自明な真理を発見したのであります。

今日では、心の力が肉体を組み立てるのではありません。

あべこべに物質がその科学的現象の中から心を生み出すのであります。

この転換は、もしそれが時代精神の偉大な真理の一つでなかったら、

とんだお笑いの種でありましょう。

そのように考えることが時の流行なのです。

したがって、礼儀になかなっており、理性てきであり、科学的であり、正常なことなのです。

精神は物質の随伴現象であると考えなくてはならないのです。

『精神』といわず『心』という場合にも、

また『物質』といわずに『脳髄』

とか、『ホルモン』とか、『本能』とか、衝動などという場合にも、

すべては、この結論に帰着するのです。

心の独立の実在性を与えることは、時代精神に反することなのです。

そんなことをすれば異端者にされてしまいます。

      
                        1934 カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)



眼は物を視ない、耳は音を聴かない、脳髄はものを考えない。

視るのは心であり、聴くのは心であり、考えるのはこころである。

心は自分の便宜のために眼を創造し、脳髄を創造したのである。

ここにいう『心』とは野髄から出る作用ではない。

脳髄を設計したところの『心』である。

それは脳髄を設計したところの『心』である。

それは脳髄以前の『心』であるから『生命』とも『神』と同意義に解してもよい。



『注』

形而上学(けいじじょうがく)・・・五官の感覚ないし経験を超え、相対性を超えた世界を真の実在としてとらえ、
                 弁証法を用いずに、普遍的な原理について理性的な思惟によて探求して
                 認識しようとする学問。
                 『形而上学』に相対する用語は『唯物論』。




誰でもあらゆる物をもって出発する。全てのものが、吾がうちにある。神はあなたの幸福を願っておられるのですから!

2018年03月16日 22時11分13秒 | コラム・人文
花曇り

春の冷たい風が吹きあれるなか、早咲きの桜が満開でした。

院内も異動、退職の挨拶まわりで顔なじみの同僚が少なくなり、

ちょっぴり寂しさがよぎります。

しかし現代は退職した後の人生が大切であります。




誰でもあらゆる物をもって出発する。全てのものが、吾がうちにある。



幸福の天使が出てきて或る日に私に言いました。

『私(幸福の天使)は常にあなたの後を追っかけて走っているのですのに、

あなたは何故そんなに私から逃げるのですか。

もっとゆっくり歩きなさい。

急ぐことは要らないのです。

当たり前に歩いていさえすれば

私はあなたに追い着くことが出来るのです。

それだのにあなたは、どうして私から逃げ去るのですか!



ゆっくり一歩、ゆっくり一歩、と

踏みしめて前へ進みましょう。

必ず幸福の女神は微笑むでしょう。

神はあなたの幸福を願っておられるのですから!











心の窓を開け、極楽浄土は既に此処にあり。

2018年03月15日 20時56分48秒 | 真理の言葉
魅惑の思いが今ひらく、

風にゆれる花のいのち、

春光に映える純白の真実。


心の窓を開け、極楽浄土は既に此処にあり。

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、

往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつ心のおこるとき、

すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり。
                            歎異鈔 第一

『注』

弥陀の誓願・・・阿弥陀仏が生きとし生けるものを救いたいと願い(四十八願)、
その願いが成し遂げられない限り仏にならぬと誓った大慈悲。

誓願不思議(せいがんふしぎ)・・・弥陀の誓願は人間の思いを超越したもの。
                 助かるはずのない悪人を助ける阿弥陀仏の
願力が凡夫の思慮を超えていることをいう。
           

摂取不捨(せっしゅふしゃ)・・・念仏する衆生を残らず救済しようとする
阿弥陀仏の慈悲を表す。

利益(りやく)・・・仏の教えに従うことによって得られる幸福、恩恵。






幼児が親にたよるが如く神(仏)に頼り切れ。

2018年03月14日 22時34分59秒 | コラム・人文
日だまり


院内の白い柵の上に

野鳥がふらりと舞いおり、

あたたかい森の薫をのこし、

何処ともなく翼をひろげ

ビルを越え飛び去りました。

何事にもにもこだわらず、

天の響きに合わせて

舞い遊ぶ野の鳥たち。




念仏の世界には罪悪も業報もを感ずることはないのである。


念仏者は無礙の一道なり、

そのいわれいかんとなれば、 

信心の行者には天神・地祇も敬伏(きょうふく)し、

魔界・外道も障礙(しょうげ)することなし。

罪悪も業報も感ずることあたわず、

諸善もおよぶことなきゆえに

無礙の一道なりと、云々(うんぬん)。


                   親鸞上人 歎異鈔 第七
『注』

無礙(むげ)・・・障りのないこと。さまたげのないこと。何ものにもとらわれず自由自在であること。

無礙の一道・・・何もにもさまたげられない一すじの道。

障礙(しょうげ)・・・さわり、さまたげ。さとりを得るための障害となるもの。

           四種の障害(法をそしること・自己に執着すること・苦しみを恐れること・

           すべての生きものにたいする利益について無関心であること)がある。



愛は癒す力である。

2018年03月13日 19時12分56秒 | 日記・エッセイ
信仰仲間が本部より表彰されるることになり、

先祖供養祭の後にお祝いの集いが催されました。

表彰される先輩からは40年程前、

自宅まで来て頂き、御愛念を頂きました。

若い時から印象深く何事にも捉われない、優しい先輩でした。

妻はそのような先輩に宇宙人とあだ名をつけていました。



人の生涯は愛するためのみ生まれたのである。

愛のみが生命を生かし、愛のみが生命の糧である。

愛が消え去る時すべての事物は光りを失う。




集いの会の前座で

『慈しみ』と『赦し』によって『愛の花』が咲く。

『心』とは如何なるものであるか、

『本当の愛の心』とは如何なるものであるか!

『神を信じること』とは、

『本当の信仰』は如何なることであるか!

についてお話をさせて頂きました。






心の完全解放の為に・・・一切の赦しと一切の感謝。

2018年03月10日 20時33分07秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
講習会への決起集会を終えてホームセンタ―に立ち寄ると

園芸売り場に同僚の看護師さんが来ていました、

家庭菜園ですかと尋ねると、

いや花です!

と返事が返ってきました。

今日は心が開放されるような温かい日でした。

白モクレンもいよいよ蕾がふくらみ

開花まであとひと息です。


本当の『神愈』は神と和解しなければ得られない。

神に和解するとは、

全き信仰をもって神の愛を信じることである。

神は完全であることを信じることである。

神の造りたまいし世界に

『悪が存在しない』ことを信じることである。

不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。


既に赦されているのである。

『汝の罪赦されたり、立ちて歩め』と云うのは

キリストが2千年前のみに言われた言葉のみではない。

常に神は吾々にむかって

『汝の罪赦されたり、立ちて歩め』と仰せられているのである。

此の言葉を信じるものは幸いなるかな。


汝の罪は赦されているのである。

されば吾もまた神が吾を赦したまいし如く、

すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒の思い、一切の怨みの思い、一切の憎しみの思いを、

『愛』と『赦し』とによって置き換え、

更にそれを『感謝』によって光を点じなければならない。





『無からの創造』の存在論と『善の欠如としての悪』という倫理学の関係



近代思想では『自然法則』と『倫理法則』、『物理的なもの』と『道徳的』なものを

異質な存在様式をもつものとして分けてしまいますが

古代思想の世界では両者は理論的に分離されていないのです。


ユングが重視している倫理的基本命題は

『悪とは善の欠如である』という。

『実体としての悪』は世界(現象的世界だけでなく、霊的世界も含む)には存在しないということを意味している。

簡単に言えば『悪とは本来存在しない』ものであるということである。

此の定義と表裏一体の関係があるのが『神は最高善』であるとする定義である。

最高善というのは、悪の要素を一切含まない『純粋な善』である。

神の被造物としての世界には実体としての『悪』は存在しない。











不幸は近づけない。 不幸と云う『暗』は『光明』にぶっかればその一瞬に光明に化す。

2018年03月06日 21時26分52秒 | 日記・エッセイ
不幸は近づけない。

不幸と云う『暗』は

『光明』にぶっかればその一瞬に光明に化す。



先輩宅で仲間と先祖供養をさせて頂きました。

明るい笑顔で出迎えして頂きました。

里山を歩くとまだ肌寒いですが、もう山桜が咲き始めていました。

陽あたりのよい、里山の春は早いです。
 

汝の悩みは神に語れ、人に語らずして神に語れ。

迷いの群集に語って何の甲斐あらんや。



雑念は心を澄み切らす働き、

雲は空気を澄み切らす働き、

雨が降ると空気が清らかになる。



脳髄、知識によって人が救われるならば、

諸々に智学者は救われたであろうか、

救いは貧しきもの、愚かかなる者に示されるのである。




小さな夢、小さな輝き・・・自由と幸福は遠きにあらず、吾が心に既に存在している。(水は平衡を求めて小さな隙間をうめる)

2018年03月04日 16時12分56秒 | コラム・人文
人は富を求めて彷徨う。

人は自由を求めて彷徨う。

人は英知を求めて彷徨う。

人は楽園を求めて彷徨う。

人は平安を求めて彷徨う。



『真』の富、自由、叡智、楽園、平安は

『神の御懐』に存在している。

最大にして最勝の真理とは

『人間は神の子』であるということを覚ることである。




地方の『ニータウン』も老齢化が進み、

空き家化が進んでいますが、

『大都会の大きな団地地帯』にも同じような現象が起きています。

それは後継者がいないということです。

『後継者』は自由を求め、

楽園の夢を描いてその置かれた場所を去って移住したのです。

しかしその『父母』も同じようなことを描いて

『ニータウン』、『大都会の大きな団地地帯』に移住したのです。

『因果は廻る』と言う言葉があります。

その都会の空き団地地帯に、

水は平衡を求めて隙間をうめるが如く、

大陸の人々が移住して来ています。

歴史は繰り返すといいますが、

まさに2400年ほど前の弥生時代以後に

大陸の人々が鉄、銅等、進んだ文化、技術を携えて日本に移住して来ました。

その大陸の血が流れ入りて、今の日本の繁栄となっています。

現代はその反対に日本に憧れて大陸の人々が日本に移住しています。

日本も歴史上初めて多民族の社会にまさに入ろうとしています。

これも人口の減少化、核家族化、人口の密集度が偏っている等色々な理由があります。

地域の親戚、隣人と共に生きることよりも、

個々の希望、夢、スキルアップ、自由等が優先されてきた結果だと思えます。

以前は本家と分家との関係が深かったのですが、

戦後の核家族の普及により一族同士、地域の人々との関係が希薄になりました。

もう少し地域の先駆者から生きて行く知恵を身につけることが肝要と感じます。

最近、収入が減少しても、故郷に帰省して職に就いたり、

卒業後に地元に就職する若い人が増えています。

良い傾向であります。



伸びようと思う者よ。


伸びるためには今までは

他から奪いとることによって自己が拡大すると思っていたのである。

身を献げたる女性は男性に縛られたように見えるが、

実は男性を自由自在に支配する力を得る。

『伸びるとは与える』ことである。

『与えることによって自己が拡大するのである』。






女性の天分・・・柔者は能(よ)く、剛者に勝つ。

2018年03月03日 20時28分17秒 | コラム・人文
お雛さまを見ると心が柔らくなり、

こころ豊かになり、

また穏やかになり、

母の薫りがただよいます。



古くは一月一日(元旦)・一月七日(人日の節句)・二月二日(節分)

三月三日(上巳の節句)・四月四日・五月五日(端午の節句)

六月六日・七月七日(七夕の節句)・八月八日・九月九日(重陽の節句)・十月十日

十一月十一日・十二月十二日等。

古くは十二ヵ月それぞれの月に『祓い日』を定めて、『祓いの行事』が行われていました。

その中の奇数を『陰の日』としてもろもろの『穢れ』を祓ったのです。

日本は割ることも出来ない、分割もできない、合理的でもない、

奇数を神秘な数としてあつかいました。

また一霊『ひと』・二『ふた』(陰陽)・三位『み』と

古神道で鎮魂(心を鎮めること)、身をきよめ、その場所をきよめるはたらきをする

数歌(かぞえうた)にあるように、

『根元の一霊』と『陰陽の二』が結ばれたのを(三位一体)としてあつかいました。

阿弥陀三尊とよばれるように、また天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神産巣日神(かみむすびのかみ)

この三柱の神を造化三神といい「独神」(ひとりがみ)というのがその例であります。


一月七日(人日の節句)・三月三日(上巳の節句)

五月五日(端午の節句)・七月七日(七夕の節句)・九月九日(重陽の節句)

を五節句(ごせっく)として現在残っています。




流し雛


平安貴族の間に、三月上巳の日、紙や緒で作った人型を流し、

子女のもろもろの穢れ、わざわいをこの人形に負わせて流し送り、

水辺の祓いの行事とする、流し雛の風習がありました。

高松宮殿下のお雛様は昭和五年二月四日

御成婚のお支度としてお持ちになったものです。

徳川家にお興し入れなった實枝子母堂がお持ちになった

親王雛に準じて作るように京都の田中彌兵衛に御注文になりました。




女性の天分

男性に男性の道があり、女性には女性の道がある。

人生は男性と女性とによって成っているから、

女性の天分が発揮せられないとき、不幸となり暗黒となるほかはないのである。

女性の天分は、愛と美とやさしさと、純潔とで、すぐれている。

『女らしい』と云うことはその肉体と云う衣装が示していますように、

肉体の動作も、言葉も、表情も柔く温く潤いがあってゴツゴツしていない

優美な愛情のあふれた感じをもっているべきなのです。




今の一瞬を、神と、ともに生きているのです。・・・ユング((Carl Gustav Jung)の夢

2018年03月02日 21時23分44秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
あかりがともる家


ふーと風船の如く、

こころが飛んでゆく、

根なし草の如く、

留まることもなく飛んでゆく、

あのときのひとこまのおもい、

家々に灯りがともる夕べ、

たたずむあの時のおもい、

あこがれがときめき、

こころがときめく、

あかりがゆれる、

こころがゆれる、

こころがおののく、

こころがふるえる。

うつる灯りの影、

あかりがともる家に、

ゆこう、ゆこう、ゆこう、

あの、灯りのいえに、

あの、ときめく家へ。



ユングの夢


どこか見知らぬ場所で、夜のことだった。

私は強風に抗してゆっくりと苦しい前進をつづけたていた。

深いもやが、あたり一面にたちこめていた。

私は手で今にも消えそうな『小さなあかり』のまわりをかこんでいた。

すべては私がこの『小さなあかり』を保てるか否かにかかっていた。

不意に私は、何かが背後からやって来るのを感じた。

振り返ってみると、とてつもなく大きい黒い影が私を追っかけていた。

しかし同時に私はこわいにもかかわらず、

あらゆる危険を冒しても『この光り』だけは夜じゅう、

風の中で守らなければならぬことを知っていたのである。



ユングは目が覚めたときに、

夢のなかの『大きい黒い影』が自分自身の影であることがわかったのです。

この『小さなあかり』が私の意識であり、

『このひかり』は私のもっている唯一の宝物であり、最も偉大なものである。



ユングの基本姿勢は、

現在意識と潜在意識のどちら側にも

平等に見つめていこうとしていたのです。

ユングは自分の意識のあかりを、

それがいかに『小さく弱いあかり』でもあっても

その小さなあかりを大切にしていこうと言う決意のあらわれである。



熊本の震災で被害をうけた、安勝寺の鐘楼が復興しました。