夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

自然界の不思議(自然農法)

2024年04月10日 23時26分13秒 | 日記・エッセイ
令和6年4月日(水)

自然界の不思議(自然農法)

庭の芝刈り、7本の松の剪定を始めました。

去年は庭木の剪定、小さな畑も休耕していましたので大変です。
しかし不思議なことに、休耕していた畑に今まで見たことがない花々が咲き、
植えもしない、肥料、水もやらないのに大きな一本の大根が実りました。
帰省した何人かの孫達がやっとのことで引き抜きました。
孫達には大変貴重な体験でした。
自然界は不思議なものです。



1854年に出版されたウォールデンソーロー作 『森の生活』で書かれた
自然農法を思い出しました。

1854年に出版されたウォールデンソーロー作 『森の生活』
1879年5月16日改変第冊発行 岩波書店
ウォールデンソーローは神秘主義者の『ラルフ・ワルド・エマソン』からも多大なる影響を享けました



芸術・自然・唯一つ心

画家が自然を見てその意義を表現する場合、彼が自然に内在する意義を捕捉することが出来るのは、自然そのものの中に『則ち心的なるもの』があるからである。
自然も決して機械的偶然の物質集合体ではないのである。






肉体的な現象世界を失う事で、かえって心の中(うち)に浄められた 美しいものが目覚めます。

2024年04月07日 21時26分09秒 | 日記・エッセイ
令和6年4月7日(日)

肉体的な現象世界を失う事で、かえって心の中(うち)に浄められた
美しいものが目覚めます。

今日は半身不随で言葉が出ない、息子の面会日である。
人は当たり前の生活をしていて、
或る日突然にその生活を悲劇的に失う事で、
肉体的にも精神的にも、どん底に追い込まれますが
しばらくすると心の奥底から
きよらかな浄められた精神が目覚め、
周りに清々しい息吹が広がります。
人間の素晴らしい心根です。



心の法則を知るものは運命の自由を得るのである。

心こそ自分である
心ひとつで幸福になれる。
心に輝く喜びの時刻だけを記憶しましょう。
朗らかに笑って、明るく陽気に生きる



天は高く地は低く、
天に太陽輝き、
地に水分潤う。
陽気を受けて、地にものが育つのは
永遠にかわざる真理である。




心に禍を描かない!!

2024年04月05日 15時13分15秒 | 日記・エッセイ
令和6年4月5日

長年冬眠状態のブログを冬眠明けの亀のようにゆっくりと再開します。
3月末で35年勤務した病院を退職の予定でしたが・・・・・
事情により年休を取得して4月末までの勤務となりました。
現在、3年前から隣街に住んでいます。
この街は国の施設が多く桜の木が沢山植えられていて
桜見には恵まれており、家内も喜んでいます。
また全国でも珍しく人口が毎年、着実に増加している街です。
大きな屋敷の旧家が多く、公民館には『和を以て貴しとなす』
の額が掲げられた、保守的な町に住んでいます。
冬眠期間の4年間は世界、日本共々に激しい変化と変貌があり、
困難な状況に置かれていますが、
明るく、希望に満ちた世界が開かれる事を切に祈るばかりです。
そう願われずにはいられません。



心に禍を描かない

『心に禍を描いたら、最初は主観的のみに存在する禍が客観的に形造られ、
禍の渦巻きの中にみずから溺没する』

自分の心をきよめることによって、全世界を浄めることが出来るのである。







春めく野原に小さき花々・・・すべての存在は、われわれを祝福している。

2019年02月25日 20時33分42秒 | 日記・エッセイ
帰宅時にマフラーが要らなくなりました。

素早く指紋認証の反応をする為に

スマホの明るい色の手帳形のカバーを外したところ、

今度は黒色のスマホの置き場所を探すのに大変でした。

再び明るい色の手帳形のカバーを購入しました。

何事も楽なやり方は思い通りに運ばないようです。

やはりゆっくりと丁寧に穏やかに過ごすことが大切ですね!


知恵の言葉


すべての存在は、われわれの願いを叶えるように協力している。


どんな人間にもダイヤモンド以上に

高貴な輝く美しい神性が宿っているのである。


人間の肉体が60才、70才、80才になったからとて、

永遠の寿命に対して依然として赤ん坊である。




仏の座の群生


明るい希望に輝く! 新しき年を迎えましょう。

2019年01月02日 16時58分28秒 | 日記・エッセイ
謹賀新年

旧年中は親しくご愛念を頂き有難うございました。

心より御礼申し上げます。

新しき新年を迎え、

貴方様に永遠なる愛の御光りが降りそそぎ

明るき運命と平安と御幸福と御健康を

心よりお祈り申し上げます。

今年も宜しくお願いします。


今年は7家族の内5家族が帰省しました。

私たちの家族と孫を含めますと総勢26人になりました。

遠方の家族は我が家で宿泊しますので大変な賑わいです。

今年も東京の次男坊がスポンサーとなりご奉仕していました。

それぞれの夢を描きながら生長して行く姿を見ていますと

孫たちの輝く瞳と生命力、それを支える働き盛りの親の姿が印象的でありました。



私は明るい心で新しき年を迎える。

私は『今』生まれたのである。

過去の悪しきもの、見苦しきもの、

消極的なものの一切を捨て去ったのである。


そして私は『今』新生したのである。

『今』生まれ変わったのである。

これから明るい心と美しきもの、

善きものと積極的な想念を把持して

悲観的な想念感情を捨て去ったのである。

私はどんな困難をも克服する力と叡智とを

神から与えられているのである。


私は神の子である。

私は永遠の生命である

神はつねに私とともにあり給い、

常に私を護り給うのである。




無条件で与える愛

2018年12月22日 22時28分06秒 | 日記・エッセイ
暖かい冬至を迎え、

これから明るさに満ちた

光明の日々が始まります。

職場の忘年会の抽選で一等が当たりました。

このような抽選会で一等を引き当てたのは

此れまでの人生で始めての出来事でした。



無条件の愛


暖かいストーブには人が集まる。

愛の在るところに人は身をよせる。

なぜなら愛はすべてを癒すことが出来るから。

笑いのあるところに穏やかさが満ちている。

笑えば怒ることが出来ないから。

聖なる言葉には魂の糧が満ちている。

魂の糧が満ち満ちるとそこに天国が顕れる。



吾がうちに、神が今此処に、そして天国が今此処にある。




妖艶な魅力ある曼珠沙華(まんじゅしゃげ)・・・過去を捨てよ。おまえは今死んだのである。おまえは死んだと思え。おまえは今生まれたのである。

2018年09月16日 20時23分34秒 | 日記・エッセイ
夏の施餓鬼供養の卒塔婆をちょと遅くなりましたが、お墓に納めてきました。

畦に曼珠沙華が咲き始め、見上げると青空が広く高くひろがり、秋の深まりを感じました。

墓や畦に咲く真赤な『彼岸花』が天上の蓮の華に例えられ曼珠沙華とよばれ

また毒性豊かな性質ゆえに冥界への案内のようにもあつかわれている

生と死(天国と地獄)が同居するような、妖艶な魅力ある華であります。




まさに


過去を捨てよ。

おまえは今死んだのである。

おまえは死んだと思え。

おまえは今生まれたのである。

おまえは今新生したのである。


と仏の声が聞こえてくるようであります。



大乗経の無量義、経菩薩法、仏所護念と名くるを説きたまう。・・・・・・

是時、天より曼陀羅華、摩訶曼陀羅華、曼珠沙華、摩訶曼珠沙華を雨ふらして、

仏の上、及び諸々の大衆に散じ、普仏世界、六種に震動す。

      
                        法華経・・・序品第1


『注』
普仏世界・・・三千大千世界(ありとあらゆる、数限り無い世界)

六種・・・・・地・水・火・風・虚空・識。                        
 





                                                            
                       
                                                             

施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない

2018年09月15日 10時41分30秒 | 日記・エッセイ
北海道地震の後、電気等のインフラのことで様々な議論が交わされています。

勤務している病院も地域の災害拠点病院であります。

過去には雲仙の火砕流、2キロ程離れる所でのJR特急列車の転覆事故、

最近では熊本地震の際、5弱の揺れがありました。

当病院からもDHEATチームとして熊本に派遣されました。

その度にシステムも進化してきました。

現在も水も井戸からくみ上げ、重油を使った自家発電、ヘリポート、調理室のオール電化等の

設備を整えていますが、その設備その物が破壊されたら裸同然であります。

その時は近くの同じ災害拠点病院から援助を受けることになります。

現在入院している患者さんも高齢のかたが沢山おられます。

そのようなことを思いますと、

最後には一人一人が寄り添い、共に助け合うことが最大の力になります。



施しをするときには

施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない、

あなたの施しを人目につかせないためである。

そうすれば、隠れたことを見ておられる父があなたに報いてくださる。


マタイによる福音書6-3・4






文明の破壊・・・天地と我れと同根、萬物と我れ一體なり。

2018年09月08日 21時41分08秒 | 日記・エッセイ
電気の実用化で私達は多大な恩恵に恵まれて来ました。

それを失うと大パニックに陥ります。

其れこそ現代文明社会からの追放を意味する事となります。

瞬時にして古い時代の生活に変貌し、

それに対応すべく、奥底に隠れていた能力DNAが反応して

如何にすれば生き延びようとする思考が発現します。

此のことが人間の偉大なところであります。

共に生きようとする親和性、協力性、忍耐、

他の人への思いやりなどの善性が

発揮されるところが人間の偉大さであります。




天地同根(南泉如夢相似)


天地と我れと同根、萬物と我れ一體、

也(ま)た甚だ奇怪なり。

南泉庭前の花を指して、大夫召し云く、

時の人、此の一朱の花を見ること、

夢の如く相似たり。



天地同根論は怪しいと思われる程素晴らしい。

現象世界の出来事は

美しく咲いている牡丹の花に似て、

儚い夢の如し。

碧巌録第四十則   天地同根(南泉如夢相似)



『注』
南泉・・・・・南泉和尚。

大夫(たいふ)・・・官名。陸亙(りくこう)大夫のこと)

一朱の花・・・牡丹の花。







指が無くとも天地とともに立つ大生命

2018年09月05日 16時06分51秒 | 日記・エッセイ
隠田

湖底の水が減少して以前の田圃が現れ、

まるで先祖返りのようである。

一昔の賑わいが蘇る。

現在と過去とが同居している不思議な光景。



倶胝(ぐてい)和尚、一指頭をたてる。

倶胝和尚が禅問答で一本の指を立てるのは此の指に大天地が立っているのと同じであった。

それを見ていた小僧がまねをして、人が問いかけると何でもかんでも指を立てていました。

倶胝(ぐてい)和尚が或る日小僧を呼んで

『如何なるか是れ汝』と問うた。

小僧は何時もの様に一本の指を立てた。

『この指、汝ならば此の指切断せんにはいかに』と言って

倶胝(ぐてい)は小刀で小僧の指を切ってしまった。

此の指が小僧なら切って其処に置いても返事をしそうなものである。

しかし切られた指は血が出て唯の物質としてそこに転がっているに過ぎない。

童子負痛號哭して去ろうとしていたら、

小僧待てと言い『如何なるか是れ汝』と再び前の問いを繰り返した。

しかし小僧は指を立てようにもその指は切られて無い。

真似ようにも真似られない。

小僧が困っている時に倶胝和尚はこのように立てるのだと言い、

もう一度指を立てて、小僧に示した。

小僧は成るほどと気がついた。

人まねの指ではない、

形の指ではない、

指が無くとも立つ指が自分である。

指が無くとも天地とともに立つ大生命、

それが自分であると小僧は悟った


無門關 第三則 倶胝竪指








太陽と水と風と大地に生かされている、逞しい稲の生命力。

2018年08月31日 22時52分10秒 | 日記・エッセイ
赤とんぼの群れ


真夏の喧騒から


静寂な秋への予感を


感じるのであろうか。


まだ照りつける水面を


赤とんぼがキラキラと群れる。





暑い夏が過ぎ行き、

毎日救急車の赤色灯が点滅する

忙しい院内の喧騒も落ち着きました。




不二の光明は宇宙に遍満する陽光の如し。


諸宗の真髄を礼拝し、帰一の大願に参ぜむ。


懺悔の為に奉仕し、報恩の為に行乞せむ。


達観すれば実にも此の世は寂光の浄土、妙楽の天国。


 
                                    懺悔の生活 西田天香








輝きしい実績を残した元プロ野球選手・某氏の原光景・・・甲子園の一途な青春の血潮

2018年08月24日 21時39分29秒 | 日記・エッセイ
自分本来の姿を見失い、深い闇の淵で苦しんだ某氏が

秋田の金足農と大阪桐蔭との決勝戦を甲子園の最上部から観戦し、

甲子園の応援と互いの選手の清々しい戦いの中に自分自身の身を投じてつぶやく、

『なんか夢みたいな……。夢なのか、現実なのか、わからないです。』

10代の自分自身の輝かし本来の瑞々しい心が蘇り・・・・・・

『今までは悔やんでばかりの日々を過ごしていましたけど、

また、甲子園に力をもらった』と告げ。
 
これで明日から、少しは顔を上げて、しっかりと地に足をつけて、生きていけます』と言って

某氏はいつまでも甲子園を去ろうとしなかったそうであります。

某氏に気高き魂の復活に、心より声援を送りたいと思います。



罪悪感からの癒しは、より気高き魂がつくられる機会です。

私たちは自分の間違いから生み出した苦しみを

心理的そして精神的、霊的な成長の糧へと変えます。

安らぎや英知や愛や喜びという永遠の果実は

自分自身の悩みという種によって実るだということを

私達が自分の体験から理解するならば勇気が湧いてきます。

               Joan Borysenko, Ph.D.
  


ある人は言う、世界には涙の価値しかないと。

だが私は言おう、そこは魂がつくられる場所だと。

   
                     キーツ



済んだことの中に生活せず、

今の中に生活せよ、

今は常に生きている。

今の中にはあらゆるもなが輝いている。

今は常に新しく、

今は常に喜びに満ちている。






施餓鬼会・水子供養・先祖供養・・・永遠なる、安楽に満ちた平安への道のり。

2018年08月20日 19時23分05秒 | 日記・エッセイ
旧藩主、諫早家の菩提寺である浄土宗 常楽山九品院 慶巌寺で施餓鬼会(せがきえ)の供養がありました。

境内の水子地蔵の前で水子供養、施餓鬼供養の後に先祖供養が行われました。

沢山のお坊さんがお堂を回り散華をなされますとお堂が浄まり、

お坊さんから当家の先祖様と戒名、施主が唱えられますと

読経のなか香を手向けて合掌、お念仏を唱えお参りしました。

以前は旧暦の七月十五日に『盂蘭盆会』が行われていたそうです。

その時期はちょうど満月の頃であり、送り火と満月の光に照らされて、

ご先祖様がお浄土にかえって往かれるそうです。



月かげの いたらぬさとは なけれど ながむる人の心にぞすむ

                                             法然上人

先祖供養はご先祖様と私たちと未来の次世代へのバトンタッチの機会であり、

ご先祖様と自然と私たちが共に生かされている因縁を結ぶ素晴らしい法会であります。

そして飢えに苦しむ一切衆生に往生を祈る施餓鬼供養と先祖供養の功徳により、

ご先祖様、私たち、有情非情、生きとし生けるもの、有りとしあらゆるものを

平安な世界へと誘う大切なおつとめであります。




人生はすべて、仏の光を浴び仏に向かって歩むところに

その意味があるという教え―は、

教理(ことわり)も利益も最も奥深いものです。

自らも他をも、兼ねて利益し済度(さいど)します。

獣や禽(とり)たちも例外ではありません。

春の花はやがて枝の下(もと)に散り、秋の露ははかなく葉の上で沈(き)えていきます。

逝(い)く川の流れは常に流転して住(とど)まることがありませんし、

急風(つむじかぜ)は幾たびか、音をたてて過ぎかつ消えていきます。

このように六塵(色・声・香・味・触・法)の世界はすべて無常であり、

人々を溺らせる『迷いの海』であり、常・楽・我・浄という四っの特性を備えた涅槃の境涯こそが、

彼岸にそびえる目標の岑(みね)なのです。

すでに三海(このよ)は私たちの真の自由をさまたげる束縛であることがよくわかりました。



                            弘法大師空海・・・三教指帰(さんごうしいき)


『注』


済度(さいど)・・・迷える衆生を導いて、さとりの境涯に救い渡すこと。
六塵・・・色・声・香・味・触(ふれられるもの、感覚器官)・法(思考の対象)
     人身にいって本来清らかな心をけがすから塵という。
常・楽・我・浄(じょうらくがじょう)・・・永遠であり(常)、安楽に満ち(楽)、絶対であり(我)、清浄である(浄)
                     ためであ る。
涅槃・・・まよいの火を吹き消した状態。











秋田の金足農の2ランスクイズ! ・・・  素晴らしい直感力

2018年08月18日 23時34分04秒 | 日記・エッセイ


直感力・・・ものごとの本質を『其の儘の心』で直接的に捉えるには―

娘が秋田に嫁いでいますので、奥様と一緒に金足農を応援していました。

秋田の金足農が滋賀の近江を2ランスクイズで逆転さよならゲームを決めました。

アットいう間の出来事でした。

2塁走者が独断でホームまで走ったそうです。

この2塁走者は2ランスクイズが必ず成功出来ると直感で感じたのでしょう。



ある人はふと思い付いた事を実行して成功を収め、ある人は失敗をする。

此の思い付きの差は何処から来るのででしょうか、

これは全力が出せる心身の鍛錬と信念の力ではないでしょうか。

そして結果に捉われない明るさと『其の儘の心』だと思われます。





道元禅師は祇管打座(しかんだざ)と言われたのであります、


『祇管』というのは『只ひたすら』ということです。


『打座』と云うのは打ち座るということです。


只ひたすらに打ち座る―どんな計らいもせずに、


生まれたままの生命其の儘になって座っている。


その工夫を用いないで生命其の儘で座っている『其の儘』が仏の姿である。


ただ座って一切の『人間的力み』を捨てて其の儘になっている其の儘の姿が


『そのまま仏』であると云うのであります。 





心穏やかな極楽世界へ・・・執着の愛と法愛

2018年08月15日 18時07分23秒 | 日記・エッセイ
隣の市に住んでいる末っ子の夫婦が

幼い三人の子を連れて突然やって来て、

元気な姿を見せてくれました。

五才の孫娘が仏壇の木魚を鳴らしている時、

お年玉のように熨斗袋を渡し、

お父さんとお母さんを大切にしてねと言いますと

ニッコリと微笑んでうなずいていました。

今は専用の小さな可愛らしい『盆玉』の袋があるそうです。




執着の愛と法愛

大毘婆沙論(だいびばしゃろん)第二十九 に、

愛にも二種あり、

一に染汚(せんな)愛はいわゆる貪(とん)なりと。

二に不染汚(ふせんな)愛はいわゆる信なり。

愛にして貪(とん)ならざるはすなわちこれ信なりとあります。



貪(むさぼ)らない、私心(わたしごころ)のない愛が『法愛』であり『大慈悲心』なり。




吾々は我と他が分かれていると認識していますが

本来は本々一つであります。

『我』と『他』は一体であると一切を捨て去り、再認識することが『和解』でありであります。

此の和解が『法愛』であります。

有情、非情すべての生きとし生けるもの、有りとし、あらゆるものと和解し、

手を繋ぎ合うことが真実の『愛』であります。

此の『真実の愛』に目覚めると無限がひろがり、

心穏やかな極楽浄土の世界が開けてまいります。