夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

木造建築の長所(法隆寺)

2024年04月17日 00時05分02秒 | 歴史
令和6年4月16日(火)

雨だれ

ポト、ポトと雨の雫が心に鳴り響き

気だるさと、開放感に満たされ

心に潤いと、平安が沁みわたり

生命の泉を、どこどこまでも遊泳し

何処に、行き着くのだろうか

このまま、雨だれと共に

全てを、神様にまかせたい




松の簡単な剪定がやっと2本済みました

後5本は厳しい。



隣の家の屋根の葺き替えをしている業者さんが

私どもの紋入りの瓦屋根を見て一度無料で点検しますと言うことで

明日来ることになりました。

最近の屋根はメンテンナンスが不要な材料があるという事で、

施工期間が短くて驚きました。

建坪60坪の瓦屋根は丈夫そうに見えますが、

大国柱が丈夫でないと瓦の重みで家を押し下げます。

遠くから観察して屋根の峯と峯の間の谷の銅版に緑青が出ている事と

鬼瓦の漆喰が痛んでいるようだと言われます。

また最近は瓦の生産はしていないと言われます。

木造建築の弱点は雨に弱いということです。

世界最古の木造建築の法隆寺が1300年程長きにわたり続いてきた所以は、

これまでに何度も修理、修復、再建を繰り返してきた結果だといえます。

又その費用も賄えたと云うことです。

木造建築の長所はこのように鉄筋コンクリート建設と違い

メンテンナンス施工に向いている事だと思われます。

それと古代から木造建築の技術力が優れていたと思われます。




霊感に溢れたヨハネによる福音書
                                                                        
言(コトバ)が肉となった

初めに言(コトバ)があった。言(コトバ)は神と共にあった。

言(コトバ)は神であった。

この言(コトバ)は初めに神と共にあった

万物は言(コトバ)によって成った。

成ったもので、言(コトバ)によらずに成ったものは何一つなかった。

言(コトバ)の内に命があった。

命は人間を照らす光であった。

光は暗闇(くらやみ)の中で輝いている。

暗闇(くらやみ)は光を理解しなかった。



高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)について・・・悠久の古代史

2019年03月21日 16時33分15秒 | 歴史
昨日は長崎市内でお話をさせて頂きました。

長崎の街は坂が多いので、家の近くには駐車がありません。

家を探し、石段を登っているうちに雨が降り出しました。

長崎市内はすり鉢の形をしていますので、

陽が落ちますと夜景が美しいです。

しかし高齢化で坂の上の高い処は

無人になり灯りが無くなってしまいました。




高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)について・・・悠久の古代史


延喜式に『高良玉垂神社』とあります。

福岡県久留米市の高良山の中腹に鎮座している大社。

『高良玉垂命』を主祭神として『八幡大神』を左相殿に『住吉大神』を右相殿に祀ってあります。

古くから朝廷の尊崇極めて篤く、

桓武天皇、嵯峨天皇、仁明天皇、文徳天皇、清和天皇、醍醐天皇等より神階を与えられています。



『高良玉垂命』は如何なる神であるかと云うことは古い時代から色々諸説があります。

その一つに

『竹内宿禰(たけうちすくね)』とし配神に『荒木田襲津彦(あらきだそつひこ)』を配祀とあり

また月天子とも神功皇后征韓の時の人『藤大臣(とうのおとど)』とも、藤大臣は『中臣烏賊津使主命(なかとみいかつのおのみこと)』とも、

藤大臣連保とも住吉明神の化身であるとも、物部氏の遠祖、『物部謄咋連』とも云う。

また『安曇連』の祖、綿津見神で、神功皇后征韓の時、

この神大いに武烈をはたらかせ汐干の珠、潮満の珠の如意宝珠の二珠を

神功皇后に授け新羅を順はしめた、この神は太古より筑紫地方に勢力があった故に此処に祀った。




別に同じ高良山の麓にも2003年に1900年御神期大祭を終えた

『大善寺玉垂宮』という古い神社があります。

祭神は、『玉垂命(藤大臣(とうのおとど)、高良大明神とも称す)』、『八幡大神』『住吉大神』が祀られています。

1600年程受継がれいる国の重要文化財である『鬼夜』という火祭りが毎年1月7日に行われています。



この他にも諸説ありますが


この高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)の正体は

古事記の(仲哀天皇)、日本書紀の神功皇后『気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)』にある神功皇后と御縁が深い神様と思われます。

『まぼろしの邪馬台国』で『宮崎康平』さんが古代の北九州の海抜を予測なさっています。

それによりますと高良山の麓は

1900年前の古代では博多湾と有明海が海水でつながる程

地盤が低かったのではないかと思えます。

また大善寺玉垂宮の神事の中に

現代では内陸部でありながら『お汐井汲みの神事』があります。

海の神である住吉大神、綿津見神、それを奉斎している海神族の藤大臣、安曇連、

また『古事記の仲哀紀』で登場する審神者(さにわ)の竹内宿禰、中臣烏賊津使主命、

神功皇后本人であるか、神功皇后に従軍した藤大臣(とうのおとど)、安曇連が有力ではないかと思われます。




四方の海 みなはらかと 思う世になど 波風の立ち さわぐらむ
                     明治天皇御製
  
明治天皇の御製を朗読され、昭和天皇が御前会議で戦争反対の意思を示されました。




全托の祈り・・・

この苦き盃を我より取り去り給え。

されど我が意をなさんとにはあらず、

御心の如くならしめ給え。


夏草や 兵どもが 夢の跡・・・・・松尾芭蕉

2018年09月29日 12時56分24秒 | 歴史
先日1時間30分程離れた北有馬町へ出講に行きました。

近くには今、世界遺産に登録された原城跡などがあります。

この地域は35年程前に書籍、クラシック音楽、版画、掛軸等のギャラリーなどの販売をしていところです。

聞きますと以前ご縁があった原城などに詳しい郷土史の南有馬商工会の志岐さん達は既に亡くなられていました。

35年の月日を深く感じさせられました。

まるで35年の前のことが目の前に突然に顕われたようでありました。

訪れたお宅は幕府の息がかかった浄土宗のお宅でした。

何んと小さな町に大きな浄土宗の寺院が二箇所もあるそうです。

当時の幕府の強い意志が伺えられます。

『原城』の本城である北有馬町に在る『日野江城』跡は幕府側の城であり、

キリシタン弾圧とは関係が少ないということで世界遺産から外されたそうです。

支城の『原城』も本城の『日野江城』も『有馬貴純』が築いた城であります。

この島原の乱後に幕府は鎖国政策をおこない、

長崎の出島だけを外国の窓口にしました。

キリスト教徒及び百姓一揆の民衆と共に反旗の狼煙が上がり、

戦乱に明け暮れ此の地区は荒廃しました。

各地の地蔵菩薩の石塔の首のみが撥ねられました。

また多くの農民が失われました。

島原の乱の後には大掛かりの移民政策が行われ、

島原半島の北側、広義には半島の根元である諫早地区まで及びました。

移民の人達は四国、博多、柳川等幕府の息のかかった庄屋、農民達が配置換えとして此の地区に根付くことになります。

移民の人達の故郷の氏神である宮地嶽神社等の祭神が祀られることになります。

特に四国の移民の人達が多かったので、此の島原半島及び諫早の南の地区には

金比羅の元の祭神である出雲大社の『大国主大神』を祭神とした神社が多く見られます。


          

悲哀の奥には聖地がある。
       
オスカーワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)


苦難の中を通過した人のみが、

真実に苦しんで人に愛と同情とを与える力が

其の魂の中に培われることになるのである。




祀り事の大切さ(そうすればおのずから幸福の道が開かれる)

2017年12月02日 18時07分09秒 | 歴史
祀り事の大切さ

今上天皇陛下も宮中で天照大御神、八百万の神々をお祀りなされ、永きにわたって世界の平和、国民の安寧を祈られて来られました。
尊く、また有り難い事です。

仁徳天皇のお歌に
それ天の君を立つるは、これ百姓の為なり、
然らば則ち君は、百姓をもって本となす。
是を以て古の聖王は、一人飢寒すれば、顧みて身を責む。
いま百姓の貧しきは、則ち朕の貧しきなり、
百姓の富めるは、則ち朕の富めるなり、

日本の心がどんなに清明で、幽玄で、高邁で、霊的で不滅悠久な生命を湛えているものだということを知らなければならない。
『その心』を敬って感謝して祀るのが神祀りなのです。
そうすればおのずから幸福の道が開かれる

神祀りを大切にして来た博多の街について

この博多の地域は『遠の朝廷(とうのみかど)』と云われていました。

博多の街は発展し続けていますが、古代よりお祀りを大切にして来た事が良い結果につながったことになったのではないでしょうか。
古くから大陸との交流が盛んな地区であり、弘法大師、最澄等沢山の宗教者、文化人が遣唐使等で大陸に渡り
経典、様々な先進的な鉄、銅等の文化を吸収して来た拠点が博多の街でした。
弥生文化も古代の宗像族、安曇族、住吉族亦は松浦族等の海人族を通じて北部九州から日本全国に広がって行きました。
地形も北西側が開け、四方を山々に囲まれ恵まれた海岸です。
元寇の襲来の時もこの地形は功を奏しました。

聖一国師が疫病封じの為施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたのが始まりと云われている
櫛田神社の博多山笠が全国に知られています。
その博多山笠もユネスコ無形文化遺産に登録されています。
娘婿が恵比寿流の山笠を担いでいます。



博多湾の海岸地帯には
①東側(現在の福岡市住吉区)に博多住吉神社(住吉三神の上津瀬神)

②中央に日佐住吉神社(現在の福岡市南区日佐)香椎大神、高良大神、若大神、
 (住吉三神の中津瀬神)、 そして筥崎宮の八幡大神
最初は海岸線の那津の宮家に大宰府に置かれましたが、新羅で白村江(はくそんこう)の戦いに敗れた後に水城という城壁を築き大本営を現在の筑紫野市に大宰府が移されました。
福岡市南区は那津の宮家、朝廷の屯倉(みやけ)が置かれた地域でもあります。
この地域は筑紫(ちくし)郡と云われていました。

③西側に現人神社(現在の福岡市那珂川町)に(住吉三神の下津瀬神)と祀り。
住吉三神の本津宮と云われ全国の住吉神社の発祥の地とも云われています。

④東側の篠栗町の若杉山の太祖神社に伊邪那岐命、天照大御神、八幡大神、
宝満大神、香椎大神(神功皇后)、志賀島神社の(底津綿津見神、
仲津綿津見神、表津綿津見神 、住吉大神三座の七神。

⑤西側(現在の福岡市西区)の飯盛山には清和天皇より再建された飯盛神社に伊邪那美命、玉依比売命、
品陀和気命(八幡大神)、五十猛命(いたけるのみこと)を祀り。

⑥背後の東側(現在の太宰府市)の宝満山(竈門山)には竜宮の玉依姫命
(たまよりひめのみこと)神功皇后、八幡大神の三神を竈門神社で祀り、
⑦背後の西側(現在の糸島市)の雷山(さいざん)の雷神社(いかづちじんじゃ)には水火雷電神(瓊々杵尊)、高祖大神(彦火火出見尊)、
香椎大神(神功皇后)、住吉三神、八幡神の五神を祀る。

東の若杉山(伊邪那岐命)と西の飯盛山(伊邪那美命)は夫婦山と云われています。
この他にも愛宕神社等様々な神々が祀られています。






物事の表面の奥にある実相(本当の姿)を観ることが大切である。所謂、意識の底にある静謐な心による、直感で観ることです。

2017年03月25日 15時30分16秒 | 歴史
明るい菜の花に誘われ、心はずみ、息はずむ、織りなす光のあざやかさよ。

一個の歴史事実でも、世界の人々の深層心理が結実したものでもある。
このような事からも些細な歴史的事実でも世界の人々が共有すべきものであると思われます。

歴史も平面的な二次元、三次元の唯物的な史観だけで見るのではなく、もっとハイレベルな四次元、五次元などの高い所からの考察が必要と考えます。


国家は生命体である。

2016年05月22日 22時57分19秒 | 歴史
国家は生命体である。

懇親会の会場のロビーから外を眺めると長崎港の松が枝埠頭に豪華客船が停泊していました。
長崎港を眺めていると今停泊している豪華客船の近くで三菱重工業により目隠しの倉庫を作るなどして、
極秘に国家の命運を握る連合艦隊最後の旗艦『戦艦武蔵』が建造されました。
この長崎港の歴史にも、徳川幕府の鎖国の時代の出島、キリスト教、ヨーロッパの文化の伝来、
明治維新に影響を与えた坂本竜馬、原爆投下、炭鉱の軍艦島等激しく歴史の洗礼を受けて来ました。
親戚にも三菱重工業造船に勤務中に原爆を受けましたが、幸い投下地より離れ、地形的にも山等がありましたので助かりました。
しかしそのような先人の尊い、たゆまない努力の結実である世界的な歴史遺産で多大な恩恵を受けております。
今は亡き父が調理長を勤めていました江戸時代からの料理屋である料亭花月では、
国賓であるオランダのベアトリクス女王、各内外の名士が訪れています。
重要文化財に指定されている花月の座敷に坂本竜馬の刀の傷跡等を見ますと歴史が今此処に生きていることが実感されます。
このロビーから眺めていると様々な想いが巡ります。





国家は生命体である

国というものは必ずしも自然界の土地とか山森とか河川とかいうものではないのであります。
普通、国家というものは、『主権』と『領土』と『国民』との三要素が渾然と調和して一体となったものであると謂われているのである。
領土の上に国民の集まった集団があってもその集団を統率する『主権』がなければ国家と称することも
『国家』と認めることも出来ないのである。
それは肉体があり、細胞の集団があっても、全体を統率し総攬するところの『生命』又は『霊魂』がなければ
それは生きた人間だということができないのと同じである。
そして、死物や無機物や無生物に『主権』が存在することはないから、
国に『主権』が存在するということは、国が生命体であることをあらわしているのである。





























龍宮世界は一切万象を創生したウミの底の世界である。(実相世界)

2016年05月02日 23時18分00秒 | 歴史
龍宮世界は一切万象を創生したウミの底の世界である。(実相世界)

久しぶりに青空が広がる天気に恵まれ、幹部研鑽会に参加するために四王山、宝満山を臨む大宰府の近くの都府楼まで行きました。
私の生家も、古代は博多湾の海岸で綿津見神を祀る志賀島神社の安曇野族に対して
筑紫郡日佐と云うところで古代より住吉大神、神功皇后を祀り住吉族と云われていました。
今は福岡市南区となっています。
都府楼の近くには藤(藤原虎丸)の長者が発見した二日市温泉があります。
此の辺りの博多湾の海岸線、平野は日本で最初に稲作が始まった処であり、弥生時代の発祥の地であります。
古代の遺跡、大和王朝等の歴史が煌く地域であります。
大宰府も元々は博多湾の中央の海岸線の那津の宮家の処にありましたが、663(天智2年)8月27日日本水軍が白村江で唐の水軍に敗れた後大本営である大宰府が現在の処に後退しました。
水城などを築いて防衛にあたりました。
後には蒙古襲来があり、武家、町民、農民問わず、蒙古と戦ったと聞いています。
生家にも長い槍が座敷の欄間に保存してありました。
やはり生まれ故郷に近づきますと懐かしいですね。






龍宮海というのはどこであるかと言うと、そこには住吉大神の支配し給うところの神秘の世界であります。
言い換えますと実相世界(ほんとうの世界)のことです。
住吉というのは極楽という意味を別の言葉で言い換えたものです。
極楽世界というのは、それは光明遍照の世界であって、
中心にスメラミコトましまして蓮華の花の図形のように中心に帰一した荘厳なる相(すがた)にあらわれた世界です。
天皇(スメラミコト)の本質は、人間として、天照大御神の御いのちがそこに出現してましますところの神であられます。






宮中の新嘗祭(にいなめまつり)・・・今日は勤労感謝の日

2015年11月23日 19時48分54秒 | 歴史
宮中の新嘗祭(にいなめまつり)・・・今日は勤労感謝の日

古より天皇様が新穀を天照大御神、始め天神・地祇(三百四座)に薦めその洪恩に感謝し、
また親しく天照大御神様と共に聞食され、神と一体となられる神事であります。
或る意味で現人神(あらひとがみ)となられる神事でもあります。
天皇即位の初めに行なわれるのを大嘗祭といわれています。
神嘗祭と共に重要な神事であります。
尊き天子様であられる天皇陛下様は、古より御祖先であられる天照大御神と共に歩まれ、
国民の安寧と世界の平和を祈り続けられておられます。




天皇様の御心

ここに皇位を継承しました

大行天皇の崩御は、誠に哀痛の極みでありますが、日本国憲法及び皇室典範の定めるところにより、
ここに、皇位を継承しました。
深い悲しみのうちにあって、身に負った大任を思い、心自ら粛然たるを覚えます。
顧みれば、大行天皇には、座位六十有余年、ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念され、激動の時代にあって、
常に国民とともに幾多の苦難を乗り越えられ、今日、我が国は国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるにいたりました。
ここに、皇位を継承するに当たり、大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし、いかなるときにも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ、皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、
国連の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません。
平成元年一月九日  宮殿 即位後朝見の儀

セキレイの冬のみ園に遊ぶさま告げたしと思い覚めてさみしむ
昭和天皇崩御

かすみつ晴れたる瀬戸の島々をむすびて遠く橋かかりたり
平成二年昭和天皇をお偲びする歌会お題 晴


今上天皇様の御心を御心として、享け留めて行きたいと願っています。

勤労感謝の日は出勤日でした。
今日は休診日なので外来は無く、職員も少ないので気持ちが楽でスムーズに仕事ができました。
しかし連日行事が続きましたので帰宅後二時間程休息をとりました。




あなたが本当に切実に愛したら

きっと相手の人もあなたを本当に愛してくれる。








古代より藤一族の氏神神社である日佐住吉神社の覚書

2015年10月31日 02時33分10秒 | 歴史
古代より藤一族の氏神神社である日佐住吉神社の覚書

住吉の大神(すみのえのおおかみ)は墨江大神とも水火津霊(しおつちの)の神とも稱し、上津瀬、中津瀬、底津瀬、または表筒男命、中筒男命、底筒男命の三神の総稱であり、上津瀬、中津瀬、底津瀬の秩序を整え給う神であり、善を肯定する潮満珠(しおみちるたま)、悪を否定する汐千珠(しおひるのたま)を司る神でもあります。  

伊弉諾尊が黄泉国に至って穢れがあり、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて禊祓された時、綿津見三神と共にあらわれ、綿津見三神は志賀島の志賀島神社に鎮まり安曇族として信濃の安曇野、渥美半島、阿波、肥前、豊後、淡路、隠岐、河内等、全国に広がっていき、また天皇より安曇宿禰姓を賜わり高橋朝臣と共に内膳司に仕えた。住吉三神は現在の福岡市住吉区の住吉神社(上津瀬神)、筑前の筑紫郡日佐、現在の南区日佐町の日佐住吉神社(中津瀬神)、筑前那珂郡、現在の那珂川町の現人神社(底津瀬神)として鎮まり日本最初の住吉神社と云われています。また、古事記の仲哀天皇時代に住吉族として神功皇后と共に遠征し、宮地嶽神社に神功皇后と共に(藤助麿…藤高麿)として祀られています。

平安時代の対馬の総宮司職であり本居宣長と親交があった神道家の藤斉延(とうなりのぶ)がつとめる八幡宮、雞知の鴨居瀬の住吉神社等で藤と云う苗字が見られます。『国守りの神』、鎮護国家の軍神、海路を守る神、または海を保護する神、航海漁業の神、和歌の神として住吉三神は紫式部(本名藤式部)達に仰ぎ信仰されました。
神社は伊勢神宮のように拝殿はなく、古来の住吉造りの建築様式で、側に吹き抜けの絵馬殿(武者絵)があります。  

平成十二年外環状道路建設のための曰佐遺跡の発掘調査によって、此の地から先土器時代の遺物や縄文土器等が大量に発見され、明の時代の中国製輸入陶器や、平安末期から室町時代の集落跡も発見され、此の地域は六千年もの太古から先進的な人々が住んでいたことが考古学的に証明され、また稲作が日本で最初に始まった所であり弥生時代の夜明けの地域でもあります。筑紫国、那の津口に官家が造営されてより、此の地方は中国大陸や、朝鮮半島との外船の往来するところとなり、曰佐はその応接の要地であったため、その航海の安全や鎮守の神として筑前那珂郡に住吉三社が居かれ、上社は那珂川町の現人神社・下社は博多区の住吉神社、当社は、その中津瀬の神として祭られたもので、その起源は宣化天皇の御宇(五三六年)の前後であると記されています。

祭神は住吉三神、香椎大神(神功皇后)、高良大神(藤大臣…とうのおとど)、若大神(応神天皇)、比賣神(ひめがみ)。













黄金色に染まり、豊作に満たされる大地

2015年10月08日 21時26分13秒 | 歴史
懐かしいふる里


私のふる里は日本で最初に稲の栽培が始まり、弥生時代の夜明けの地域でもあります。
古代より住吉大神を氏神として祀ってきました。綿津見大神を祀っている志賀島神社の安曇族に対して一族は住吉族といわれています。また奴国のあった処です。
平成十二年外環状道路建設のための曰佐遺跡の発掘調査によって、此の地から先土器時代の遺物や縄文土器等が大量に発見され、明の時代の中国製輸入陶器や、平安末期から室町時代の集落跡も発見され、此の地域は六千年もの太古から先進的な人々が住んでいたことが考古学的に証明されました。筑紫国、那の津口に官家が造営されてより、此の地方は中国大陸や、朝鮮半島との外船の往来するところとなり、曰佐はその応接の要地であったため、その航海の安全や鎮守の神として筑前那珂郡に住吉三社が居かれ、上社は那珂川町の現人神社・下社は博多区の住吉神社、当社は、その中津瀬の神として祭られたもので、その起源は宣化天皇の御宇(五三六年)の前後であると記されています。



幼い頃は稲作とホルスタイン牛を放牧して搾乳した牛乳を馬車で出荷していました。先祖代々より、神功皇后が勧請したといわれる名島神社の大神、小早川隆景が海城である名島城内に祀った名島弁財天、庭には稲荷大神を地祀りしていました。
日佐住吉神社の絵馬殿に上がり遊んだことが懐かしく思い出されます。
祖母に連れられ海風があたる名島神社、弁財天にお参りに行ったことが心深く残っています。
座敷には中央に神殿があり、左側に仏壇、右側に床の間がありました。
鴨居にも神々が祀られていました。現在も代々引き継がれ、沢山の神々をお祀りし、お世話をさし上げておられます。
有り難いことです。感謝申し上げます。







香椎宮(香椎廟)覚え書 其の二

2015年10月03日 15時33分12秒 | 歴史
香椎宮(香椎廟)末社

大宰管内志(糟屋郡上筑前之九)

神祇記聞に御由来記に、中略 香椎宮末社は、古宮大明神、武内大明神、平野大明神、八御子社、三島大明神、
六所権現神、濱男大明神、朽瀬大明神、印鑰大明神、高良大明神、大神大明神、志賀大明神、川上大明神、高倍大明神、二神大明神、巻尾大明神、萬岐垂大明神、早辻大明神、早尾大明神

 筑陽記裏糟屋六

古宮大明神所祭仲哀天皇也、高良大明神は武内神也、善神王、巻尾大明神、巻垂大明神、八御子、志賀大明神、
平野大明神、二神大明神、早尾大明神、早辻大明神、祇園牛頭天王、若宮大明神、胎屋、経蔵宝蔵
巳上本社ノ地に在シトナリ、今ハ其数ニ不足、権現宮、(御池の傍アリ)朽瀬大明神、(西ノ森)印鑰大明神、(北ノ森)
八百大明神、(良方ノ森)稲荷大明神、(東ノ森)大日堂(本村ニ在)薬師堂、(本村長谷両所ニ在)
濱男大明神、濱男村ニ在)三島大明神(濱男ノ海上ニアル小嶼ナリ)大神大明神、(上和白村ニ在)

此の末社で私共の一族に、縁が深い明神様が高良大明神(藤大臣…とうのおとど)、高良大明神は武内神也、若宮大明神、稲荷大明神であります。

香椎宮(香椎廟)覚え書

2015年10月03日 10時45分15秒 | 歴史
御縁のある神様を紹介してゆきたいと思います。
今回の香椎宮の神功皇后は古代より私共の一族の氏神であられます。

筑前国續風土記糟屋郡十八下

凡此の神社領、古より定まりて當国及豊前筑後に於いて千數百町有りしとか、然るに乱世に及て国主城主等横領せしが、天正年中迄猶當国の内に千七百町余り有りしといえども、秀吉公九州征伐の後、所々の社領残らず没収せらる、是によって當社の神領もなくなりける、小早川左衛門督隆景當国の主と成給いて、此御社の衰え行を悲しみ百六十町の神田を寄進せらる、然るに其の養子秀秋の時、故なく百六十町の神田を没収せられしかば、相伝わる恒例の祭事も絶え、神官社職も所を去り、終に御社も衰え侍る。

筑紫道記(宗祇法師)
 
 香椎宮にまいりぬ、友はいづくにも引かえ物さびしく、社のめぐり、木ふかく、草たかう、山水に懸置る橋の様も跡ふりて、むなしき苔のみ道をのこす見ゆ、御殿は造営なかばにもならで、かりどののさまもおろそかなり、かんづかさのものども、すさまじげにて、物いひかわすも衰なればいとどむかし覚えて、神の御祓いにといへる杉のみさかえて、いがきの外にひろごりたるぞ、御祓いに何かはせんと、めでたき此枝少し折りて、

 
行末の身を二たびと思はねど香椎の杉に猶契らん

御神は聖母、又八幡にておはします、同じ御神ながら筥崎にては神功皇后と申ここには聖母と號し奉る。



神功皇后・藤大臣・中臣鳥賊津臣命・鬼夜

2014年09月14日 17時35分40秒 | 歴史
日佐住吉神社              所在地  福岡県筑紫郡日佐(現福岡市南区日佐町)        起源 536年(宣化)前後 住吉大神 中津瀬の神を祀る祭神香椎大神(比売神)―神功皇后      聖観音菩薩    住吉大神 表筒男命・中筒男命・底筒男命  薬師如来・阿弥陀如来・大日如来又は釈迦如来八幡大神(応神天皇)            阿弥陀如来高良大神(藤大臣)            十一面観音菩薩・勢至菩薩・竜樹菩薩宮大神(宮地嶽神社)神功皇后・勝村大神<藤之高麿>・勝頼大神<藤之助麿> 藤大臣(とうのおとど)の示顕時期
神功皇后摂政時代  西暦200年9月13日

[高良玉垂宮縁起](高良大社・玉垂宮)

神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて、七日七夜の間祈願し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。武内宿禰の請で藤大臣と称し参戦、筑前の八女神のうち豊姫を竜宮に遣わせて借りた千珠・満珠をもってついに新羅王を降伏させた。藤大臣は中臣鳥賊津臣命とも、藤大臣連保のこととも月天子とも、住吉明神の化身ともいふ。
藤大臣(とうのおとど)の没し地

  大善寺玉垂宮

祭神

     玉垂命<藤大臣(とうのおとど)>・八幡大神・住吉大神

所在地  久留米市大善寺町宮本

例祭日  1月7日  日本三大火祭り(国の重要無形民俗文化財 鬼夜

平成15年1900年祭

奉葬時

    390年(仁徳78年)  筑後国 高三瀦塚崎に奉葬する

年表

133(成務3) 武内宿禰を大臣とする。

200(仲哀9) 2月6日 香椎宮で仲哀天皇亡くなる。

3月 1日 武内宿禰に命じて琴をひかせ、中臣烏賊津使主をよんで

      審神者とされた。

       3月20日 神功皇后、羽白熊鷲を討伐。

       3月25日 福岡県山門群に行き土蜘蛛の田油津媛たぶらつひめを討伐。

4月10日 肥前国松浦県にいき、玉島里の小川で食事をする。

       9月10日 大三輪に神社を建立。<刀と矛を奉じる>

9月13日 神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて七日七夜の間祈願し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。[高良玉垂宮縁起]

10月3日 神功皇后、鰐浦から新羅に出兵する。(記)

10月10日 対馬の和珥津(わにのつ)を出発した。

このころ白鬚神社を古場名に鎮祭する。祭神、武内宿禰(諫早市有喜町)

12月14日 筑紫において誉田別皇子(応神天皇)を生む。(記)

  201(応神2年) 3月5日 忍熊皇子を討伐。(記)

 10月2日 神功皇后、大和に帰り政を摂する。(記)

 11月18日 足仲彦天皇(仲哀天皇)を河内国の長野陵(大阪府南河内群美陵町大字岡)に葬った。(記)

203(応神3年) 1月3日 誉田別皇子を皇太子とする。(記) 大和国の磐余に都を造る

                                 (若桜宮)

11月   阿雲連の祖大浜宿禰、サバメを平らぐ

  211(応神11年)  住吉大社、神功皇后・田裳見宿禰により住吉大神鎮祭


238(応神38年) 6月  倭女王卑弥呼が使いを遣わす。(魏志)

        12月 明帝が卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を与える。(魏志)

244(応神44年)  百済王が久氏(くてい)を遣わす

247(応神47年) 夏4月 百済王が久氏(くてい)を遣わす

248(応神48年)  このころ卑弥呼が没する。(魏志)

252(応神51年) 9月10日 百済王が久氏(くてい)を遣わし七枝刀(ななつきさやのたち)一口(石上神社>、七子鏡(ななつこのかがみ)一面、及び種々の重宝を奉った。(記)

269(応神69) 4月17日 神功皇后、稚櫻宮(わか櫻)で崩御<享年100歳>。(記)

269(応神69) 10月15日 狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)(奈良市山陵町字宮の谷)に葬った。この日に皇太后に諡(おくりな)を奉って気長足姫尊という。(記)

270(応神70)  応神天皇の即位 (記)

273(応神70)  11月 安曇連の先祖大浜宿禰を漁民の統率者とされた。

278(応神78) 4月 武内宿禰を筑紫に派遣して,百姓を監察させる。(記)

310(応神100) 2月15日応神天皇の死。110歳

366(仁徳54)   仁徳天皇五十四年肥前の国桃桜沈輪発起し異国へ内通し、悪徒を集め諸所乱妨の旨、百姓等濫訴に及ぶ。(薬師寺旧記)

367(仁徳55)  武内宿禰の死。(水鏡)

367(仁徳55)  蝦夷が叛く。

367(仁徳55)  12月24日五十五年卯十二月勅命に随ひ、藤大臣難波高津宮を出て、同年同月二十四日筑後塚崎葦連館へ御下着在す。

藤大臣,耳納山を開き,高村大善寺に御殿を作る。(薬師寺旧記)

368 (仁徳56)1月7日肥前川上に桃桜沈輪(ゆすらのすいりん)を討伐。(薬師寺旧記)

390(仁徳78)  藤大臣死。高三瀦塚崎に奉葬する。(御廟塚)

400(履中元)  始めて社を高良山に建てる。(高良玉垂宮)

536(宣化元年)  筑紫、那津宮家を設ける。<福岡市南区三宅・比恵>(記)

538(宣化3年)  百済の聖明王が仏像・経論をおくる。

554(欽明15年)  百済王が筑紫に日佐を派遣する。(日本書紀)

571(欽明32年)  宇佐八幡神、山下に示現。

579(敏達8年)  新羅、仏像を献じる。(記)

584(敏達14年) 蘇我馬子が石川に仏殿を造る。(記)

589(端正元)    玉垂命が三瀦で死去。(太宰管内志)


602(推古10年)   善光寺の創立。


607(推古15年)  法隆寺を建てる。(法隆寺、薬師寺仏造像記)


645(大化元年)  中大兄王子、中臣鎌足蘇我氏を滅ぼす。


649(大化5年)  武蔵寺創建。筑紫太宰師として赴任した蘇我日向臣無邪志が般若寺を創建する。<般若寺が武蔵寺の始まり>


663(天智2年)  8月27日 日本水軍、白村江で唐の水軍に敗れる。


669(天智8年)  10月15日 中臣鎌足、藤原の姓を賜る。


           10月16日藤原鎌足の死。


672(白鳳元)  御廟院高法寺を開基。 三池長者師直が、玉垂宮の古跡に法相宗の僧 安泰をして祭神(藤大臣)を祭らせる。

673(白鳳2年)  竃門神社の始まり 2月10日辰の刻心連上人のお告げにより宝満山の馬蹄岩に玉依姫を祭る。

678(白鳳6年)  厳原八幡宮創建。

680(天武8年)  11月12日 薬師寺建立。

685(天武13年)  12月2日 阿雲連、連姓を宿禰に改める。

686(朱鳥元年)      住吉大社に天武天皇奉幣する。

         9月9日天武天皇の死。

694(持統8年)  都を藤原宮に移す。

712(和銅5年)  1月28日 古事記を撰上。大安麻呂

720(養老4年)  5月 日本書紀(30巻系図1巻)を撰上。舎人親王

723(養老7年)  香椎宮を造立<神功皇后を祭る>

723(養老7年)   2月2日 観世音寺を建立させる。

724(神亀元年)  神功皇后の神託により香椎廟を建立。

725(神亀2年)  宇佐八幡宮社殿を造立。

728(神亀5年)  11月 太宰師大友旅人香椎廟に奉拝する。

728(神亀5年)  諫早神社創立。(四面宮)

731(天平3年)  箱崎宮、神託により漂松の下に宮殿を設く。

734(天平9年)4月 筑前国那珂郡住吉神社の祭神(住吉神)に新羅国の無礼が奉告される。

734(天平9年)  八幡神が朝廷の編纂した歴史書に始めて登場する。<続日本記>

746(天平18年)  観世音寺斉明天皇のために、天智天皇の発願により完成する。

757(天平宝字元年) 延喜式公布・施行。

768(神護景雲2年) 11月9日奈良の春日神社、春日神社(福岡県春日市)藤原田麻呂により創建される。

784(延暦3年) 12月 住吉大社従2位授けられる。

785(延暦4年) 最澄が比叡山に庵を結ぶ。

794(延暦14)  高良神に従5位を授ける。

804(延暦23) 3月28日最澄、空海らが入唐。 最澄宝満山の竃門山寺で祈祷を行う。

805(延暦24)  最澄天台宗を開く。

814(弘仁5)  御廟院高法寺を嵯峨天皇の勅命により大善寺(天台宗)と改める。塚崎に妙覚院ができる。妙覚院 本尊 薬師如来 開基 伝教大師最澄

  837(承和4年) 対馬の鶏知の住吉神社従5位下を授かる。

840(承和7年) 竃門神従5位上を授かる。

859(貞観元年) 京都 石清水八幡宮の始まり、行教男山に神霊を奉安する。

859(貞観元年) 下関、住吉神社従5位下を授かる。

859(貞観元年) 壱岐、住吉神社従5位下を授かる

860(貞観2年) 京都石清水八幡宮摂社高良神社造立<行教>高良大明神者武内大臣

高良藤大臣連保之事也。神号日高高良玉垂命、以干満ノニ珠ヲ令奉行之故二奉号玉垂、住吉明神之化身也。石清水八幡宮社記<男山考古録>高良の本地仏は勢至菩薩か竜樹菩薩(異説十一面観音)とされている。

  895(寛平7年)  志賀海島神社従5位上を授かる

923(延長元年)  箱崎宮造営。 

1007(寛弘4年)  紫式部が源氏物語を著す。

1133(長承3年)  4月7日 法然誕生。

1175(承安5年)  法然浄土宗を開宗。

1212(建暦2年)  正月25日法然大谷で示寂。

1274(文永11年)  文永の役。(蒙古の襲来)

1281(弘安4年)  弘安の役。(蒙古の襲来)

1532(天文元年)  道真が太宰府へ至る前夜に一泊したといふ額田の駅(福岡市西区野方)には、後世に野方天神社がまつられた。菅公の随臣だった藤氏の子孫が、天文元年(1532)に野方に土着して先祖を偲んで建立したといふ。

1605(慶長10年)  慶巌寺創建。(諫早市)

1635(寛永15年)  檀家制度

1661(万治4年)  対馬、藤 斉延生まれる。 対馬藩士・総宮司職・国学者

  1723(享保8)   妙覚院を大善寺より再興

  1744(延元年)   八幡神社創建。(諫早市小川町)

鬼夜の由来に関して「薬師寺旧記」に、               


 仁徳天皇五十四年肥前の国桃桜沈輪発起し異国へ内通し、悪徒を集め諸所乱妨の旨、百姓等濫訴に及び、これに依り葦連(大善寺勾当職吉山氏の祖)奏聞し奉り、同帝五十五年卯十二月勅命に随ひ、藤大臣難波高津宮を出て、同年同月二十四日筑後塚崎葦連館へ御下着在す。(中略)大臣秘計をめぐらし、同帝五十六年正月七日類族遺らず退治し給う。夜に入りて沈輪行衛しれず、大臣四方に命じ大池を囲み、棒を以ってその岸を松明を照らし、鉾を以って水中を探り、逃げる処なく棒を奪い取り、葦連目当打って懸かる、用意の刃を抜いて沈輪が首を打ち落とし給う。その首虚空に舞い上がる。大臣、八目矢を以って射落とし、茅を集め焼き給う。是れ鬼夜の始と云う。


日本三大火祭りの一つに数えられる鬼夜ですが、言い伝えられた伝承は古代史の闇を私達に語りかけているようです。創祀一九〇〇年を迎えた大善寺、その歴史にも驚きますが、九州年号「端正」や太宰府管内誌からの記述『天皇屋敷』、『桃桜沈輪』等を含めて伝承されている鬼夜です。

名島城と名島弁財天

2011年11月13日 14時19分56秒 | 歴史

筑前 名島城(現福岡県東区名島)水軍の総師の小早川隆景が築いた海城。

天文年間(16世紀半ば)に立花鑑載が立花山城の出城として築城。

1587年(天正15年)3月 羽柴秀吉が九州征伐のため大阪を出発。

5月 秀吉が島津義久を降服させ九州を平定する。

豊臣秀吉は筑前国・豊後国・肥前国等を毛利の重臣小早川隆景に与える。

秀吉が淀殿を伴い名島城に立ち寄り宿泊する。弁財天を大阪城にも祀っていることもあり名島弁財天を参拝して“弁財天は福神なるに 荒れてさびしき貧神なり”と

水軍の総師である小早川隆景は三方に海に囲まれて、水軍の格好の立地である名島城を大改修して居城とする。

名島神社より弁財天を城内の弁天曲輪に移し城の鎮守とした。

1592年(文禄12年)3月26日秀吉肥前名護屋城に向かう。

1595年(文禄 14年)小早川隆景が安芸・備後(現広島県三原市)の三原城に隠居し小早川秀秋が307000石で相続する。

1597年(慶長2年)6月12日 小早川隆景の死。

           7月15日 巨済島の海戦で日本水軍敗れる。

1598年(慶長3年)8月18日 豊臣秀吉の死。

1600年(慶長5年)9月15日 関が原の戦い後小早川秀秋は岡山城に51万石で加増転封される。

1602年(慶長7年)      豊前国中津より黒田長政52万石300石で入城し名島城を廃城とし主な楼門・石垣等を福岡城に移築する。


神功皇后・藤大臣・薬師寺旧記

2011年11月12日 22時48分26秒 | 歴史
日佐住吉神社

              所在地  福岡県筑紫郡日佐(現福岡市南区日佐町)

        起源 536年(宣化)前後 住吉大神 中津瀬の神を祀る

祭神

香椎大神(比売神)―神功皇后      聖観音菩薩

    住吉大神 表筒男命・中筒男命・底筒男命  薬師如来・阿弥陀如来・大日如来又は釈迦如来

八幡大神(応神天皇)            阿弥陀如来

高良大神(藤大臣)            十一面観音菩薩・勢至菩薩・竜樹菩薩

宮大神(宮地嶽神社)神功皇后・勝村大神<藤之高麿>・勝頼大神<藤之助麿>

藤大臣(とうのおとど)の示顕時期

神功皇后摂政時代  西暦200913

[高良玉垂宮縁起](高良大社・玉垂宮)

神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて、七日七夜の間祈願し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。武内宿禰の請で藤大臣と称し参戦、筑前の八女神のうち豊姫を竜宮に遣わせて借りた千珠・満珠をもってついに新羅王を降伏させた。

藤大臣は中臣鳥賊津臣命とも、藤大臣連保のこととも月天子とも、住吉明神の化身ともいふ。

藤大臣(とうのおとど)の没し地

  大善寺玉垂宮

            祭神

     玉垂命<藤大臣(とうのおとど)>・八幡大神・住吉大神

所在地  久留米市大善寺町宮本

例祭日  17日  日本三大火祭り(国の重要無形民俗文化財 鬼夜

平成151900年祭

  

奉葬時

    390(仁徳78)  筑後国 高三瀦塚崎に奉葬する

年表

133(成務3) 武内宿禰を大臣とする。

200(仲哀9) 2月6日 香椎宮で仲哀天皇亡くなる。

3月 1日 武内宿禰に命じて琴をひかせ、中臣烏賊津使主をよんで

      審神者とされた。

       320日 神功皇后、羽白熊鷲を討伐。

       325日 福岡県山門群に行き土蜘蛛の田油津媛たぶらつひめを討伐。

410日 肥前国松浦県にいき、玉島里の小川で食事をする。

       910日 大三輪に神社を建立。<刀と矛を奉じる>

913日 神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて七日七夜の間祈願し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。[高良玉垂宮縁起]

103日 神功皇后、鰐浦から新羅に出兵する。()

1010日 対馬の和珥津(わにのつ)を出発した。

このころ白鬚神社を古場名に鎮祭する。祭神、武内宿禰(諫早市有喜町)

1214日 筑紫において誉田別皇子(応神天皇)を生む。()

  201(応神2) 35日 忍熊皇子を討伐。()

 102 神功皇后、大和に帰り政を摂する。()

 1118日 足仲彦天皇(仲哀天皇)を河内国の長野陵(大阪府南河内群美陵町大字岡)に葬った。()

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