夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

恋愛の情熱と永遠の情熱

2018年01月25日 21時32分06秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
2016年の熊本地震で長崎出島の商館の『シーボルト』も泊ったことがある由緒ある寺の

300年程の歴史がある鐘つき堂(鐘楼)が傾き、

復興の為にやっと屋根が出来上がり、5月頃にもとの勇姿が見られるそうです。

江戸時代(1720年)に領主である諫早家の殿様から命じられ、

時刻を知らせるために鐘をついていたそうです。

当時の庶民は寛容な心があったのですね!

今の時代ですと難しいことです。

この地域の浄土真宗の要のお寺さんです。

職場の検査技師の同僚が在職している時にコツコツと勉強し、

京都の本山で研修を受け、お坊さんの資格をとり退職後このお寺さんで奉仕しています。

葬儀の時に時々会います。

もう立派なお坊さんであります。

10代の頃このお寺さんの娘さんであり、

諫早家とも縁の深いお嬢様とお話をさせて頂いた機会がありますが、

もう50年程の前のことであり淡い思い出であります。




恋愛の情熱

彼または彼女の相手に於いて『永遠なるもの』を観ることが出来るのは、

彼自身又は彼女自身の中に『永遠なるもの』が既に宿っているからである。

情熱は、人間の生命に内在する男性の『永遠の理想』と女性の『永遠の理想』とが互いに見出しあって、

互いに認めあって発するところの稲妻の如き閃光であるがゆえに、

その奥には『永遠なるもの』が存在するのであるけれども、

火花そのもの、情熱そのものは、在る時期が来れば消滅するのは、

例えば、春雷がいつのまのかその稲妻の光りを消すのと同じことなのである。





永遠の情熱

永遠の情熱は『永遠なるもの』を対象に於いて見出し得ない限り、

それを持続することは出来ないのである。

大自然は『永遠なるもの』の顕現であるけれども、

人間は『永遠なるもの』の顕現ではないと考えるような傾向が人間の大多数にあるようであるが、

しずかに人間の本性を光明思想に照らして見詰めるとき、

人間こそ『永遠なるもの』の最高の顕現であり、

これに反して、大自然に対するよりも、より大いなる情熱の湧き起きらないのは本当ではないのである。











男性的なるものの本質、女性的なるものの本質。…其の③

2016年06月10日 23時15分53秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
男性的なるものの本質、女性的なるものの本質。…其の③

思春期を迎える前頃から娘に男性と女性の違いと特質を説明しようとすると悉く娘達から非難されました。
女性を低く扱っていて蔑視していると言います。
これは男性である父親から娘に説明すると特有の女性劣等感が炸裂しました。
やはりこのような事は女性である母親からの説明が受け入れ易いと感じました。
五人の娘を育てるなかで、娘達一人一人から女性の特質である忍耐と優しさと熱烈さを教わりました。
また勤務先も三百人程の女性看護師のなかで働いていると、繊細で柔らかい心と大胆さを学びました。



男性の剛と女性の柔との優劣を比較することは薔薇の花と藤の花のどちらが美しいかと論争するようなものであります。
本当は、優劣などはないのであります。女性が男性の能力を発揮することによって男性との優劣を競うとすることは、
男性の能力に羨望の念を持つものであるから、女性は男性に劣っているから、男性の能力に追いつかなければならないと云う女性劣等感の変形にすぎないのである。
真に女性の本質において優秀の自覚に立つものは、男性の真似などする必要はないのである。
女性が男性化すると云うことは、男性が女性化すると同様に人生の損失であるのである。
『各々の人間は各々の自身の人間であれ』でなければならない。
このような自覚をすることによって各々の特長たる、ほかに類型なき美点を発揮することが出来、
人生に美しさと逞しさと調和とを実現することが出来るのである。






男性的なるものの本質、女性的なるものの本質。…其の②

2016年06月09日 19時47分11秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
男性的なるものの本質、女性的なるものの本質。…其の②

女性の検査技師が最近は細やかな女子力が落ちていると呟いていました。
共稼ぎ以前は長い間、多くの男性と女性の働く場所が別々に置かれており、互いに棲み分けて生活していました。
戦場、官史、漁師、建築、開墾等、主に男性は外に向かって働くことが主でした。
女性は家の中での賄い、生命の育み等、内に向かって働くことでした。
互いに棲み分けた場所を共に侵すことはありませんでした。
女性は内なる生命の尊さを最も大切にしたが故に柔らかな心と細やかな、行き届く心と
大きな愛を持って尊い生命を守り育んで来ました。
幼い子供は母を絶対的存在として意識していて、母を通して父なる存在を知ることになります。
それ故母は心の中の大黒柱的存在でした。
女性は国家を支える内なる大黒柱的存在でもあります。
母なる女性はどんな社会的制度のなかでも重要な位置にありました。
母が父なる良人を如何に思うかによって子の将来の運命を握ることにもなります。



女性と弓と矢…其の②

婦人が男性に素直に従うと云うことは別に女性の敗北と云う訳ではないのである。
従うことによってむしろその天性を発揮するのであり、それによって却って勝利を得るのである。
水は柔らかくして下に流れよう下に流れようとしているけれども、それは決して硬く厳然たる岩に負けたと云う訳ではない。
それは柔らかきが故に岩をも穿って進むことを得るのである。
それは山津波となっては、十畳の部屋ほどの巨岩をも手玉にとって翻弄し、みずからは何ら傷つくことはないのである。
例えば、婦人は弓であり、良人は矢である。
矢は剛にして一直線に外に向かって進む。
外に向かって矢は花々しいかも知れないが、内に柔にして丸くたわむ弓にあってはじめて矢は外に進むことが出来るのである。
それは寧ろ矢の勝利に非ずにして、矢を駆ってかくの如く進ましめる弓の丸く柔らかくたわむ徳の勝利であるとも云うことが出来るのである。
『勝利』と云うような言葉を使うと、どちらかが一方敗北したような感を受けるけれども、
実はどちらも天分に従って勝利するのであって、敗北などはないのである。
続く・・・・・













男性的なるものの本質、女性的なるものの本質。

2016年06月08日 20時45分33秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
男性的なるものの本質、女性的なるものの本質。 

娘の幸せを考える時、やはり結婚して、子供を産み育てながら、良人と家族共々仲良く人生を通りぬけて欲しいと願うのが親の偽わざる気持であります。
最近は適齢期を過ぎてしまった男性、女性が多くなりました。
男女七歳にして席を同じゅうせずと云う言葉がありますが、
最近は幼い時から男女共学であり、潜在意識では男性も女性も互いに異性を意識しながらも男女平等の精神を身に着け、現在意識では異性をあまり意識しないで男女同じ立場での競争の原理の渦中に身を置いて、
切磋琢磨して生長を遂げた故に、男性も女性も本来の異性の本質の違いをよく認識しないまま青年期を迎えることになりました。
表面では身体的にも男女は違いがありますからその違いを理解していますが、
本当の意味での男性の本質、女性の本質をハッキリと理解していないが故にお互いに心のなかで戸惑いがある為、
互いに意識して求めることに自信がないようであります。
それ故に男性は男性的傾向の嗜好を選び、また女性は女性的傾向の嗜好に興味を持ち
ある意味で深い潜在意識では互いにレスビンアン(同性愛)的傾向があるようです。
家庭のなかでもどちらが父性的なのか、また母性的であるのか子供自身も戸惑っているようです。
自然界の花にも雄しべ、雌しべとハッキリとメリハリがついていて役割が違います。
雌しべは雌しべの生命も全うした時、また雄しべは雄しべの生命を全うした時に
次の世代に美しい花を咲かせる事ができます。
男性の本質、女性の本質を共に知る智慧が必要であります。




女性と弓と矢

人間にはポーラリティ(両極性)があるのである。
左の手は陽性であり、右の手は陰性である。天の陽気を受けてそれを陰性の方へ流し込むのが、左の手であり、陰性はその集まったものを放散するのである。男性は陽性にして天の陽気を受けて、それを女性に流し込むのである。
素直に男性の陽気を受けた女性は栄えるのである。
続く・・・・・











日本文化の骨格と肉付けについて・・・(幼心の素直さの中に直感力が存在する)

2016年06月04日 11時16分17秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
日本文化の骨格と肉付けについて・・・(幼心の素直さの中に直感力が存在する)

生命力の尊さは、今にも枯れて途絶えそうな植物でも雨が降り、潤いを得ると再び生命力が回復して
生き生きとした姿に再生します。
ただ素直にその厳しい環境を受け入れるところに神の叡智が現われます。
人間の生命も同じであります。
ただ直感に従い、素直に行じたところに『神の無限の力』が現れます。
苦しみの中に悶えている時に、瑞々しい愛念の言葉と祈りを得ると不思議にも魂の奥底から沸々と生きる力と喜びがみなぎって参ります。
これは相対する人間は元々一つの根源なるものの神から別れ出でたものでありますから、
その幸(さきはえ)が共鳴するのであります。

人間の生命の本当の姿は佛であり、如来であり、神の子である。
ただこの真理のみがわれを生かすのである。
われを生かすのはパンではない。
われを生かすのは物質ではない。






日本文化の骨格と肉付けについて

日本国土は、天津神である『天照大御神』が日本民族に授けられた、
多くのものを一つにまとめるという『中心帰一の理念』の実現として発祥した国土である。
その国土の主権の中に、『日本国は斯くあるべし』という『中心帰一の理念』である根本的アイデアが存在して、
そのアイデアがその国土に住む日本民族のひとりひとりの心の方向を定める基本アイデアとなり、
その基本アイデアを骨格としてその上に各人の個性ある精神の肉付けが行なわれ、
『日本文化』と総括してその特徴を示し得ると同時に、個々の日本人がそれぞれの個性ある作品を創作したのである。
ちょうどそれは、日本人には個々別々にはすべて個性ある容貌をしているが、
総括して根幹的には日本民族という共通の容貌をしているのと同じことである。
容貌も無論その人の個性ある生命が民族の理念を根幹として創作した作品である。























女性の眞の幸福

2016年05月09日 20時11分58秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
女性の眞の幸福

嫁ぐ娘

人生の光と影の中を潜りぬけ今新たなる希望を懐き、
明るき日々を姪っ子と料理に励むその姿に笑顔がこぼれ、
純粋な想いが若葉薫るそよ風とともにそよぎ、
陽が燦燦をふり注ぐ運動場に赤い帽子のブルマ姿が鮮やかに蘇る。
貴女のひと筋の思いが夜空に輝き、
胸に秘めた願いが異郷の空で花開くことでしょう。
貴女の紫に煙るその愛は凍てつく霧を温かくつつみ
勇気と幸いを与えることでしょう。







女性の眞の幸福


青春期の一時期的な知性の優越と男性の拮抗的衝動を、女性の永遠の本性と想い違えてはならないのであります。
やがて女性が、自己の魂の半身である男性を見出したとき、彼女の創造的なはたらき全ては、
その半身である良人の心の中に、そしてやがては生まれて来る子供の中に、その子供の心の中にのみ
営まれ、没頭せしらめられことになるのであります。
ここに於いてはじめて『女は弱し、されど母は強し』ということになるのであります。
かくて女性の肉体的な恋愛がより一層精神的な愛に、そして最後には、
全く自己を没却して相手に捧げ切った愛にまで昇華してくるのであります。
こうして良人のためにのみに悩み、子供のためにのみ労苦する愛の幸福感が、
彼女の全心をとらえ放さなくなって来たとき、
彼女は無我愛の権化となります。
神が与えるばかりの愛であるように、彼女の愛も与えるばかりの愛となるのであります。
かくて恋愛的な血潮のたぎるような生な歓喜は、落ち着いた平和な悦びの愛にかわり、肉体の美を賛美する恋愛は、
やがて魂の愛を賛美する宗教的なものに。
そしてしかもそれがいと豊かなる潤いを持った日常生活そのものとなってまいります。
それが正しい経路を通って得られる女性の幸福であります。
続く・・・・・


不思議なめぐり愛 (愛について)

2016年04月09日 12時33分42秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
不思議なめぐり愛 (愛について)

四女の娘に結婚をして下さいと云われる男性が現れ、ある料亭で私達両親に男性からその告白を受けました。
それも遠い遠い東北の秋田であります。
奥様がとうとうお別れの実感がしてまいりましたと言い、神妙にしておりました。
母の愛は父の思いとは多少位相があります。
釈尊の父母恩重経にも母の恩徳への思いの比重が強いように思われます。
遠い東北の男性と西の果ての長崎の女性との不思議な縁であります。
男女の縁は、既に男と女の半身同士の魂が存在していて、半身同士互いに一体となりたいと呼び合い、求めているから、
例えアメリカ、日本と分かれて住んでいようとも時期が熟したら年齢には関わらずに共に会え、一体となることが出来る云われています。



母の懐を寝床となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情けを生命となし、
飢える時、食を求るに母にあらざれば食らわず、渇く時、飲みものを求るに、母にあらざれば飲まず、
母寒さに苦しむ時も、着たるを脱ぎて子に着せたまう。
十指の爪の中に、子の不浄を食らう。母の恩、重きこと天の極まり無きが如し。
このように愛の尊い源は『母の愛』であります。
しかし子供は母が娘を愛するようには母を愛しないのが常であります。
娘が母を愛するのは母の肉体から別れて生まれたと云う感情をもっているのではないのです。
娘が母を愛するのは、母が娘を愛してくれている映しとして母を愛しているのです。
それ故に子が母を愛するのは必ずしも生みの母とは限らないのであります。
養母、義母であっても愛される度合いによって、養母、義母を愛し慕うのであります。
また子が親を慕う愛については、食物を与えてくれるものに対する『本能的な愛着』が混ざっているのです。
動物は必ずしもその動物の母でなくとも、食物を与えてくれている人間を親のように慕うのであります。
スズメの雛を座敷でエサを与えて養っていると、飛べるようになっても人間を慕って追い回して肩に留まったりするものなのです。
このような食本能的な愛は好きな苺を破壊して食べてしまい、その本来の美しい姿を壊してしまうような愛なのです。
これはただの好き嫌いの愛であります。
これは相手を食い滅ぼす『性本能』にも云えることでもあります。
『恋愛』は曲者(くせもの)であると云われている所以であります。
しかし人間は恋愛によって摩訶不思議な感情を味わい、肉体的には、なんら関係のない他人でありながら、肉親以上の一体感を求め、それを自覚するのです。
娘は男性の後を追い、息子は女性の後を追う。
しかしこのような愛は自己を中心のすえている種族本能的な好き嫌いの『性愛』であります。
真の愛は種族的な『性愛』を超えなければならないのです。
『性愛』を超えてそれが昇華されて行くとき、欲情ではない『聖らかな恋愛』に達するのです。
これが互いにこれからの運命を共有して、貴方がいなけれが生きては行けないと云う、切に聖らかに一体にならんとすること願う、神秘的な魂の結び合いの共同生活が結婚であります。

清くして、しかして美しき
わがマリアよ
おん身はかって
ルルドの聖泉の巌壁に
きざまれし黄金の
三輪の薔薇の花を踏んで立ちし
聖母マリアか
わが愛は汚れたれども
君にふれなば
たちまち清まりぬ。






開放の教育

2016年02月09日 18時12分42秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
開放の教育

私も青年時代に親に反抗して、ある時に、真っ赤な鮮血を嘔吐して、胃に激痛が走り、畳の上を七転八倒しました。
まだその頃は信仰に縁れていない時でした。
両親の深い真心の愛を理解出来ない時代でありました。
父母として深い因縁を頂き、その法縁によって導かれた御恩を授かり、
今は経を読誦し、乳哺の恩に報じ、無上道を得んと願い、精進させて頂いております。


親の束縛に対する子供の反抗は往々にして寝小便として顕れる。
蛙をつかまえるとき、蛙は小便を放って逃げて行くのである。
黄金虫を捕まえるときに黄金虫は青黒い不快な便をして逃げて行くのである。
ニイルは『嘘をついたために打たれた子供が指をなめたり、寝床をぬらしたりするような赤ん坊の習慣に帰る』
とその事実を指摘している。
大人の場合は穢い念を思い浮かべても自制の念で、子供のようにしないのであるが、
痰を吐きかけてやりたくなったり、嘔吐をもよおす気がしたりすることは往々にてあるのである。
しかし大人はそんな場合、自制の念でそれを押し消してしまうが、心に思い浮かんだ念(おもい)は形に表現されるか、
反対の観念で打ち消されないかぎり、表面は平静でも、いつまでも消えないで心に集積されて、
やがてある『縁』を得て具象化してその時の観念の象徴となるような
嘔吐をもよおす病気、痰咳をともなう病気に具象化してくるのである。


このように病気を起す内的原因は、遠くわれわれの潜在意識の中にあるのである。
抑圧された反抗観念はやがて形となって現れてくるものである。
いくら外から縛っても人間は決してよくなるものではないのである。
さらに困難な場合は、親の圧迫に対する反抗を内に秘めながら、、これを表面の心で自覚していない場合である。
子供の伸びる力は生命である。
生命は神であるから、放っておいたら必ずよくなるのである。

ニイルは自由教育を説いた。自由教育とは開放の教育である。
生命は開放されたときスクスクと伸びる。

『注』
念の具象化・・・心に思ったことが潜在意識へ集積されて、
ある時期にある縁を得て、その心の思いが象徴的に具象化される。



小さな生命の喜び

2016年02月08日 20時58分19秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
小さな生命の喜び

手の平の乗るほどの小さな生命を抱きしめ、
病院の大理石の廊下を、ゆっくりと歩き、
その眼差しの先に、初めてのわが子を
汗ばむ腕のせて、嬉しさと喜びが
戦慄きと変わり、全身に緊張が走る。
いと小さな生命を静かに抱きしめ
ただ只管に、夢中に廊下を歩く。


子供の喜びは親の喜びであり
子供の悲しみは親の悲しみである。
親の喜びは子供の喜びであり
親の悲しみは子供の悲しみである。
子供と親は一心同体であり
子供は親の心を映した尊い姿である。
子供と親とは最も因縁が深いのであります。
自分自身の両親に感謝するとき、
吾が子供もスクスクと健全に生長するのであります。

ニイルの教育思想

『問題の子供を持つ親たちについて困ることは、彼ら自身の心理状態のいかんが、
子供達の状態に大いに影響するということを、どうしても承認しない場合が多いことである。』
ニイルは親の精神そのままが子供に現れていることを発見して、それを書いているのである。
子供の病気は親の病気。子供の神経衰弱は親の神経衰弱、
子供の夜泣きは親の夜泣き、子供の喘息は親の喘息、
子供の成績不良は、親の成績不良だと云う。
つまりそれは、子供は母親の一部分であり、子供の神経病は母に神経病だからである。
だから子供を無病健全に育てようと思うならば、
両親は子供を親の観念で縛ってしまわないようにしなければならないのである。
肉体は『自我の自由』を縛るがゆえに聖者は自分の肉体を殺したくなる。
それと同じ理由で、親は子供の『自我の自由』を縛るときは、子供は親を殺したくなる。
聖者はハッキリ肉体の自殺を意欲しないと同じく、子供もまたハッキリ親を殺したいとは意欲しないが、
聖者が『肉体嫌悪』に陥ると同様の理由で、子供は『両親または片親嫌悪』に陥り、
聖者が苦しめる苦行によって喜びを感ずるように、子供は両親に反抗してそれを苦しめて喜ぶようになるのである。
苦行の聖者と、親不孝の子供とはまったく違っているように見えても同じものなのである。


『注』
ニイル(Alexander Sutherland Neill)―・・・イギリスの新教育の教育家。精神分析学から異常児教育に関心を持ち、
                         世界で一番自由な学校であるサマーヒル学園を開く。
                         ニイルの教育法は戦後の日本の教育界に多大の影響を与えた。      


          ・・・・・続く