哲学的に考察すると、宇宙は、自然と魂とからできている。したがって、厳密にいえば、われわれから離れているすべてのもの、哲学が「非 我 ナット・ミ-」として区別するすべてのもの、すなわち、自然と人工、すべての他人、私自身の肉体、これらのものは「自然」という名で呼ばれなければならない。<o:p></o:p>
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自然の価値を数えあげ、その総額を計算するさいに、私は、この言葉を両方の意味―普通の意味と哲学的な意味に用いよう。われわれのこの研究のような、一般的なものにおいては、正確性は重要ではない。思想の混乱は、おこらないであろう。<o:p></o:p>
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「自然」は、普通の意味において、人間によって変えられていない要素のことをいう。空間、空気、河、葉、などである。<o:p></o:p>
「人工」は、こういう自然物に人間の意志をまじえたもの、つまり家屋、運河、彫像、絵画などをさす。<o:p></o:p>
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しかし、人間の働きは、すべてを合わせたところで、たかがしれたもので、すこしばかりきざんだり、焼いたり、つぎはぎしたり、洗ったりする程度のものであるから、世界が人間の心に与える雄大な印象においては、人間の働きによって、印象の効果が左右されることはない。<o:p></o:p>
ラーフ・ウォルドー・エマソン 「自然より」
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それは霊的愈脳(霊的に癒す力)の進行に障礙(さまたげ)となります。
病的現象のみを処置して癒そうとこころみる限り、到底肉体の彼方に存在する心の原因に注意を向けないであろう。
綺麗な心に曇った汚点(心)を取り除こうとはしなでありましょう。
現象に汚点があるのは心に曇りがあるからである
くるいのある状態を肉体に生じたのは、心にくるいがあるからです。
従って肉体を癒すために肉体的憂慮の必要はないのです。
注意を肉体の不完全な状態に向けずに
ひたすら心に向け心の鏡を拭い清めよ。
移り変わる現象人間の姿から心の眼を一転させて
水晶の水のように澄み切った眞実在の実相に心の鏡を向けよ。
そうすれば吾等の心は実在の世界と全くひとしく浄無垢となるのであります。
神想観中、人間の完全圓満なる実相生命を人間の一面であると観じ、而して同時肉體を人間の他の一面であると観じ、肉体なる容器に霊なる神の生命流れいりと観ずるならば、それは人間に二つの異なる存在を―すなはち一つは完全なるもの、他は不完全なるものを―認めることになるのであって完全なる神想観と言うことは出来ないのです。<o:p></o:p>
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山々に 青空澄むや 今朝の秋<o:p></o:p>
白露をワイパーで拭くと、<o:p></o:p>
青い青い空が広がり<o:p></o:p>
眩しい朝日が目に入る。<o:p></o:p>
山の稜線が深緑に染まり、<o:p></o:p>
ゆるやかに流れる川に遊ぶ夫婦の白鷺。
桜はさくらの美しさ、藤の花はふじの美しさが有るように、それぞれの花に個性ある美しさがあります。<o:p></o:p>
子供達一人ひとりの瞳にも神の子として、それぞれの輝きがあり尊い存在である。<o:p></o:p>
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子供は無限生命である“神の子である”と信じて、尊敬し、礼拝し内に埋蔵された才能を拝み出し、魂の気高さを養成することが大切である。<o:p></o:p>
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たとえ子供の素晴らしい才能の開花が遅くとも、子供の内に宿る神様の善一元の世界を信じて、無限の可能性が開くことを待ち、励まし続けることが尊い愛であり、教育の姿だと思えます。<o:p></o:p>
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親は子供の存在を心より喜び、その喜びを子供に素直に表現して、子供ひとりひとりの奥に宿る美しさを讃嘆し、拝み、礼拝する。<o:p></o:p>
神様、ご先祖様、父と母と全ての人々と子供とが一体で有ることを自らが信じ、<o:p></o:p>
『私は神の子である』ことが自然に身につくように、子供達を正しき道に乗せることが寛容である。<o:p></o:p>
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子供が悩み、傷つき、心身のバランスが崩れている時には、心から子供の全てを確りと抱きしめ、言い分を良く聞き、信頼し、理解し明るい言葉を投げかけ、喜びと自信を与え、子供の善性、実相円満完全な姿を見つめ信じる。<o:p></o:p>
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子供は親の思い通りになるものではありません。<o:p></o:p>
子供は自分が育てるのではなく、神様がお育てになるのであるから、無駄な心配、取り越し苦労は必要ではない。<o:p></o:p>
神様から尊い生命をお預かりしていると考えて、神様のお手伝いをしてお世話をさして頂くと考え、謙虚に育む。<o:p></o:p>
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言葉の創造力を最大限に活用して、明るく陽気に子供に接し、子供の無限の可能性を引き出すことが寛容である。<o:p></o:p>
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生活の中で一瞬に輝く素晴らしい、明るさ、善性を見つめ、誉め、賛嘆し、子供と共に喜び笑い、毎日の日時計日記に喜び、明るさのみを書き綴る。
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古来より身近に存在する豊かな山の幸、里の幸、海の幸を神様の尊い恵みとして大切に取り扱い、美しい大自然と共に生きて来ました。<o:p></o:p>
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近年、大自然との関わりが希薄になり、人間を中心にした物質求める生活に変わってきました。<o:p></o:p>
今回の地震に遭った原子力発電所のように人間の過信から自然界と人間界に悲惨にも有害な放射能が大量に汚染しました。<o:p></o:p>
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自然から人間、人間から自然へと互いに循環していた生活から、目の前の安易な利便性の追求、人間中心の合理的な生活に甘んじてきました。<o:p></o:p>
慈しみに充ちた、大自然の神秘なる四季との出会いを尊び感謝し、清らかな水、山菜、五穀、野菜、魚等の自然の恵み使った素朴で謙虚な日本の料理から、肉、油、化学物質の添加物が入った食品を多用した料理へと変化し、また石ケンから合成洗剤の使用等と人間界から自然界へのリサイクルが困難な生活スタイルが定着しました<o:p></o:p>
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ソローが“ウォールデン森の生活”で体験した、有機肥料をも廃した自然農法のように大自然の気高さを尊び、自然と共に生きる事を学び、自然の恩恵に感謝して、その恩恵に報いる為に自然の再生、保全に努めることが求められています。
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秋彼岸 先祖偲ぶや 経の香
痛んでいながら苦しまない自分、縛られていながら縛られていない自分、<o:p></o:p>
叩かれていながら叩かれていない自分というものが「本当の自分」である、<o:p></o:p>
それも知ることが悟りである。<o:p></o:p>
先祖供養祭に遠祖藤 彌右衛門、名島城の鎮守の神“名島弁財天”を祀りし小早川隆景を供養する。<o:p></o:p>
家族の病気平癒の写経を奉納する。<o:p></o:p>
平成25年9月14日土曜
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神は一切を包容し給うものであるから<o:p></o:p>
一切の宗教も排斥せず包容しなければならぬ。<o:p></o:p>
竹の春 後光さす 諸人に<o:p></o:p>
今日は敬老の日孫に連れられ、保育園で散らし寿司頂くなり。<o:p></o:p>
保育園の竹林の美しさに感動する。<o:p></o:p>
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平成25年9月15日日曜<o:p></o:p>
すべての人間を和解さすのが宗教の目的ではありませんか。
香煙り 鶏頭の蜂 舞うなり<o:p></o:p>
67歳の誕生日を迎え、病気等もせず健康に過ごさせて頂いた事の御恩を墓参り行き亡き父と母に報告し、聖経甘露の法雨を読誦しました。<o:p></o:p>
亡き父の使いの蜂がまたもや聖経を読誦中に舞いました。
秋晴れや 孫の便りに 目をみはる<o:p></o:p>
秋の蝉 祖母の導き 稲荷神<o:p></o:p>
平成25年9月16日月曜<o:p></o:p>
本家に先祖代々祀られ来た稲荷神を50年前に祖母より稲荷神を勧請して頂き<o:p></o:p>
ました御恩にと、孫と鹿島の祐徳稲荷神社までお参り行きました。<o:p></o:p>
感謝の道を一歩一歩と踏みしめる事が極楽への道程である。<o:p></o:p>
相愛協力の天国を地上に建設せんが為に生長の家が掲げる“人間は肉体的存在では無く霊的実在であり神の最高の自己実現であり人間は神の子である”ことを一人でも多くの人に伝える事が出来るように神に祈ります。<o:p></o:p>
朝霧の 禊払うや 野分晴れ<o:p></o:p>
心の鏡に映し給う吾が心の荒れし姿、禊払い給うや、秋晴れに光る神の御心。<o:p></o:p>
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