夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

白花にそそぐ貴女の瞳に映る幾とせの慈しみ

2015年04月20日 20時34分05秒 | 日記・エッセイ
妻の通院

癌の治療後医療センターに三年程通院に連れ添っております。
今日も、検査は異常ありませんと伝えられました。
帰りの車窓に咲いている真っ白い躑躅に、私はこの真っ白い躑躅は大好きよ、と見つめていました。
山々に霧かすむ往復10Kの道のりを、息弾んで話をする妻の明るい心を感じ、幸せなひと時を過ごしました。

白花にそそぐ貴女の瞳に映る幾とせの慈しみ















宗教はお互いに手をつなぎ共存できる

2015年04月20日 13時12分44秒 | 真理の言葉
宗教はお互いに手をつなぎ共存できる

万教帰一

様々な形に発達してきたいろいろの宗教の中に共通点を見出し、さらにそれらの共通点と一つの真理との関係を明らかにし、それを多くの宗教が承認することができれば、宗教共存の道が開けると考えています。その際、各宗教のもつ特徴や個性について、それぞれの宗教の発展過程で生まれた文化の的違いであると考え、否定するのでなく、互いに尊重することで人類の文化の多様性と豊かさを維持することを目指します。

あらゆる宗教がその宣伝使または布教者の誤解から歪められたものになっているものを、開祖の真実の教えに引き戻し、それを生かすというのです。
キリスト教、マホメット教、仏教がどうして一つの真理のもとに帰一されるかといいますと、人間の構造はどこの民族も同じであり、人種に従がって創造主の違う人間は別の構造を持たなければならないのに、すべての人種がことごとく同じ構造をもっていることは、一つの神によって造られ、創造主は一つであることに他ならない。
造り主が一つであるところの人間の救われる真理もやはり共通の一つのものでなければならない。それなのに何故世界にいろいろな宗教、宗派があるというと、その教祖が生まれてきたところの時代、人種あるいは救われるべきところの聴衆の常識、理解の程度が異なるために、教祖はそれに応じた説き方をしなければならないので、当時の常識と真理と混合して説いた。つまりその時代の民族の風習、常識、理解の程度によって、不純物を混ぜて理解しやすいように説いたために、色あいが違い、説き方が違ってきた。その不純物を除き、人間が救われる真理そのものを説くなら、真理はすべて共通で一つのものに帰す。
ですから本来真理は一つでありますから宗教争いをする必要がないのです。
誰が説いても真理を説けばそこに神が顕われてい給うのです。なぜなら神とは真理そのものであります。
真理というものは誰が説いても尊いのであります。
















教育とは、子供の生命に火を点けることである

2015年04月19日 12時23分26秒 | 真理の言葉
教育とは、子供の生命に火を点けることである。
いかなる人でも、必ず神の子の力が賦与されているのであります。
この実相を知らすのが光明思想の教育であります。
教育の根本目的は才能を仕込むことではありません。
教育とは子供の内部の神性に火を点ずることでなければならないのであります。

この世に必要でない人は、一人もいないのであります。
吾々が地上に生を享けて来たのは、吾々が地上に存在理由があるからである。
換言すれば、必要あって神は地上に吾々を生み出したのである。
従がって吾々のうち誰も皆、神にとってこの世にとっても必要でない人はひとりもないのである。この点大いに自身を持って好いのである。

内部から才能が出ようとしている時に、出すようにようにするのが子供の教育の極意になるのです。
子供がこの世に生まれて触覚、聴覚、視覚などの発達にあわせて、初めて体験して、楽しんでいる、興味をもってしているその新しい経験を積んでいる刹那刹那に名前を与えて教えてゆくというのが、生長の家の教育法であります。
興味をもって生命が内部から動き出ているその刹那刹那に事物に名前を与えて
その存在を確固たらしめことにいたしますと、これは引き出す教育になります。

霊感は受けるけれども、表現に努力がなければ天才になることができない。
自分からその花の美しさと同じものを出したいとという衝動が起こるというのは、なぜかという、花の生命と人間の生命は本来自他一体だという一つの宗教的根本原理からくるのであります。
子供は親を模倣するのであります。ですから子供をよくしたいと思う人は、必ず自分自身がよくならなければならないのであります。
親がよくならないでいて、子供にばかり口小言を言って、その小言によってよくしょうと思っても、かえってあまり口小言を言われると反抗心が起こるばかりであります。
言葉で小言を言わないで形で示す、生活で示すということにいたしましたならば、人間は模倣性の強いものでありますから、自然と真似するようになって良き生活を送るようになってくるのであります。
子供をわからず屋だと思わないで子供の神性は必ず善を理解しうると信じて、優しく道理を説いて聞かすのが一番よいのであります。

このように子供がいかなる状態にあっても、小言、叱る教育から優しい言葉の力を使って笑顔で子供を讃嘆し、ほめる教育をし、詰め込み式の教育から無限の才能を引き出す教育へ、たとえば非常に上手にできた、ここをもう少しこうしたら、いっそうできばえがよくなるだろう。きっとまだまだ上手になる。この子は善くない所はすぐ改める善い子だから、どれだけでも上手になる子だ。わたしはお前を楽しみしている。と言葉を使って歓びを見出すように導いたらよいのです。













病気は本来無い

2015年04月18日 08時20分29秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
病気は本来無いことについて

本当の人間は皆素晴らしい神の子である。仏性であり、真理であり、ただこれのみ唯一が本当の姿であります、病気の姿に現れているのはいかに実在するように見えても、それは迷いの姿であり、自分の心が勝手に描き、その描いたものを蜃気楼のように空中に描き出しているのであって、蜃気楼のような病気は決して存在しないのであります。
その迷いの姿は何であるかと云いますと、人間の生命の本当のすがたは、神様の生命が光明燦然と輝いている神そのものだけれど、その輝きを見ないで眼を閉じて感じていない状態であります。
迷いの姿である病気を無くするには、心の眼を開いて人間の本当の姿である、人間は素晴らしい神の子であり、仏性であることを認めることであります。
それが懺悔であります。
今まで人間を肉体の人間、物質的存在の人間だと思っていた、根本的間違いから考えからクルリと永遠なる霊的実在の人間を見るということなのであります。
これが大いなる悔い改めなのです。
そうすれば自分の掌中に、今此処に天国があるということなんです。
心の中に塵、間違いの観念や、一切の物質的なものを投げ捨てて、肉体本来無しと観じて、自分の内に宿っている神様の生命と一体となる時、今此のままで病気の無い神の国天国に行くことが出来るのであります。
人の肉体は心で思う通りになるのであります。
肉体は心の影である。心が苦しいと感じていられればこそ、その念のあらわれなる肉体が苦しいと感じるのです。苦しみは心にあって物質の肉体にあるわけはないのであります。こうして肉体が心の影だということがわかれば、病気しても何もあわてることはないのであります。
病気は本来無いのであります。それはあるように見えているに過ぎないのである。それは本当は無いけれど、あるように見えている迷いでなのです。
迷いいという心の状態が客観的にあらわれ映っているのが、病気とかいろいろなの人生苦とかいうのであります。
人間には真の人間と迷いの人間とふたつ相がある。一方は実在であるが、他方は迷いであってあるように見えていても、その実は存在しない。
生命の実相を自覚すれば病気は癒やされるのであります。










先祖供養の功徳について

2015年04月16日 21時42分37秒 | 真理の言葉
先祖供養の功徳について


霊界と現実世界があり、この世の一曲が終わっても人間は不死であり、肉体が死んでも、人間はそのものは消えて無くならずにつぎの世界である霊界に移るのであります。
霊魂の行く世界には、多種多様の苦しみの境涯があって、その境涯にあって、霊魂の浄化作用が行われるのである。
霊界に於いて霊魂の背負う“悪行”を浄化消滅する自然の道は、苦しみを償うことによって、その悪業が清算さるのであるが、それには長時間かかる。それで祖先及び自分の家系に属する縁者の霊魂が苦しんでいるのを急速に救う道を講じてやらなければならないのである。
これを救い得たならば、霊界の霊魂自身及びその影響を受けるべき現実界の両様の救いとなるのです。
霊魂の浄化は消極的には“懺悔”と積極的には“真理を悟る”という二つの方法によって主として行われる。
そのうちの真理を悟るというのは人間の実相は本来“如来”であり、神の子であり、本来“無罪”の実相をその霊魂が自覚して、悪業存在の世界から解脱して“如来”の境地に超入することであります。
祖先及び縁者の霊魂を成仏させてあげるのが、現実界の子孫及び縁者の義務でもあり、それが自分自身に報いられて来て家族全体の健康ともなり、繁栄ともなるのです。
神性を自覚した霊はどんな形式によっても祀ってもらう必要はないのありますが、未だ悟りの境地に達していないで、肉体的自覚を脱し切っていない霊魂には食を欲するものには食を与え、薬を欲するものには薬を与え、宮を欲するものには宮を与え、仏壇を欲するものは、仏壇を与えてこれを供養して誠をつくすことが、これが祖先に対する道となるのです。
霊魂を祭祀する時には生前好みたる食物を供えてあげるがよいです。
霊界は念の世界であり、念を食物として生きているのであり、物質の供物の大小、多寡によるものでなく、供えるの念が霊界に放送され愛念が原動力となり念送されて霊界に念で作られたお供物となって出来上がる。
吾々は供養の念を供えて、供養の念を食べて頂くということになるのです。
善念特に真理の想念は、最も霊魂を向上せしめる滋養物となるのです。
それ故に霊魂に対して真理の経文を読誦する行持があるのです。
供養するにあたっては普通は五十年したら、自然に霊魂の浄化が行われ、迷っている霊魂がほとんどいなくなることになります。
しかし非業の最期を遂げたようような霊魂は五十年過ぎた霊魂でも名前を呼んで供養したがよいです。
無縁仏は供養しないほうがよいです。また先祖の宗旨を変えないほうが宜しいです。
甘露の法雨を読誦することにより現実界の人間の病苦、苦悩はもちろん、霊界の諸霊もその読誦の真理を聞いて悟りを開き迷える障りの霊も守護の霊となり、病が癒やされ、運命が好転等の色々な奇跡的功徳を生ずることになります。
また先祖の前で甘露の法雨を供養する場合にはただ尊敬と報恩・感謝の念でもって読むこと。
この聖経はあなたが伝承されてきた宗旨の教の真理を解りさすい現代の言葉で書かれたものですから、心を集中してこの聖経をお聞きいただき、真理を体得して、仏陀の境涯に達し給わんことをこいねがいますと唱えてから読誦するがよいです。
また毎日読誦する時間を決めること。
香をたいて、高級神霊、仏、菩薩の降臨しやすいようにする。
特別定めた祀り方はないのです。他の宗旨によって色々な祀り方があり、改式する必要はないです。
位牌を作ってその位牌に向って、名前をとなえて話しかけてあげると、現世のわれわれと霊界と交信するアンテナをつくることになってよいのです。
拝む人の心に描かれた浄土の中に、そして拝む人の聖経の真理の中に先祖を摂取することになるのです。
そのため先祖供養はぜひ必要でありまた供養することにより現実界の人間の病苦、苦悩はもちろん、霊界の諸霊もその読誦の真理を聞いて悟り、病が癒やされ、運命が好転等の色々な奇跡的功徳を生ずることになります。










愛は決して観念の遊戯ではないのである。

2015年04月15日 20時02分15秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
フロイドは言うある夫婦はお互いの復習が完了しないが故に夫婦生活を続けているのである。

それは愛がないからである。

愛は相互扶助である。愛は無我献身である。愛は惜しみなく与える。

愛は生命創造の原理である。愛は決して観念の遊戯ではないのである。

諸々の愛着が悉く解脱されたとき真の“法愛”仏の愛に致達するのである。












母の祥月命日

2015年04月14日 21時17分35秒 | 日記・エッセイ
母の祥月命日

私の家は先祖代々浄土宗の家柄ですけれども、法華経を愛した母の命日に、母の好きでありましたバナナ、サンドイッチ、樒、白菊を供え父母恩重経と法華経の一節とお題目を読誦しました。
母とは一歳の時に分かれ、五十五年後に母の遺骨と再会しました。

『衆生劫つきて大火に焼かるると見ゆる時、我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり。園林諸々の堂閣、種々の寶もて荘厳せり、寶樹華果多くして、衆生の遊楽する所なり。』

母から数多の恩徳を享けながら、身近に接することも出来ず、最期を看取ることも出来ずに五十年程過ぎ去り、悔恨の情遣るせない気持ちでありました。
しかし法華経の教えに有るように人間の生命は永遠の生きとおしの命であります。
永遠の生命である母の御霊に、釈尊の教説のなかでも最勝最大の教えである妙妙なる妙法連華経を誦し奉り、せめての恩に報いることができればと願い仏前でお祈り申し上げました。
不思議なことに、今年三回忌を向える息子の御霊が母と共にお経を聞きに顕れました。
息子も母より導かれていることに、ありがたく想われご先祖様の御愛念を深く感じました。







汝、心をつくし、精神をつくし、力をつくして、汝の主なる神を愛すべし

2015年04月13日 22時00分23秒 | 真理の言葉

汝、心をつくし、精神をつくし、力をつくして、汝の主なる神を愛すべし。
神を愛するには、神に対して、自己を無条件に献げなければなりません。
有限の自己を放棄して『無』になってしまったときに、内部に宿っている『無限』を包んでいた殻である『有限』が破れて、其処から無限が出て来るのである。無限が内部から出て来て、それが健在になるとき、精力の欠乏、健康の欠乏、供給の欠乏、不安、恐怖などと云うものが無くなるのである。

不安恐怖は神に対して自己放棄が完了していないから起こるのである。









山川草木国土悉皆成仏と対称性と非対称性の考察

2015年04月12日 20時35分48秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
山川草木国土悉皆成仏と対称性と非対称性の考察

十円硬貨を平面上に置いて上から見ると丸く見えます。これは二次元の世界を見ている事であり、同じ直径の丸いボールを見ることは縦と横の厚みのある三次元の世界を認識しているのであります。このボールと硬貨は非対称性であります。
同じ直径の丸いボールを平面上に於いてから上から見ると十円硬貨と同じ直径の円に見えます。これは対称性であります。
例えば先祖と父と母と子と孫は私たちが生きている現象世界の三次元の世界では非対称性的でありますが、次元を超えた心の奥にある超越的無意識では愛によって一つに結ばれた生命の連続であります。即ち対称性であります。
たとえば静止画のパラパラ漫画を連続的にめくると動く画像に変わるように、
二つの項目(非対称性)を操作して動きを与えると、次元の変わる世界(対称性)が顕われます。
最初に二つの項目を分けて等しくに扱いこれを無限に操作して集合すると無限集合となり、部分と全体は同じ濃度で等しいと考えます。
このように違う次元で物事を観ると非対称性のなかにも対称性を観ることができます。
非対称の憎しみの相手に善なる愛を見出すならば対称性となります。
無意識は、非対称的な関係を対称と認識することを精神分析のフロイド派のマツテ・ブランコは対称性の原理と云っており。
無意識では例えば憎しみの感情が無限に膨張すると憎しみが心に充満して全体と等しくなることを対称性的論理である理論づけられます.
精神分析は心の奥底を探り、現実の現在意識の心を客観的に無意識の心に同一化・対称性を見出して患者の沈滞した心に開放と平安を与える方法であります。
それには限界があります。
それは治療者と患者が直感的に超潜在意識に存在する仏の世界である宗教性・神秘性を認識することが必要であるからです。
愛と憎しみが融合され混然一対となり悪と善が等しく混在した転倒妄想の世界では、混乱が生じるだけで、秩序性が欠けていると思われます。
地球が秩序整然と動いているように、秩序性は神の御心であります。
善と悪は人間にどちらを選ぶかは自由であります。

釈尊がすべてのものは仏の顕われとお悟りになられた山川草木国土悉皆成仏の世界(真実の世界)には人間が悪心を起こしても、奥底には常に真実の輝く仏の慈しみの世界が実在しており、やがて経験を通して真実の『慈悲喜捨』の癒やされた世界が花ひらく時がきます。
真実の心は肉体人間が脳細胞で感じる心ではありません。
真実の心は肉体人間が感じる心である現在意識・無意識を一切捨て去った時に顕われる霊的実在の『永遠を生き貫き通した心』であります。
ユングの心理学では『神なる』観念も、そんな観念が、たった一人の個人の心理のなかに現れているだけだったらそれは単なる心理的主観的なものだけれど、『このような観念が、ほとんど至る処で、あらゆる時代に、一定数以上の共有になった場合にはそれは客観的なものである』とユングは説いています。

一遍上人は『我が體を捨て、南無阿弥陀と獨一なるを一心不乱というなり。されば念々稱名は念佛が念佛を申すなり』と説かれている。
即ち佛性が大信心を起こすのであり、その佛性とは自己に宿るに如来である。
如来が念佛して如来の実相があらわれるのである。
吾らの内に存在する超越的無意識、または宇宙意識に『既にある神一元、如来の実相』である素晴らしい神の愛が、真心を現わす縁を通して、直感的この現象世界にあらわれます。

このように部分が集合して全体があるのではなく既に全体があり部分があるのである。既に全体を現わす宇宙に満ち満ちた『如来』があり、部分を現わす吾々の一切の『自我』を捨て去り南無阿弥陀仏と唱える縁により部分である吾々の『真我』と全体である『如来』と『この身』、『此のまま』で、一体となることが出来るのであります。部分である『現象世界』が先ではなく全体である妙妙なる『仏の世界』が既にあり潜在意識、無意識を通して吾々に『如来』のすがたとして顕われるのです。
このような神秘的な意味で『部分』である吾々と『全体』である妙妙なる如来は一つに結ばれるのであります。













人間の実相は如来である。

2015年04月11日 20時54分21秒 | 真理の言葉
人間の実相は如来である

華厳経の一節を講義してこの『心・佛・衆生・三無差別』の思想を批判して、『心が悟れば佛になり迷えば衆生となる』という句には一つの陷穽があるのであって、多くの佛教者はこの陷穽に引っかかるといって指摘したことがある。
即ち人間の実相は、『心が迷えば衆生となり、その衆生が悟れば佛となる』では、『衆生』が方が実相なのか『佛』の方が実相なのか、差別なくどちらが、実相なのであるか有耶無耶になってしまう。
つまり『心』というものは無自性の『空』なるものとなり、人間の本体が、『無自性』であるならば、如何に生きるのが正しいのであるか基準も理想も規範もなくなる。
これを白隠の如く水をもってたとえれば『水』を『心』の譬えとして、蒸気を『衆生』の譬えとし、氷を『佛』の譬えとした場合、衆生が実相であるか、佛が実相であるか不明となる。
『水』本来の姿のか『氷』が本来の姿なのか、蒸気という『ガス体が』が本来の姿なのか、この三者のうち主体はどれであるかわからなければ、人間は蒸気として生きるのが正しいか、氷となって生きるのが正しいかわからなくなる。
だから南方の仏教者は『実相・完全の姿』を生活し得ずして、『空』に捉われ、乞食のような貧しい生活をして、国家までも空じ去って、その国が滅びてしまっているのである。

人間の生命の実相は『佛』であり、『如来』であり『神の子』である。
たとい『心』が迷って『凡夫』となってあらわれていても、本当は『心を観ずるに心無し』であり、(『観普賢菩薩行法経』)
従がって、その本来無い『心』が悟って成る『佛』も“無し”であり況や『心』迷って生じる『凡夫』も“ない”のである。
ただ『満福現在』の実相のみが独在する。それ故に我らは、『実相独在・円満完全・満福現在』という聖句を常に誦行するのである。

                                             女性のための知恵より













愛と憎しみ

2015年04月09日 21時07分40秒 | 誌編
愛と憎しみ

懸命に磨くその一筋の美しい真心で

求めても求めても得られぬこの想い。

突然に胸をかきむしるこの熱き激情。

すべてのものを愛するこの偽善。

すべてのものを憎むこの戦りつ。

果てしない暗黒の世界への誘い。

光と闇が交錯するこの娑婆世界。

愛と憎しみが同居するこの世界。

この無情の世界を捨てた彼方へ。

捨てて、捨てて、捨て去った心。

幽かに幽かに、魂に囁く神の愛。

聖愛と慈しみに満ちた神の御愛。

今此処に存在する神の無限の愛。










花の園

2015年04月08日 19時59分59秒 | 真理の言葉
花の園

花園でお生まれになった釈尊が苦行林で一日にわずか一粒の麻子(あさのみ)をたべて苦行を続けられた。

『仏に帰依し奉る』と一度となえたのがもとでついに覚りにいたったという話や、
わずかなおかねで油を買って供養したという貧者の一灯が、未来には仏の位に登るきっかけになった。

生きとし生けるもの、有りとしあらゆる物のご縁に
仏こころを起こし、供養し、礼拝することが尊いことであります。

花を愛し、花の生命とひとつになる歓びは、
永遠の仏の生命と一体となることであります。










無条件の愛

2015年04月06日 21時53分46秒 | 誌編
無条件の愛


吾々の一生は父と母の愛を求めての一生であります。
吾々の深い心の奥底には神の愛が満ちており、
夜に大地が露で潤い太陽が輝くと、
何事も無かったように消え去るように、
吾々の気がつかないところで、
常に吾々を導き癒やしておられます。
神は永遠の父であり、永遠の母であります。
神は吾々が憎悪に満ちた時にも常に愛しておられます。
神は吾々がどんな罪深い時にも常に赦しておられます。
神は吾々が悲哀に満ちた時にも常に慰めておられます。
花が永遠の喜びと祝福を大地に捧げるように、
神は吾々に全身全霊で、喜びと祝福を捧げ給う。
吾々は神の名をよばずにはおられないのです。




早朝の瞑想

2015年04月05日 20時08分42秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
早朝の瞑想

今日は時折激しい雨がふり、月一回の道場での瞑想に参加しました。
その足で菩提寺へのお参りと三箇所の神社を参拝するのが毎月の行事であります。
鳥居をくぐると参道に桜と椿の花びらが見事な紅白模様を織りなし、
見上げるとまだ水銀灯が輝くなかをお参りしました。


子供時代の私たちには親を喜ばし、それによって自分を守ってもらうひつ世yががあるために、自分さえ知らないうちに、私たちの心は外的な自己(仮面)と個人的な自己(影)とに分裂してしまいます。この分裂の中で、私たちは自己についての本当の感覚と、自然な衝動を表現する能力を失ってゆきます。私たちの生まれながらの権利である、安らぎと力を失ってしまうのです。やがて私たちは不安になり、罪悪感を感じ、バイタリテイーを失い、自分を犠牲者のように考え、そ振舞うようになります。そしてときには肉体的な病気にさえなってしまいます。
 私たちの自己の全体像を自分自身で隠してしまい、その為に道に迷っているのですから、それらをもう一度『思い出せば』癒やしは始まります。すべての感情はこの世界と自分との相互関係を教えてくれるメッセンジャーなのだと気づいて、それをそのまま享け入れるー この気づきの力を取り戻すことが、自分についての正しい概念を回復するための出発点です。
自分との正しい関係を修復するためには、大人となった私たちの思考、感情、行動に今なを影響を与えている、過去の内なる子供(インナーチャイルド)を探しだして、その子とのワークを行うのが非常に効果的です。 『愛と赦しの心理学』より 







2015年04月03日 21時44分31秒 | 誌編
昨夜壮年層の皆さんと愛について語り合いました。

新しい生活

トントンと小さな足音が廊下に響く。

新しい希望への弾む初々しい息遣い。

あなたに寄せたあの満たされた想い。

突然に再会の足音に時めきの花咲く。

美しい愛の刹那さ、喜び、豊かさよ。