夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

古代より藤一族の氏神神社である日佐住吉神社の覚書

2015年10月31日 02時33分10秒 | 歴史
古代より藤一族の氏神神社である日佐住吉神社の覚書

住吉の大神(すみのえのおおかみ)は墨江大神とも水火津霊(しおつちの)の神とも稱し、上津瀬、中津瀬、底津瀬、または表筒男命、中筒男命、底筒男命の三神の総稱であり、上津瀬、中津瀬、底津瀬の秩序を整え給う神であり、善を肯定する潮満珠(しおみちるたま)、悪を否定する汐千珠(しおひるのたま)を司る神でもあります。  

伊弉諾尊が黄泉国に至って穢れがあり、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて禊祓された時、綿津見三神と共にあらわれ、綿津見三神は志賀島の志賀島神社に鎮まり安曇族として信濃の安曇野、渥美半島、阿波、肥前、豊後、淡路、隠岐、河内等、全国に広がっていき、また天皇より安曇宿禰姓を賜わり高橋朝臣と共に内膳司に仕えた。住吉三神は現在の福岡市住吉区の住吉神社(上津瀬神)、筑前の筑紫郡日佐、現在の南区日佐町の日佐住吉神社(中津瀬神)、筑前那珂郡、現在の那珂川町の現人神社(底津瀬神)として鎮まり日本最初の住吉神社と云われています。また、古事記の仲哀天皇時代に住吉族として神功皇后と共に遠征し、宮地嶽神社に神功皇后と共に(藤助麿…藤高麿)として祀られています。

平安時代の対馬の総宮司職であり本居宣長と親交があった神道家の藤斉延(とうなりのぶ)がつとめる八幡宮、雞知の鴨居瀬の住吉神社等で藤と云う苗字が見られます。『国守りの神』、鎮護国家の軍神、海路を守る神、または海を保護する神、航海漁業の神、和歌の神として住吉三神は紫式部(本名藤式部)達に仰ぎ信仰されました。
神社は伊勢神宮のように拝殿はなく、古来の住吉造りの建築様式で、側に吹き抜けの絵馬殿(武者絵)があります。  

平成十二年外環状道路建設のための曰佐遺跡の発掘調査によって、此の地から先土器時代の遺物や縄文土器等が大量に発見され、明の時代の中国製輸入陶器や、平安末期から室町時代の集落跡も発見され、此の地域は六千年もの太古から先進的な人々が住んでいたことが考古学的に証明され、また稲作が日本で最初に始まった所であり弥生時代の夜明けの地域でもあります。筑紫国、那の津口に官家が造営されてより、此の地方は中国大陸や、朝鮮半島との外船の往来するところとなり、曰佐はその応接の要地であったため、その航海の安全や鎮守の神として筑前那珂郡に住吉三社が居かれ、上社は那珂川町の現人神社・下社は博多区の住吉神社、当社は、その中津瀬の神として祭られたもので、その起源は宣化天皇の御宇(五三六年)の前後であると記されています。

祭神は住吉三神、香椎大神(神功皇后)、高良大神(藤大臣…とうのおとど)、若大神(応神天皇)、比賣神(ひめがみ)。













朝の微笑み

2015年10月29日 20時57分51秒 | 真理の言葉
肌寒い、朝露にきらめくコスモス畑を通り過ぎて、一方通行の見通しのきかない曲がり角の出口で停車していると、
相手側が優先であるのに、道を譲って頂きました。
板塀の向こう側の車窓の中に温かい微笑の女性が見えました。
清清しい朝の通勤でした。





悲しみが喜びに変わる

イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とわたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。
しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれた喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。
はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。
願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
ヨハネによる福音書十九―二十四




朝霧の谷間に揺れる紫蘭の装い麗しく

2015年10月27日 23時16分31秒 | 誌編
貴女がわが内に此処にいまして我を見守り給う

まだ見知らぬ面影を想い、貴女の心につぶやき

荒れ狂う嵐を翔け抜け、貴女の御胸に懐かれる

紺碧の美空に雄大に流れる真白い雲がささやき

温かい土手の青い草群に身を寄せ、眼を閉じる

瞼の裏にひろがる、貴女の優しい一筋のなみだ

稲妻が輝き、轟く雷鳴、夢から覚め縁に花匂う

ゆずり葉の尊き気品遍く薫り、拝む貴女の素顔

過ぎ去りし夢にうかぶ、野になびく砂煙りの道

いのちの叫び、山々に木霊して届くや天までも

朝霧の谷間に揺れる紫蘭の装い麗しく舞うなり









母の懐を寝處となし、母の膝を遊場となし、母の乳を食物となし、母の情を
性命(いのち)となす・・・・

一に懐胎守護の恩      二に臨生受苦の恩
三に生子亡憂の恩      四に乳哺養育の恩
五に廻乾就湿の恩      六に洗灌不浄の恩
七に嚥苦吐甘の恩      八に為造悪業の恩
九に遠行憶念の恩      十に究竟憐愍の恩

              仏説父母恩重経











10月25日(日)のつぶやき

2015年10月26日 05時09分42秒 | コラム・人文

アンビバレンス的(不安)な世界へ光りを

2015年10月25日 23時30分53秒 | コラム・人文


心の退行、先祖返り、原光景、故郷、民族主義、原理主義は物事が原点に返ると云うことでは共通のものがあるように思えます。
此のような事は現象的には私たちが現在意識で感じることが出来る表面的な原点の世界だと思えます。
心理学的には人間の心は現在意識、潜在意識、ユングが説く宇宙意識、人類意識等がありますが仏教にも阿頼耶識という言葉があります。
紅葉が美しいと感動するような現在意識、その様な感動している心の内にも深く沈潜している潜在意識。
潜在意識は普段には意識することは出来ません。
例えば心臓を手足のように現在意識で動かしたり止めたりすることは出来ません。
自分自身の無意識の心で動かしています。医学的には自律神経が動かしていると云われています。概略的には現在意識、潜在意識の二つの心が私たちの心を動かしています。
愛と憎しみ、平安と葛藤、平和と争いこの対立的な事象は平安を求めながら心を悩ます苦しみ、愛しながらも相手を憎む心、平和を求めながら争う世界。
これは潜在意識に抑圧、蓄積された負の財産(罪の意識等)が厚い心の壁に閉じ込められ窒息状態でありことを示しています。心の悩みも相反する二つの心が潜在意識の内で葛藤して自分自身の現在意識で調和することが出来ないような状態であります。相反するこの二つの心が現在意識で別々に認識できる時には安定していますが、相反する二つの心が同時に存在して認識するアンビバレンス的な心が生じると大変不安定になります。
人の心が発達して文明が進歩し紳士的に生長したにも関わらず異民族の争い、不平等の社会への不満、やむ得ず祖国を捨て民族の大移動等、世界には不安定な要素が充満しているように見えます。
心が不安定になりますと心の退行等などが見受けられます。
この様なアンビバレンス的な不安な心が今世界中を覆うっているように思えます。
また世界がある意味で、心の退行、先祖返り、原光景、故郷、民族主義、ナショナルズム、原理主義のような表面的な原点に回帰しているように思えます。
仏教では仏の教えが衰退する末法の時代、キリスト教ではノアの箱舟とか云われていますが、
人々は表面の心(現在意識)では心の退行、先祖返り、原光景、故郷、民族主義、ナショナルズム、原理主義への回帰を確りと認識しているようには思えませんが、その事を合理的、対症療法的に解決しようとしています。人々は、さ迷いながらも心の奥底では創世記の天地創造、お釈迦様の山川草木国土悉皆成仏の世界、超潜在意識、絶対的な世界、神秘的世界、神仏の世界を求めて、真実の豊かな世界へと回帰したいと願っているのではないかと考えます。
日本の伊勢神宮の遷宮は惟神(かむながら)の道を、日の丸の円を回る如く
「常若(とこわか)」に永遠に回帰し。今此のまま神の誠の世界を顕わしています。



世界に平和と安寧が訪れることを心より祈ります。






秋田からホットな便り

2015年10月25日 00時12分01秒 | 日記・エッセイ
はるばる東北秋田より娘のお友達が私達夫婦に会いに来られました。
料理屋の個室で会席料理を頂きながらお話を聴きますと、鉄の工作物を作っている明るい青年でした。
東北の訛りがあると思っていましたら、普通に喋られ、雄弁に話をされました。
秋田を出るときはジャンパーを着ていましたが、ジャンパーを東京羽田で脱ぎ、また更に長崎空港で一枚シャツを脱ぎ、長崎は大変暖かいと言われました。
もう秋田では薪ストーブを焚いているそうです。秋田では気温差があり紅葉が素晴らしく、来月は車に冬用のタイヤを使用し、本格的な冬支度が始まるそうです。
今夜は長崎市の稲佐山の頂上より日本三大夜景を見に行くそうです。
娘とのお付き合いをそっと見守りたいと願い、握手をしてお別れをしました。






神は人間を神の象(かたち)に創造りたまいて、それを男と女につくり給うたのである。
夫婦となるべき男と女とは本来『一つの人間』の魂の半分ずつであるのである。
互いに一つのものの半分であるから、霊的波動が同一である。波長の同一なるものは、
テレビの電波が波長の同一な受像機に同調して姿をあらわすがごとく、たがいに近づいてきて一体となろうとするのである。
たがいに近づいてきて一体となる行事が結婚生活である。
                                   真理の吟唱











.

生き生きと蘇える青春の思い出

2015年10月23日 22時38分26秒 | 日記・エッセイ
帰宅すると机の上に葉書が置いてあり、北海道の長沼でアトリエ創踏舎を主催している友人の筆跡に似ていると思い手に取り身近に見ますとやはり友人からの転居の知らせでした。今年は年賀状も届かなかったので心配していましたので、大変嬉しく思い安心しました。
葉書には次のような俳句を詠っていました。

ななかまど 彩づきめいて 秋の空

 

学生時代からの友人であり、若い頃は薔薇の花美について、友人に如何して薔薇の花を描くのですかと問いますと、
『薔薇の花自身が美しい』から薔薇の花を描くと答えました。
私は『自分自身の心の深奥に既に美しい薔薇の花が存在する』から、眼に見えている薔薇の花と云う縁を通じて薔薇の花が美しいと観じると言いました。この様な事で大議論をしました。二十五才の頃の懐かしい思い出です。
友人は全国を放浪し、苦学してスペインに渡り絵画の勉学に励みました。豊かな自然に恵まれている北海道の長沼をこよなく愛した友人です。キャベツを食べる時にもキャベツを水に浸けて青虫を逃がしてから調理をすると言います。それ程自然と生物を愛した友人です。

青春の 夢かおる露の 嬉しさよ



糞虫は至穢(しあい)なれども、変じて蝉となりて露を秋風に飲む 腐草は光無きも、化して蛍と為りて采を夏月に耀かす。固(まこと)に知る、潔は常に汚より出で、明は毎(つね)に悔より生ずるなりと。   
                     菜根譚の光明思想



森と地球と人々に愛を

2015年10月22日 21時25分08秒 | 自然の育み・環境
勤務先の災害拠点に指定されている総合病院で災害訓練がありました。
以前は雲仙普賢岳の火砕流、JRの特急列車の転覆事故などを経験しましたが、緊急時の災害に備えての訓練は始めてでした。沢山の非番の職員達を動員しての訓練でした。
自然災害、人災が出来るだけ起こらないように、普段から備える事が必要であり、その為には、どの様な小さな報われない仕事でも誠実に成し遂げることが必要であります。娘婿が橋や高速道路を設計していますが、この様な公共施設は長年使われるものであり、人命に関わることでもあり、未来に不測の事が起こると誰が設計したか直ぐ判るものであり、大変苦労が多い仕事と思われます。
また神様から頂いた素晴らしい自然を礼拝し、何百年も里山を守って来た経験を生かして、質素で、何事にも謙虚な姿勢で生活を営むことが大切であると思えます。


今から一六一年前の一八五四年に書かれたアメリカの詩人博学者でインドのガンジーに多大な影響を与えたソローの
ウォールデンー森の生活(WALDEN,OR,LIFE IN THE WOODS)には朝陽の昇ると僅かな時間で畑仕事をこなし、畑には肥料を施さず、草も刈らずして種を蒔き、蔵に入るほどの収穫もせずして、湖水と森の中で動植物と共に質素な自給自足の素朴な生活営み、空いた時間を読書や思索に費やしたそうです。





この様に自然の恩恵を生かした、太陽光発電、水素を使った自動車、風力発電鑰等、の自然エネルギーを使い、日本の葉隠れ精神等の質実剛健の心を生かした生活。神様からの恵みである身近な四季に採れる植物性の食物を生かした茶懐石料理、精進料理等の食べ物を頂く事が真の生活であります。
禅の生活は一人畳半畳で生きる事であります。





僧院の修行者が肉食を配して清浄なる植物食をとることにしているのは、植物性植物は血液を清浄にして、心に平和と、請謁とを与え、戦闘の心を鎮め、真理を獲得するのに適当な心的状態を与えるからであります。
                                                心と食物と・・・・


節食して他に施す心
節食してそのあまりの食物を人々に施したいという心
自分の本性として持っているほとけごころ(菩提心)がおのずから内心に育って行って、さらに仏の光が外から照らして加護してくれれば、本能のままにの心にも、突然に、節食してそのあまりの食料を他の人々に施したいという心が生じてくるのです。
                                秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)  弘法大師空海




人間の魂は不滅であり、永遠に生き通しであり、私達と共に生きています。

2015年10月20日 23時42分10秒 | 真理の言葉


今日は私の話を聴いて頂く信仰仲間の座談会でした。
① 真理の道は唯一つ・・・人間は神の子である。
② 罪なし。迷いなし。病なし。
③ 肉体は死んでも『人間は死なない』
④ 今私たちが観じている本当の世界は善一元の世界である。

『能く一念喜愛の心を発せば煩悩を断ぜずして涅槃を得』
親鸞上人

人間の生命の実相は『佛』であり、『如来』であり『神の子』である。
たとい『心』が迷って『凡夫』となってあらわれていても、
本当は『心を観ずるに心無し』であり、従がって、
その本来無い『心』が悟って成る『佛』も『無し』であり
況や『心』迷って生じる『凡夫』も『無い』のである。
ただ『満福現在』の実相のみが独在する。
それ故に我らは、『実相独在・円満完全・満福現在』という
聖句を常に誦行するのである。


この様な議題を中心にしてお話をさせて頂きました。



仏壇の前で御経の読誦が終わり、振り返って此の中で新仏がいる方は居られますかと聞きますと、
この座談会にも参加なされた、熱心な信仰深い人の御祖母さんのお葬式が今日でしたと答えられました。
私がその亡くなれた御祖母さんが今此処に御経とお話を聞きに来られていますよと言いますと、皆さん驚いていました。


袖触れ合う縁も他生の縁と申しますが、

本日、八一歳の御誕生日を迎えられた美智子皇后様より、
『死者は別れた後も長く共に生きる人々であることを改めて深く考えさせられました』とのお言葉を賜りました。

この様に人間の魂は不滅であり、永遠に生き通しであります。