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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『経営と文化』 林周二(著)

2007年02月21日 | Book

             ウィンター・コスモスと菜の花


林周二さんという経営学者の方が書かれた『経営と文化』(中公新書)という本を読みました。1984年出版ですからもう20年以上前の本です。

この時代はプラザ合意による円高不況前で日本経済が世界の第一線に立っていた時代です。現在の経営学者が本を書けば、おそらくどれも現在の経済・雇用情勢をめぐる激変に触れた危機意識の高い文章になるでしょう。それに比べれば、この本では日本経済の危機や“グローバリズム”という考えも示されず、淡々と各国の文化の相違がその地の企業体に与える影響について述べられています。これは時代の違いを感じさせる点です。

そのため、究極的に何が問題なのか?という危機意識はあまり押し出されません。ただそれゆえに、学者として著者が企業と各地域の文化の関係について記述する文章の客観性が前面に出てきます。

文化については、“和”“根回し”“心術倫理”を強調する日本の企業に対し、“個人”による直接的な“交渉”や“リーダーシップ”を協調する欧米・韓国などの企業という説明がなされます。

この本の中で私に印象的だったのは、文化の違いによる時間感覚が経済活動に与える影響についての記述。

例えば

・ アメリカの経営者は、〈現在から未来に〉眼を向けて経営する。そこでは、ヴァイタリティvitality、アバンダンスabundance(豊富さ)、モビリティmobility(可動性)といった思想が重視される。
・ 西欧の経営者は、〈現在から過去に〉眼を向けて経営する。そこでは経験、必要性necessity、安定性stabilityといった思想が重視される。

といった傾向が見られます(p.149)。

実態は知らないのですが、アメリカでは資本の所有と経営とが分離しているため、経営者はつねにリスクを怖れずに市場を開拓しようとします。現在でも、ベンチャー・キャピタルからお金を借りた起業がアメリカでは頻繁に見られると言われています。

それに対してイギリスやフランスなどでは、19世紀の資本主義企業の形態を受け継いだ「いわゆるオーナー経営者とか金融出身の資本家型経営者」が多く(写真家ラルティーグの父親は大銀行の副頭取だったそう)、そのため資金の損失を怖れて過去の栄光を維持することを志向するそうです(p.149)。

ではこの図式で言えば日本の経営者の世界観はどうなるのでしょうか?

まず、アメリカ型でも西欧型でもない世界・時間観としては、眼を未来だけでも過去だけに向けるわけではない、輪廻的な世界観が考えられます。現在から未来へ眼を向ける場合でも、過去へ向ける場合でも、それらの場合では時間は単線的に進むと考えられます。

 ―→○――→○――→○――→◎
  過去  現在  未来  終末

それに対して輪廻的な世界観では、現在・未来・過去が円上のどこかに位置し、時間はその周りをグルグル回るようなイメージになります。

しかし林さんは、おそらく日本人の時間意識は、そのような輪廻的なものではないと言います。

単線的な時間間隔では、過去・現在・未来は厳然と区別されたものです。それゆえにアメリカの経営者は“未知”の領域を“開拓”しようとし、西欧の(19世紀的)経営者は取り戻せない“過去”に郷愁を感じます。ここでは、未来も過去も現在とは区別されたものです。

他方で輪廻的な時間間隔では、現在・過去・未来はもはや区別できないものと感じられます。

それに対して林さんは、“日本人”の時間間隔は、現在・過去・未来の違いは意識され、過去から現在そして未来へという一方向的な感覚をもちつつも、過去は現在に流れ込み、い、また現在も未来へとつながって流れていると指摘します。

「…日本人型の文化時間意識にあっては、過去は単に永遠に過ぎ去ってしまったものではなく、現在のなかにそれは脈々と活きているものと認識される…。…祖霊たる死者や先祖の魂も、子孫のもとへ帰ってくるというのが日本人一般の宗教観・人間観・自然観です。…未来に関しても、それは現在の人智の及ばないものではなく、飽くまでも現在の延長線上にあって、現在の人間の支配可能領域として考えるのが、日本人の常で…」(p154)。

(そういうふうに言われると、川の流れのように って、見事に“日本人”の感覚を表している歌なのね)

この指摘に関連させて著者は、海外から日本に来た人たちがみな「この国において、なお過去が活き、現在と溶け合っている」と驚くことを紹介します。ある海外の学者は、京都のお寺を見学しても単なる観光対象としか考えられず無信心客があふれていることに心を動かさないのに対し、伏見のお稲荷さんにはとても感動したそうです。つまり稲荷信仰には「古い民族のアミニズム信仰」が生きており、それが人々の日常生活行動の指針になっていることが感じられたということです(p.150)。

こういうことは“日本人”の私たちには分かりがたいことです。ヨーロッパに行くと、とりわけ西欧諸国に行くと、昔の町並みが保存され、町中至るところに教会があることに気づきます。それを見ると、歴史を大事にしているのはむしろ西欧の人のように思えます。しかし実際は、例えばドイツでは、そのような“中世風”の家並みは第二次大戦後に国家政策として意図的に再建されたということです。過去の価値を復元することによって、ナショナリズムを意識的に維持するためです(戦後ドイツ 三島憲一)。

それに比べれば、日本は国家・役所によって過去の町並みを都市全体にわたって残すということはほとんどないでしょう。京都のような特別お寺が多い場所を除けば、多くの“小京都”で申し訳程度に昔の家が残される程度です。

中世風の石畳の道で覆い尽くされている西欧の国と違い、日本の道路はグレーのコンクリートで敷き詰められています。そう、日本はグレー色の国です。100年前は土の色の国だったのに、あっという間に風景は変わりました。

にもかかわらず、海外から来た人には、日本の風景には過去や信仰心が生きているといいます。

林さんはそのような時間意識をもつ日本人のことを次のように言います。

「過去と未来とが現在という時において同時に会する文化時間構造をもつ日本。…将来のおみくじは、恐らくは、みくじ機械そのものにセンサーを備え、籤を引く人の人相や動作などをコンピュータで分析して、その人の吉凶を科学的に予測し、ワープロで籤を打ち出して供給するようなものになるだろうと、筆者は予言できます」(p.158)。

動物占いってしたことないけど、パソコンでやるわけですから、こんな感じかな。またライフコンパスというソフトウェアは占いとコンピュータとの融合であり、林さんの予言は概ね当たったといってよさそうです。

林さんは、このような「現在志向」が、戦後の日本のモノづくりに反映されたと指摘します。

例えばトランジスタが発明された際、「アメリカ人」はそれを宇宙や軍事への利用に向けましたが、著者によればそのことは、「アメリカ人」が未来を「過去ないし現在からの脱却」と見なすことに由来しています。新しい発明を未知の領域の探求に使うのです。

それに対し「日本人」はトランジスタを、ラジオ・テレビ・電卓などの小型化に活用しました。

戦後の日本の製造業での躍進は、世界から「模倣の文化」と揶揄され続けました。ご存知のように他国の発明の改良に長けていたからです。海外から見れば、そのような日本の傾向は“ずるい”と受け取られていたのでしょう。

しかし林さんの議論に従えば、それは“ずるさ”というよりは(orだけでなく?)、「日本人」があくまで過去・現在と続いている時間と交じり合う未来という時間認識をもつゆえに、未知の領域の開拓ではなく、既存のものを未来に向けて一歩ずつ改良していくことを志向するからです。日本の製造業は他国の発明を盗んでラクをしようとしていたのではなく、ただ「日本人」には“まったく新しいもの”を創造するということは、彼らの時間意識にはそぐわないのです。「日本人」には“まったく新しい”未来というものは存在せず、未来とはつねに現在・過去と交じり合っているものです。

このように“まったく新しい”ものを構想・探求しない「日本人」は、それゆえ莫大な開発費を未知の分野に投資することを好みません。あくまでリターンを計算できるものに資源を集中させます。それゆえ、新しい発明を製造業に生かす際にも、市場で大量に売り捌くことができるものに改良します。このような傾向は、90年代の不況にさらされながらも、何とか家電分野で日本企業が地位を保っている原因でもあります。

評論家の日下公人さんは、液晶テレビなんていう20万円もするようなテレビを作り出し、消費者がそれを買いたがるなんていうことは、「アメリカ人」には発想できないことだと言います。もっと鮮明に、スポーツ選手の汗が滴り落ちる様を見たいと消費者が思い、技術者がそれを追求するなんていうことは、日本でしか考えられないと(『宗教とビジネスの・・・目からウロコの関係!』)。

「現在志向」であるがゆえに、未知のフロンティアの開発ではなく、あくまで“日常”の生活を改良する視点で製造業の開発が日本では続けられます。

この「現在志向」と、“和”を尊び、職場の人間との調和や“お客様”への最大限の“心遣い”を行う傾向は結びついているのでしょう。“まったく新しいもの”が存在すことを意識しようとしない心性により、日本の人たちは、今自分の周囲にある物・人とよい関係を保つことで自分の身を守ろうとします。

“全く新しいもの”が存在するのであれば、現在の人間関係を断ち切って新しい生活を始めることができます。しかし「現在志向」の日本の人は、あくまで“今”にしがみつき、今もっているものに執着することで生き延びようとします。

21日にポストした『はじめの一歩』(古川元久著)でも指摘されていたように、今の自分たちの生活が激変するかもしれないという可能性を考えることを私たちは嫌います。なんとなくこのままの生活が上手く続いていくのではないかとナイーブに考えます。しかしそのような心性をもつがゆえに、政府系を含め大銀行は膨大な不良債権を抱えこみ、大銀行の救済という形でその負担は国民に押し付けられてきました。また国家公務員による莫大な国債発行にも眼を背けてきました(日本全体が夕張化しているという事実。  大前研一のニュースのポイント)。国民はなんとか今の生活が続くだろうと現実を見ずに夢想し、国家・経済エリートたちもなんとかなるだろうと思いながら、論理的な計算をせずに企業・国家財政の運営を行ってきたのです。

このような「現在志向」の態度は、たしかに日本の製造業を今でも一定の地位に保つ原因となっているのだと思います。しかし同時に、そのメリットを覆すほどのディメリットを私たちにもたらす怖れがあるのかもしれません。

『はじめの一歩』 古川元久(著)

2007年02月21日 | Book

             Tree         

信頼は世間知らずとは違います。何かの感情や傷心につながるような情報を否定したりはしません。状況をありのままに認識し、受け入れながらも、あらゆることがポジティブな形に変わって現れることを知りつつ、マインドのパワーを促進させるのです。( 100 Healing principles チャック・スペザーノ著)


ネット中毒気味の私ですが、最近ブックマークからヤフーやグーの表紙ページを外しました。ですのでここ数日はヘッドラインニュースを読んでいません。

僕は新聞もろくに読まないし、自分でニュース番組を見ることもないので、こうやっていると“ニュース”というものにはあまり触れません。

まだ大きな変化を感じているわけではないけど、「最近のニュースは?」と聞かれてもすぐには出てこない。ブログでまた政治家の失言があったことを知ったぐらいです。

多分、“ニュース”の95%以上は今すぐに知る必要のないことなのだと思います。“ニュース”が一週間遅れでメディアで放送されても、多くの人の生活はほとんど変わらないのだと思う。

たとえ株の売買をしていても、短期で売り買いする以外は、影響ないのではないでしょうか。あるのかな。でも僕の(本で)知っている投資家は株は長期で売買するものだと言っているけれど。

「不都合な真実」から眼をそむけることがいいことだとは思いません。でも、少子高齢化・環境温暖化・国家財政の危機といった問題は、昨日今日起きた問題ではありませんし、速報ニュースで情報を得るのにはそぐわない問題です。

おとつい、古川元久さんの『はじめの一歩』を読みました。少子化自体を食い止めることは不可能なこと。ピラミッド型の人口構成を想定した福祉制度は必ず破綻すること。温暖化は事実であること。世界的に見れば食糧・エネルギーはすでに不足に陥っていること。こういった「不都合な真実」な問題の存在を指摘します。

この本は研究書ではなく、政治家が今本当に考えるべき問題は何なのかを人々に知らせるために書かれた、パンフレットのような本です。20分もあれば読める本ですし、上記の問題に対する解決策が具体的に述べられているわけではありません。

ただ、印象に残ったのは、古川さんが、「起きて欲しくないことは起きないと考える」人々の傾向に釘を注そうという姿勢を強調している点です。

日本サッカー代表監督のオシムさんは、「オプティミストで通すには人生は長すぎる」「私はつねに最悪の結果を考慮して行動している」と言います。

うん、たしかにそうした厳しさが私には欠けているかな。

そうした情報は、むしろガヤガヤ騒がしい速報的なマスメディア以外の場所から得るほうが、まだ問題と向き合えるように思います。