joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

画集 『パブロ・ピカソ』 インゴ・F・ヴァルター著

2007年02月13日 | 絵本・写真集・画集

             橙葉、落ち葉、階段


先日区役所を訪れたところ、おそらく職業画家でない一般の人が描いた絵が何点か飾られていました。多くは風景画でした。

風景画というのは、私たちには当然の絵のように見えるけど、印象派によって100年ほど前に始められた極めて新しい絵画スタイルなのかな。技術革新によって塗料を持ち運べるようになり、かつ鉄道の発達で画家たちが戸外に出かけやすくになったことが、印象派の背景にはあると聞いたことがあるけれど。

その区役所に飾られた絵を観て、もしこの絵に「有名な誰某が何年に描いた」という表示があれば、僕はじっと立って見入るのかもしれない。

たしかにどれも上手い絵だったと思います。でも立って見入らなかった。


画集『パブロ・ピカソ』(インゴ・F・ヴァルター著 タッシェン・ジャパン)を観ました(リンク先は高価な大型本ですが、私が手に取ったのは定価1000円のB5サイズほどで、おそらく縮小版です)。

ある人は、「現代絵画と言っても、ほとんどの人が知っているもっとも最近の画家はピカソだろう。今活動している画家のことは誰も知らないだろう」と言っていたけれど、僕も現代の画家など知りません。ピカソすら僕はロクに知りませんでした。

今回初めてピカソの絵を何点か観て、ついていける絵もあれば、何がいいのかわからないなぁという絵もありました。“ピカソ”ぐらいになれば、すでに一種の権威となっていて、芸術に詳しい人にとってはもはやアヴァンギャルドではないのかもしれない。でも僕には、やはり斬新なものに見えました。

絵画史の中でどう位置づけられるのか知りませんが、ピカソの絵って、感傷的になって“感動”することを拒否しますね。芸術にウットリする態度それ自体を拒否している印象です。

どの絵も観る者をどきりとさせ、鬱々とした気分に誘います。

彼は“美”を描かない。“美”ではなく、わたし(たち)が目を背けていた人間の汚い部分・卑しい部分・惨めな部分を自然に描きます。その表現は婉曲的なように見えて、じつは作者の意図をダイレクトに観る者に伝えます。

彼の絵の中にきれいな人はいません。多くは人間の不恰好な部分が、まさにその“不恰好さ”を正確に伝えるように描かれています。

技法は時代によって様々に変化しているのかもしれませんが、それは、人間の“不恰好さ”がもつ印象を鑑賞者に正確に把握してもらうために、ピカソは様々な技法を試したようにもみえます。

付いている解説を読んでいないので、全然違う背景があるのかもしれませんが、私はピカソの絵を観てそんなことを思いました。