joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

ありがたいこと

2007年02月17日 | 日記


今日は、春から始めたいと思っていることで、ベテランの人にいろいろと教わっていました。とても優しい人で、改善すべき点をちゃんと指摘してくれながら、褒めてもくれました。実際に良くできていたかどうか私には分かりませんが、その人の言葉でリラックスすることができました。

私は内向的な性格で、人との付き合いも上手くありませんし、人にいい印象を与えることも少ないように思います。それでも初心者の私にじっくりと付き合っていただいたその方には感謝しなければなりません。

そのレッスンはお昼からあったのですが、私はお昼ご飯を食べていませんでした。そのため夕方頃に家に帰って少しだけご飯を食べましたが、すぐにお腹が空き、気分が悪くなってきました。

そのため親に早くご飯を作ってくれるよう頼みました。

ちょっとお腹が減っただけでこんなに気分が悪くなったことにちょっと驚きでした。一食抜いたぐらいでは人間は死なないだろうに。

私(たち)はご飯を食べられることを当たり前だと思っているのですが、それでも一食食べられなかっただけで異常事態のように感じてしまいます。ご飯を食べることができるのは本当にありがたいことなのだと思います。



きらきら研修医

2007年02月17日 | 映画・ドラマ

             住宅街の畑


きらきら研修医、少し見たけど面白くなさそう。以前少し見て、小西真奈美のかわいさや生瀬勝久の医者ぶりを見て期待できそうに感じたのだけれど。

でも最初のパパイヤ鈴木の踊っている場面を見て、僕の期待しているものではないと思った。パパイヤ鈴木のことはすきだけれど。

コメディはコメディでいいんですよ。でもあまりにも非現実的な設定だとしらけてしまう。

たとえばドラゴン桜だってコメディです。コメディだし、実際に一年で東大で合格するということも、進学校の学生でなければないかもしれない。にもかかわらず、なんていうか、勉強法などに現実味があったのがよかったのだと思います。

きらきら研修医、昨日は途中でチャンネルを換えてしまったけれど、どうなんでしょ。本当は面白かったのだろうか。


ということを書いたら、原作者のブログでは、なんだかとても感動的に感想が述べられてあって、実は面白かったのかもしれません。

お医者さんのブログでは他に、医療崩壊を論じた 新小児科医のつぶやき をよく読ませてもらっていますが、 こんなブログ 産婦人科医のつぶやき も面白いです。

なにごとも個人的に受け取らないこと

2007年02月16日 | reflexion

             枯木の並ぶ砂利道


以前、四つの約束という本をレビューしました。私のこれまでのレビューの中でもたくさんの人に読んでもらっています。

これは生きる上での指針みたいなものが書かれている本ですが、その中で著者のドン・ミゲル・ルイスは、「何事も個人的に受け取らない」と述べています。

自分でレビューしておきながら、この言葉をずっと忘れていたように思います。最近他人との関係で軽くマイっていた状態なのですが、相手の人の反応が自分を責めているように感じていました。

それは責められているだけでなく、それによって自分が取るに足らない・虫ケラみたいな人間のように感じていたのだと思います。

実際に相手の人が何を考えているかは分かりませんが、少なくとも自分で自分のことを虫ケラのように思うことだけはやめておきたいと思います。

相手の人が私に対してどう思うか、どう対応するかは、相手の人の問題です。それに対して私が改善できる点は改善したいと思いますが、少なくとも私が罪悪感をもつことは二人にとってよくないことなのでしょう。どれだけ相手の人が私にイライラしていても。

私はよく他人にイライラされる方で、まぁ私にも原因はあるのでしょうけど、そのことに罪悪感はもたないほうがいいし、第一罪悪感をもっていても自分を変えることはできないでしょう。

相手が怒るのは相手の問題、と開き直るのも正しい態度だとは思いません。でも、相手の人が怒ることの原因が私にあっても、私自身が私のことを罪深い人間だと思ったり、虫ケラのような人間だと思っても、問題は解決しないのだと思います。

その人と私との関係がうまくいくかどうかは分かりませんが、相手が私にどういう態度を取っても、私が自分を悪い人間だと思うことはやめたいと思います。

「何事も個人的に受け取らない」とは、そういうことのように思います。


「コンピュータ研究者 石井裕」『プロフェッショナル』

2007年02月15日 | テレビ

             黄輝


昨日の夜中にNHKの~コンピューター研究者・石井裕~を見ました。

コンピュータのことは何も知らないので、専門的なことは分からなかったけど、石井さんの顔は印象的だった。

夜遅くてちょうど本でも読みながら寝ようとしていたけれど、石井さんが宮沢賢治の詩「永訣の朝」が好きだというエピソードがあって、そのまま最後まで観てしまいました。ちょうど僕も宮沢賢治の詩を読んでいて、そのときも枕元に詩集があったので。

石井さんの言うtangibleなコンピュータってどういうものだろう?

僕がパソコンを使っていて思うのは、インターネットを嗜癖化することを防ぐのは、人間的なぬくもりがある形態ではないだろうか?ということ。

そのときの人間的なぬくもりとは具体的にどういうことか分からないけど。ともかく、使う必要のあるときにだけパソコンを使うような習慣がついて、他にやることがないからネットを見るという習慣をやめさせてくれるようなコンピュータを作って欲しいなとよく思います。こちらの意志が弱いんですけどね。

コンピュータやネットが、ヴァーチャルなものではなくて、具体的な物体として感じられるほど、それを嗜癖の道具ではなく、生活用品として使えるようにならないかな?tangibleという概念がその手助けになってくれないだろうか?


通話料タダ

2007年02月14日 | ちょっと言ってみました

ソフトバンク携帯同士だと9時から21時まで通話料タダだそうですけど、いっそのこと、auとDocomoとSoftbankが統合して、基本料二千円ぐらいにして通話料24時間タダにしてくれたらユーザーには一番ありがたいのじゃないだろうか?とふと思いました。

あっ、でもそれだと一社独占になるから、基本料がいくらでも上げられてしまうのか。


画集 『パブロ・ピカソ』 インゴ・F・ヴァルター著

2007年02月13日 | 絵本・写真集・画集

             橙葉、落ち葉、階段


先日区役所を訪れたところ、おそらく職業画家でない一般の人が描いた絵が何点か飾られていました。多くは風景画でした。

風景画というのは、私たちには当然の絵のように見えるけど、印象派によって100年ほど前に始められた極めて新しい絵画スタイルなのかな。技術革新によって塗料を持ち運べるようになり、かつ鉄道の発達で画家たちが戸外に出かけやすくになったことが、印象派の背景にはあると聞いたことがあるけれど。

その区役所に飾られた絵を観て、もしこの絵に「有名な誰某が何年に描いた」という表示があれば、僕はじっと立って見入るのかもしれない。

たしかにどれも上手い絵だったと思います。でも立って見入らなかった。


画集『パブロ・ピカソ』(インゴ・F・ヴァルター著 タッシェン・ジャパン)を観ました(リンク先は高価な大型本ですが、私が手に取ったのは定価1000円のB5サイズほどで、おそらく縮小版です)。

ある人は、「現代絵画と言っても、ほとんどの人が知っているもっとも最近の画家はピカソだろう。今活動している画家のことは誰も知らないだろう」と言っていたけれど、僕も現代の画家など知りません。ピカソすら僕はロクに知りませんでした。

今回初めてピカソの絵を何点か観て、ついていける絵もあれば、何がいいのかわからないなぁという絵もありました。“ピカソ”ぐらいになれば、すでに一種の権威となっていて、芸術に詳しい人にとってはもはやアヴァンギャルドではないのかもしれない。でも僕には、やはり斬新なものに見えました。

絵画史の中でどう位置づけられるのか知りませんが、ピカソの絵って、感傷的になって“感動”することを拒否しますね。芸術にウットリする態度それ自体を拒否している印象です。

どの絵も観る者をどきりとさせ、鬱々とした気分に誘います。

彼は“美”を描かない。“美”ではなく、わたし(たち)が目を背けていた人間の汚い部分・卑しい部分・惨めな部分を自然に描きます。その表現は婉曲的なように見えて、じつは作者の意図をダイレクトに観る者に伝えます。

彼の絵の中にきれいな人はいません。多くは人間の不恰好な部分が、まさにその“不恰好さ”を正確に伝えるように描かれています。

技法は時代によって様々に変化しているのかもしれませんが、それは、人間の“不恰好さ”がもつ印象を鑑賞者に正確に把握してもらうために、ピカソは様々な技法を試したようにもみえます。

付いている解説を読んでいないので、全然違う背景があるのかもしれませんが、私はピカソの絵を観てそんなことを思いました。



最高速度

2007年02月12日 | ちょっと言ってみました

エントリー「バス」のコメント欄にも書いたばっかりなのですが、私がいつも思っているのは、なぜクルマは速度を100キロ以上でないように作らないのか???という疑問です。

最高速度によれば、日本の法定最高速度は100キロ。本気でこの法律を守るつもりがあるのなら、自動車会社にそれ以上の速度が出ない車の製造を政治も行政も義務づけるはず。

100キロでは遅くて車の魅力が出ないという人もいるでしょう。しかし人間の快楽というものも相対的なもので、100キロしか出なければ、次第にその速度が速く感じられるんじゃないでしょうか。

スピードが100キロに制限されれば、運輸業界もすべての会社が速さを競うことはできなくなります。すると、運転手個人にプレッシャーをかけて速く貨物を届けるようにすることは会社もできなくなって、ドライバーの人たちの労働負担も減らないだろうか。

社会全体から見ればメリットの方が大きい気がするのだけど。

写真集 『子供のまなざし』 ジャック=アンリ・ラルティーグ

2007年02月12日 | 絵本・写真集・画集

             異人館の裏門

フランスの写真家ジャック=アンリ・ラルティーグの写真集『子供のまなざし』(リブロポート 1994)を観ました。この写真集は現在は絶版のようです。

あぁ、こんな素敵な写真が撮れるなんて、と思わず呟いてしまう写真群です。

「子供のまなざし」というのは、まさにこれがラルティーグが幼少の頃に撮った写真を集めたものだからです。

ラルティーグは1894年生まれで、当時はカメラはまだまだ高価なものでした。しかしフランスの裕福な家庭に生まれたラルティーグは、幼い頃から父親に専用のカメラ機を与えられました。

写真は、まさにその裕福な家庭・親類が遊びにふける場面を写しています。

複葉機を飛ばしたり、飛行機を運転したり、クルマを運転してスピードに興じたり。まさにブルジョア的な遊びをこの家系の人たちはしており、その親類・兄弟たちが郊外で思い切り羽を伸ばす様を子供のラルティーグは写真に切り取っています。

「みずみずしい感性」という言葉がまさにぴったりの視点で、ラルティーグは兄弟・親類たちが遊びに興じる姿をユーモラスに生き生きと撮っています。子供なのに、あるいは子供だからか、今にも被写体が写真の中で動き、人物たちが笑い出しそうに見えるように、写真は撮られています。ものすごい感性です。

与えられた環境を、まさにラルティーグとその親類・兄弟たちは思い存分享受して楽しみを追及したのです。しかしそこには退廃的な匂いはなく、むしろ自らの好奇心を貪欲に追及する探究心に満ちた若者たちの姿をこの写真集で観ることができます。そのような好奇心に満ちた兄弟たちを、ラルティーグもまた純粋に愉しみながら写真を撮っていきます。

ラルティーグという人は、本人も気づかないうちに、生まれたときから写真の独自の感性を持っていたのだなと思わされます。因みに、これらの写真が公けにされたのはラルティーグがすでに初老に達してからで、偶然社交界で自分が写真を撮ってきたことを人に話したのがきっかけだそうです。おそらく、彼には自分の才能が当たり前すぎて、それが人々を感動させるものだとは思えなかったのでしょうか。彼は画家としてその生涯をすごしたにもかかわらず。

写真を見る楽しみを存分に味あわせてくれる写真集です。

家でゆっくりする

2007年02月11日 | 日記

昨日は2時間ほど外を歩いて写真を撮ろうとしましたが、曇りだったためか、自分が気に入るような写真を撮ることができませんでした。後から見直せば気に入るものものあるかもしれないけど。

2時間も歩いて家に帰った頃にはクタクタでした。

夜、ちょっと体の異変に気づきます。異変というほど大袈裟じゃないけど、風邪気味みたい。このままじゃ一晩寝ると風になっているかなぁという不安がよぎったけど、とりあえず今朝はまだそれほどひどくなっていません。

でもやっぱり体は疲れています。

なので、今日はおとなしく家にいることにしましょう。少なくとも、写真を撮りに歩くということはやめようと思う。


絵本 『てぶくろ』 たちもとみちこ

2007年02月10日 | 絵本・写真集・画集

             紅葉とセイタカアワダチソウ


「ほーほーほほほー」


たちもとみちこさんの絵本「てぶくろ」を読み観ました。

この本でも、たちもとさん独特の鮮やかな色彩感覚が生かされています。

今回のお話はウクライナの民話で有名なお話だそうです。男の子がおばあさんに縫ってもらったてぶくろを雪の中に落とし、気づかずに帰ってしまいました。するとてぶくろにある動物が近づきます…

お話の展開は、そんなのありえない、と思えるのに、読んでいるうちはそういうこともあるかも、と思えるから不思議です。

男の子とおばあさんの仲もとてもあったかそうです。


すっきり

2007年02月09日 | reflexion

             北野


う~、昨日は研修医うさこを見逃してしまった。小西真奈美を見たかったのに。彼女かわいすぎ。


昨日は一日大変でした。表向きは大したことなくても、ものすごい癇癪で気分は荒れまくっていた。

他人に対する憎しみ・怒り・恨み・ひがみ・羨望やらで体中が燃えまくっていた。

あー、疲れた。

不思議なのは、今朝はぐったりしつつもどこかすっきりしていること。昨日の大荒れで膿が出たのだろうか。

こういうことの繰り返しなんですかね、生きていると。

絵本 『むかしのこども』 五味太郎

2007年02月09日 | 絵本・写真集・画集

             三羽の鳥             

五味太郎さんの絵本むかしのこどもを読み観ました。

うーん。五味さん、こんな絵本を描いていいんでしょうか。これはもう子供のためというより、これを読み聞かせる大人のために描いたのでしょう。そうとしか思えない。

以前本田健さんが

 「日本の学校教育は、与えられた解答から正確な答えを選ぶような訓練ばかりしています。でも頭の柔らかい人というのは、与えられた選択肢のうち一つだけが正解だとは考えないし、自分で新しい選択肢を作っちゃうし、さらには自分で問題を書き換えちゃいます。そういう頭の柔らかい人は、既存のレールから外れた人生を生きていても発想が豊かなので、自由に生きていけるんです。そういう人がどんどん事業を起こして会社を十個以上も作ったりして大成功しているんです。
 でも多くの子供は与えられた選択肢の中に正解があると思い込むように教育されるので、仕事を選ぶときも金融かメーカーかというようにごく狭い選択肢から会社を選ぶという発想しかもてないんです」

本田健さんやロバート・キヨサキさんのライフ・モデルはすでに多くの人に広まっているので、起業家という人生はそれほど新しいものではないのでしょう。しかし新しいものではなくとも、実際にそれを体験する人はまだまだ少ないだろうし、実際にそれで成功している人はもっと少ないのではないかと思います。

実際、本田さんの本を読むと、起業家として成功するために必要なことがわかると同時に、それがいかに難しいことかもわかります。

本田さんが挙げるビジネスで成功する必須条件には、

・「従業員」ではなく「事業家」のメンタリティを身につけること
・情熱をもてる仕事をみつけること
・ビジネスの知識・ノウハウを身につけること

などが挙げられています(他にもあるけど)。このうち、ビジネスの知識・ノウハウを身につけることは当然難しいでしょうが、それ以上に難しいのは、「従業員ではなく事業家のメンタリティを身につけること」や「情熱をもてる仕事をみつけること」などだと思います。なぜなら、これらはまさにその人が長年培ってきた人生観・態度・性格に関わることなので、改変が一番難しいように私には思えるのです。

日本の学校教育は、まさに「従業員」「工場労働者」を育てるように形成されています。朝起きて皆が同じ時間に登校し、学校という門に入って規則に則った行動をし、教師の指令に基づいて動きます。月曜日の朝には、暑い日も寒い日も、意味不明の朝礼があり、みんな運動場に意味もなく並ばされます。

その中で、学校のカリキュラム通りに教育されます。そこで子供につらい思いをさせることは、つねに苦手科目を克服すように言われること。得意な科目があればそれを伸ばすように行ってくれる教師も親もいません。英語が得意なら算数を頑張るように言われ、算数が得意なら国語も勉強するように言われます。つねに「苦手克服」を強いられるのが日本の教育です。そのような教育では、自分の好きなものに打ち込んでいいという許可を、子供は自分に与えることができません。

そのまま子供は大人になって、就職活動で与えられた選択肢から会社を選び、会社に入っても資格試験に追われたり、会社の要求をこなすスキルの修得を迫られます。またそこでも、自分の好きなことに打ち込むという余裕は大部分の人にはありません。いや、自分に好きなことがあるということすら忘れさせられます。

こういうことは多くの自己啓発的な書籍にも書かれてあるので、頭では多くの人は理解していると思います。私も頭では理解しています。でも、やっぱり、実際に柔軟な思考を簡単に取り戻せるかと言うと、心もとなく感じます。

たとえば既存のレールが正しくないからといって、本田さんの本に感動してすぐベンチャーに飛び込んだりするのも、それはそれで他人に影響された生き方だからです(もちろん、そこでなんらかの行動を起こしたことは、その人にとって必ずプラスになると思います)。

大切なのは、色々なレールがあることを知りながら、自分の判断で選べるような人間になれることなのですが、それが一番難しいように思います。

「ゆとり教育」の見直しが色々叫ばれていますが、カリキュラムを増やし時間を増やすということは伝わっても、教育の内容は伝わりません。方法は私にも分かりませんが、柔軟な思考を養うことを教育の目標に置けないかと思います。

ミス・苦手を許さない偏差値教育による学歴選別とビジネス・キャリアが結びつくと、レールから外れたくないために思考の柔軟性を持たないように子どもを追い込んでしまい、結果的に大人になっても柔軟な対応ができず、仕事の面で生きづまることも多くなるのではないかと想像してしまいます。

『むかしのこども』は、そういう日本の学校教育の悲劇を描いた本です。これを読んだ子供がこの絵本を面白いと思うかどうかは分かりません。でも、それを読み聞かせる親は、自分の子供時代を振り返ったり、自分が子供に与えているプレッシャーを自覚させたりして、ちょっと苦い思いをするのではないかと思います。


癇癪

2007年02月08日 | 日記

今日はものすごい癇癪ばかり起こしていた日だった。今もそうだけれど。

表には出していないつもりだけど、こういうのって人には微妙に伝わっているのかな。

怒ったからといって他人を打ち負かすことはできないということは知っているつもりだけど、勝ち負けに関係なく生じてしまうんでしょうね、こういうのは。

からだ中に毒素が回っているみたいだ。

いい気分の日もあれば、今日みたいないやな日もある。そういう波がずっと続くのかと思うと、ちょっとうんざり。できればいい気分の日だけであって欲しいけど。




バス

2007年02月07日 | ちょっと言ってみました

             陽に照らされた、緑、黄緑、黄色の葉


先日本屋のジュンク堂に行くと、「不都合な真実」が売り上げトップ5に入っていました。ネットを観ていても多くのブログで取り上げられています。

実際に温暖化が進んでいるかどうかは、自然科学者ではない私には分かりません。ただ、資源の無駄を避ける生活をすること自体は、それだけ注意力を働かせて生活することだから、いいことのように思います。

「これ終わり、ポイ!」よりは、すでに存在しているモノを再利用するというのは、モノを大事にすることだから、それだけ配慮・注意力が必要なわけで、いいことなんじゃないでしょうか。

あと、コンセントを抜いたりするのも。

こういうことは、自分に無理がない程度に、そして他人が自分と同じように行動しなくても怒らない程度に、自分でできる範囲でやってみてはいいのじゃないでしょうか。

僕がいつも思うのは、バスを完全無料化すること。

そうすれば多くの人はマイカーを避けてバスを使う気がする。バスに乗ると、多くの年配の方が乗っていますが、おそらく無料乗車証を使用されているのだと思います。でもこの方たちも自宅にはマイカーをもっているはずです。

そう、タダならやっぱりバスを使うんですよ。

もちろん、マイカーを運転する愉しみはあるだろうけど、日常で生活する分には、タダならバスで十分という人も多いんじゃないでしょうか。

すると、クルマの交通量が減って人は町を歩きやすくなり、排気ガスの排出量も減って空気もきれいになります。

クルマの売り上げは落ちてしまうかもしれないけど、その分バスの生産が増えるかもしれません。