joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『希望格差社会』

2005年07月21日 | Book
きのう(正確には今日)は午前3時に寝て朝の7時に起きました。本当はもっと寝たかったのですけど、目が覚めてしまい、外に用事があったのでそのまま起きることにしました。

こちらに叩きつけてくるような暑さの中では、気分の悪さが増幅してきます。冷たいものを飲もうと思ってドトールに入り、ジュースを頼んだのですけど、それも飲んでいるときは甘くておいしかったけれど、飲んだ後になると甘すぎて気分が悪くなる感じでした。

その数時間前に、『希望格差社会』(山田昌弘著)という本を読んでいて、それも気分の悪さに一役買っていました。

簡単に言うと、経済的な不平等は今の日本で拡がっているし、それは今後も続くという内容の本です。

この本で言っていることは、事実の認識自体では正しいように思います。経済的に不満を感じている人たちが漠然と感じていたことを、論理的な言葉で裏づけているような印象です。だから、事実として正しいかどうかという以上に、経済的に不安を感じている人たちが自分達の実感を説明する言葉を確固たるものとして与えているという印象です。

ただ同時に、論理的に社会構造の不平等さを語ることで、経済的弱者の現実が変わることはないという印象も与えます。それは、弱者・能力のない者は過大な夢をもたないように(法律家や学者など)意識づけしていかなければならないと山田さんが語っていることで余計にその印象は強まります。

社会を変えるのではなく、「弱者」「能力のない者」への教育の仕方を変えるべきと語っているようで、ようするに「支配者」の立場から語っている印象があるからです。そこには、弱者への共感はあまり感じられませんでした(それが学者のとるべき態度かどうかは、人によって意見の分かれるところです)。

山田さんによれば、経済構造の変化で国民の大多数に経済的安全を保証するシステムは崩れているのに、国民自体に(とくに子供を大学に入れている親の世代に)「学歴をつければいい仕事がある」という観念が残っているため、大学をでたけれども「フリーター」や「ニート」になる「負け組」と「勝ち組」との間に意識格差が広がり、それが社会秩序を不穏にするとのことです。

これは読む側の感情にも左右されるのですが、こういう語り方自体に、山田さんの発想の典型が現れている気がします。「フリーター」や「ニート」の人たちに生きる希望をもってもらうにはどうすればいいか、彼らはどういうことで悩んでいるのだろうか?という問いをもつ視点ではなく、社会秩序の安定に彼らを組み込むにはどうすればいいかという発想を感じるのです。つまり、社会を上から見下ろし、社会に生きる人々を盤上のコマのように見なし、そのコマをどう操作すればいいかという「支配者」の発想で議論をすすめているように感じるのです。

経済的な格差が広がっているのは事実だろうし、そのことへの不安は僕も感じています。またそうした不安から、将来と冷静に向き合う「大人としての態度」が自分には欠けているように感じます。そうした迷いのなかで、自分に合っているのは何なのだろうか?という問いにも僕はこだわります。

そうした迷いは普段は僕自身の個人的な内省の中で行われます。しかし山田さんは、そうした迷い自体が現在の何百万人と言われる「フリーター」や「ニート」の典型的な心的状態であり、それは「自分探しゲーム」という社会現象なのだと論じていきます。つまり、個人的な内省だと思っていたものが、社会状況の産物であることを提示します。

そうした指摘を新聞のコラム欄のような場所でする学者は多くいますが、データを扱い包括的に社会状況を論じたなかでそういうことをする人は、それほど多くないので、山田さんの著書はその点でも目立つものだと思います。

山田さんはそうした「自分探しゲーム」は将来への不安から「今」に逃避していることの現われとみなします。

だから、社会構造の論理的な考察の点でも、「フリーター」や「ニート」の意識の分析でも、山田さんの言っていることは「正解」なんだと思います。

ここで「正解」という言葉を使ったのは、山田さんの議論は歯切れがよく、もし社会学のマークシートの問題で四択の中から「正解」を選ぶとすれば、山田さんの議論を採用する、そういう意味で山田さんの言っていることは「正解」だと言いたくなるからです。

しかし、「フリーター」や「ニート」たちが考えていること、悩んでいること、望んでいることを深く掘り下げているのだろうかと思ったとき、また人間というものがどう生きるべきで、また人間にとって幸福とは何かという問題を考えたとき、山田さんの議論には僕は深みが感じられなかったのも事実です。この本では、たんに「お金・地位のある者は幸せで、そうでない者は哀れな存在だ」とそう言っているように感じるからです。

お金のあることはたしかに幸せにつながると僕も思うのですが、山田さんの考えでは、ほんとに単に「物質に恵まれるから幸せ」という考えにみえて、それはちょっと違うんじゃないかと感じます。たしかに誰もがもっとお金が欲しいとは思っているけど・・・

山田さんの議論に従うなら、「フリーター」や「ニート」は社会構造の変化に気づかず、身分不相応に安定した人生を設計して転落していく人たちです。それゆえ彼は、若者に「過大な夢」を見させないような教育を施すべきだと述べます。

たしかに「過大な夢」をみるのはよくないと思います。限られているポストや合格者数を競って凡人が法律家や学者になろうとすることを防ぐことはいいことかもしれない。

ただ、では法律家・学者・上場企業の正社員を「諦めさせ」たうえで、どういう夢を若者にもたせたいのだろう?という疑問も出ます。現実にポストが限られているなかで、「能力のない者」に夢をもたないようにカウンセリングしたあとで、どういう選択肢を与えたいのだろう?

大企業の社員・公務員・学者・法律家・医者など、世の中には「ルート」にのらなければなれない職業があります。そしてポストが限られている以上、そのルートにのるものを早期に選別すること自体はひとつの選択肢かもしれません。

しかし、ではその「ルート」にのれない者はどう生きていくのかという疑問をもつとき、山田さんの議論からは活力のある社会というヴィジョンは僕の場合には感じられませんでした。むしろ、支配者が大衆を上手く振り分けて社会秩序を維持しようとする、そういう支配側の論理を感じてしまいました。

僕自身は、若い人にもそうでない人にも、「ルート」という限界にとらわれずに生きていく発想がみにつけばいいのにと思います。もちろん僕自身がそれを実践できているわけではありません。しかし、将来の社会ヴィジョンを肯定的にみるのなら、そういう社会のほうがいいと思うのです。

ただ、いずれにしてもこの本を読んだことは結果的に僕にとってよかったことになると思います。気分を悪くさせてくれるということは、それだけ僕の中で気にしていることをあぶり出すきっかけをこの本が与えてくれているという証拠だからです。

山田さんの語り方には感情的なものを感じ、それにぼくは反発しています。でもそれは、山田さんをきっかけとして僕の見たくない部分がそれだけ出ているからです。

言うまでもないことですが、僕が山田さんの議論から感じた山田さんの発想法の印象はすべて僕の主観です。だから、それは僕自身の投影なので、山田さんが実際にそう考えているとは言えないし、本人に反論されたら(もちろんご本人とはまったく接点はないのですが)、とくに言い返す言葉もありません。


涼風