joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

“Built to Last” by J. C. Collins, J. I. Porras 2

2006年11月27日 | Audiobook

             “Bee on the abelia”


“Built to Last” by J. C. Collins, J. I. Porras 1からの続き)


AND経営

この「AND経営」という言葉は、著者たちが広めたからかどうかは知らないのですが、私でもどこかで聞いたことがあるので、ビジネスマンの人たちには周知なのでしょう。

ところで先日大前研一さんは、「AND経営」という経営手法について批判的に述べていました。(「経営の基本は、AND経営ではなく、OR経営 ~前編~ 2006/9/29  ~後編~ 2006/10/6」 大前研一 『 ニュースの視点 』)。

大前さんが言っていることは、要するに、事業の多角化よりも、その企業の持つ強みを追求することが経営成功の王道ですよ、ということだと思います。

べつに大前さんはこれでコリンズやポラスを批判しようという意図はなく、たんに流行の考え方を批判したのだと思います。

ただこの大前さんの考え方は、コリンズやポラスの思想と対立せず、むしろ同じものだということを押さえておくと、著者たちの考えがよく分かるかもしれません。

著者たちは「AND経営」の重要性を強調しますが、それは端的に言えば、“Preserve the core, and stimulate progress !”と言うもの。要するにコアとなる理念を持ちながら(while~)、あるいは持ち続けることによって(by~)、進歩のために刺激を与え続けなさい、ということ。

理念を持つことは、上での紹介したように、同じ行動を採りつづけることとは違います。理念とは規則ではなく刺激剤であり、束縛ではなく顔を上へ上げさせるものです。それは上司が部下を管理するためにあるのではなく、部下が自分で考えて行動するさいのガイドです。

大前さんは様々な商品を扱う松下は、事業の多角化を目的とする「AND経営」ではなく、基本理念に忠実な「OR経営」だと言います。

「「AND経営」の成功事例として、 日本の松下電器は当てはまらないのか?松下は、あらゆる商品を取り扱える多角化した企業ではないのか?

たしかに、松下電器は白モノ家電からAV機器、自転車、電池に至るまで、非常にバラエティにとんだ商品を取り扱っています。そして、経営の神様・松下幸之助は、一種の天才経営者であったと私も思っています。

しかし、松下電器の経営手法は、「AND経営」ではなく、基本に忠実な「OR経営」でした。 松下電器の場合には、家電販売網というチャネルを整備することが最重要テーマであり、逆にそれだけを追求していたと言ってよいでしょう。

そして、その販売チャネルに乗せられる商品であれば、何でもOKだったということなのです。だから、ジューサーからテレビから何でも取り扱うことができたわけです」

これはコリンズとポラスの言葉で置き換えれば、「家電販売網というチャネルを整備する」=「水道のように電気製品を提供する」という松下の基本理念・コアがあり、その理念の下に時代・技術の変化に合わせて様々な商品を取り扱うということです。

「AND経営」と「OR経営」という言葉に込めている意味合いは大前さんとコリンズたちとでは反対ですが、言っていることはまったく同じだということが分かると思います。コリンズとポラスにとっては、基本理念に忠実であることが「AND経営」の基盤となります。

またその理念のゆえに、例えば松下は何をしている会社なのかということが消費者には分かりやすくなります。いろいろな商品を扱っていても、松下の理念は、エンド・ユーザーが安価に使いやすい新技術の製品を持てるようにするということだからです(もっとも、この安価ということに固執することで、従業員との派遣契約での違反などのような不祥事が続くと、べつの悪影響が出るかもしれません。それはトヨタについても言えるでしょうか)。

大前さんは、理念を見失った多角化経営の悪い見本として次のような企業を挙げます。

「新幹線に乗ったときにパッと目に入ってきた広告に、 「YAZAKI」の広告がありました。私はその広告を見て、 「大切なことがわかっていないな」と感じました。

その広告では、このような主旨のコピーが使われていたからです。「YAZAKI、何をやっている会社か? 一言で説明できないのが惜しい!」

ヤザキは、ワイヤーハーネスで世界一の会社です。説明しづらいことなんて、何もないはずだと私は思います。

これは、先週も指摘した、まさに「AND経営」の影響ではないかと私は見ています。つまり、「ウチはAもBもCもやっています。」という経営発想がそのまま、広告表現にも適用されてしまっているのです」

このように、いろいろな事業を手がけることが、松下のようにその企業イメージを強くする場合もあれば、上記の企業のように逆に印象を分からなくし、自分たちから「、何をやっている会社か? 一言で説明できないのが惜しい!」と言ってしまうようになる場合があるのかもしれず、大前さんはそのことを指摘しているのではないでしょうか(わたしはヤザキそれ自体についてはよく知りません)。


生え抜きの経営者

このような基本理念の重要性を強調する中で著者たちが説くことの一つが、“Visionary Companies”では経験的に観察して生え抜きの経営陣が活躍していること。

私たちに膾炙しているアメリカ企業のイメージでは、CEOという名称で外部から優秀な経営者が雇われて企業を経営するというイメージがありますが、アメリカ人の著者たちは、そのような企業が長期にわたって成功し続けることはないと指摘します。

その企業の理念・体質を知る者でなければ、その理念にあった経営を行なうことはできません。集団というものが必然的に文化を生み、その文化は時間を経て作られた以上は簡単には消すことができません。どんなに理に適った経営手法を知っている経営者が外部から来ても、内部の文化を知らない以上は、その企業の理念を生かす経営を行なうことができないからです。

後の“Good To Great”で著者の一人のコリンズは、成功する企業には“カリスマ経営者”はいないと指摘しますが、その指摘はこの著書での生え抜き経営陣の重要性の指摘とつながっているのでしょう。

“Visionary Companies”の一つとして挙げられているGEには、ジャック・ウェルチという有名な経営者がいました(私はこの人のことをよく知りません)。彼はカリスマ経営者として喩えられることの多い人ですが、コリンズとポラスは、ウェルチは外部から来た経営者ではなくGEの精神をよく知っている人だったということ、ウェルチ以前にもGEには優れた経営者がいたことを強調します。つまり著者たちから見れば、ウェルチはGEの基本理念を持ち続けながら、時代に合わせて行動を変えた経営者であることになります。


理念

“Good to Great”でもそうですが、この本でも“Visionary Companies”の一つとして、フィリップ・モリスというタバコ会社が取り上げられています。

一見経営における精神的要素の大切さを強調するコリンズとポラスですが、彼らは理念の内容にまで「どうあるべきか」という議論に踏み込みません。重要なのは理念を持つことであって、どのような理念をもつべきなのか、ではないからです。

著者たちにとってはあくまで成功している企業の原因を経験的に調査して共通因子を見つけ出すことが目的なのであって、できるだけ“べき”論を排除したいのでしょうし、またタバコという文化へのアレルギーも著者地のナレーションからは感じられません。

例えば「フロー理論」のチクセントミハイは、働くことと「フロー状態」との関連を述べる際に(“Good Business”)、タバコのようなdistraction注意力の散漫を引き起こす商品を扱うことに対して否定的でした。

コリンズやポラスのように、理念の内容はどうでもよく、理念をもつこと自体が大切なのだと説くことはどういうことなのでしょうか?

コリンズやポラスの議論に従えば、ウォルマートも松下もトヨタも“Visionary Companies”に含められるでしょう。それは、それらの企業が時代に対応できる理念を持ち続けているからです。

しかし、ではそれらの企業が完全な善な存在だったかと言うと、ウォルマートは人件費の圧縮の結果、多くの女性従業員から訴訟を起こされていますし、トヨタの自動車工場で働く人の多くは長時間の労働を強いられて多くの人がアルコール中毒になっていると聞きます。また本来であれば自動車の制限速度を技術的に100キロに抑えれば交通事故の犠牲者は減るかもしれませんが、おそらく大手自動車会社は強硬に反対するでしょう。松下の商売も、今となっては不燃ゴミの大量発生による環境破壊に貢献しているとも言えます。

神田昌典さんは、どんなビジネスをしても、かならず批判される、と言います。

では、どんなビジネスをしても批判されるから、どんなビジネスをしてもいいのだと開き直るのか?

あるいは、その時々の倫理観にあわせてビジネスのやり方を変化させるべきなのか?

ひょっとするとコリンズとポラスの議論は、あまりにも企業を一つの存在と見なし、経営のみに視点を集中しすぎているのかもしれません。ではそれらの企業で働く人たちは幸せに働いているのか?それらの商品を利用している消費者は本当に幸せになっているのか?そういうことを問う視点は見られません。タバコ会社を“Visionary Conpanies”に含めることはそういう姿勢の表れかもしれません。

コリンズとポラスが取り上げているのは、100年以上前に創業した会社が多く、それゆえに歴史的に長期にわたって残ってきた企業を取り上げているのですが、言い換えれば資本主義企業の歴史はまだまだ浅いことをそのことを示しています。100年以上にわたって“Visionary Company”だったから、これまでもそうあり続けることができるかどうかは分かりません。

どのような理念を持とうと、ともかく理念を持つことが企業繁栄の鍵なのか、あるいは理念の内容によって繁栄する企業と廃れるそれとが分かれる時代になるのか?私は後者の社会を望むのですが、それはコリンズとポラスから見れば、ひょっとしたら、一つの倫理・道徳を企業活動に押し付けていることになるのかもしれません。



“Built to Last” by J. C. Collins, J. I. Porras 1

2006年11月27日 | Audiobook

             “Abelia in the sun”


経営学者のジェームス・C・コリンズとジェリー・I・ポラスによる“Good To Great: Why Some Companies Make The Leap...and Other's Don't”(邦訳『ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則』)を以前に取り上げましたg、その著者たちが“Good To Great”よりも先に出版しベストセラーとなった“Built to Last: Successful Habits of Visionary Companies”(邦訳『ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則』)のオーディオ版を聴きました。

この二つの著作はアマゾンのレビューでも多くの方が絶賛されていますし、本屋に行けば今でも平積みされているので、かなり高い人気を得ているようです。

この二つの著作の関係は、今回聴いたCDでも触れられています。このCDは原文をそのまま朗読しただけではなく、90年代前半に“Built to Last”を出した後になぜ“Good to Great”を90年代後半に出したのかということも踏まえて、あらためて近年に収録したもののようです。ですので、所々に、本来は後で出版した“Good to Great”についても触れられています。

最初に出版した“Built to Last”では、20世紀を代表するアメリカの大企業を取り上げ、その中でも特別すぐれた業績を収め、かつアメリカを代表するようになった企業=“Visionary Companies”と、同じく20世紀を代表する大企業となりながら、トップに上り詰める企業とはならず、また人々の心に強い印象を残すことはできていない企業=“Comparison Companies”を比較し、“Visionary Companies”に共通する要素は何かを探っています。

こう書いていて面白いのは、この本は必ずしも「どうすれば競争の中で生き残れる企業になれるのか」を探求する普通のビジネス書とは違うということ。

たとえば“Visionary Companies”と“Comparison Companies”の対比例として、GEとウェスティングハウス、ソニーとケンウッド、ヒューレット・パッカードとテキサス・インダストリー、ウォルト・ディズニーとコロンビア・ピクチャーなどが挙げられています(前者が“Visionary Companies”、後者が“Comparison Companies”)。

こう見ると、ウェスティングハウス、ケンウッド、テキサス・インダストリー、コロンビア・ピクチャーといった“Comparison Companies”も、倒産したわけではないし、長い期間にわたって産業界で確固たる地位を築いているわけです。

しかし著者たちリサーチ集団から見れば、これら“Comparison Companies”は、収益の面でも社会的な影響力という点でもイメージの面でも、社会全体に強い影響力を与える企業とはなりえていないと判断されます。

企業の目的を、利益を上げ組織を存続させること《だけ》に置くならば、これら“Comparison Companies”は十分合格点を与えられるのですが、著者たちはこれらの企業には何かが足りないゆえに、トップにはなれないのだと見なします。


“Clock Building”と“Time Telling”

著者たちが“Visionary Companies”と“Comparison Companies”の違いとして挙げる点の一つが、それが“Clock Building”な企業か“Time Telling”な企業かということ。

これは持続性と散発性として対比できるでしょうか。

それは理念と戦術の違いとしても言い換えられるかもしれません。

実際、著者たちが何度も強調することの一つが、“Visionary Companies”には理念があること。それも抽象的なものではなく、現実の問題にぶち当たったときに何を基準に考えればいいかを教えてくれる指針です。

その指針自体は、理念ですから、直接的には現実の問題に答えてくれるわけではないかもしれない。しかしその理念を思い出すと、自然と採るべき方向が見えてくるような、そういうものです。

例えば著者が挙げる例の一つがソニーの設立趣意書。これは有名なものですが、当時は安かろう悪かろうというイメージを世界中にもたれていた日本の製造技術を、高品質なものとして世界中に示そうという理念を創業者の井深大さんは掲げました。つまり、利益を上げるためではなく、まだ日本のエレクトロニクス・メーカーが未発達だった時代に、自分たちがなすべきことは何かを考えて、井深さんは日本の製造技術を世界のトップに高めるという理念を掲げたわけです。

このような創業時のソニーのスピリットについては、最近ソニーを退職した天外司朗さん(「天外伺朗こと土井利忠さんの生前葬」 『船井幸雄.com』)の対談CD『「フロー経営」の極意』でも述べられています。

そのような理念を持つゆえに、ソニーは時代の変化に対応できたのだとも言えます。ウォークマンにせよ、コンパクト・ディスク(これはソニーが開発した)にせよ、またはアイボにせよ、技術の進化をリードするという目的がブレていないがゆえに、何をすべきかが社員にもハッキリしたのでしょう。

逆に言えば、映画や音楽事業の買収による事業拡大は、ソニーが「自分は何をすればいいのか」という当初の理念を忘れているがゆえに起こした迷走とも言えます。映画や音楽といったソフトに関しては、どういうものを自分たちは作るのかという理念をもっているわけではありません。もしそうだとしたら、結局は時代の流れに場足り的にしか対応する他ないからです。そうすることで散発的に大ヒットを飛ばし“時の人”=“Time Teller”にはなれるかもしれません。しかし時代の変化に対してどう対応するかという指針をもっていない場合には、“Clock Builder”にはなれません。

ソフトに関する理念とは、例えばディズニー(あるいはピクサー)のように、どういう映像を作りたいのかという明確なビジョンがあること。それゆえにディズニーは、いろいろな作品を作りながらも、それらすべてが「ディズニー」というブランドをイメージさせるものになります。それは全盛期のジブリにも、あるいは少し前の映画会社ミラマックスにも共通するかもしれません。

ディズニーにしてもミラマックスにしても、その作風への批判があります。ディズニーはあまりにも大衆受けするレディ・メイドな作風で、例えばエリックス・ザルテンの『バンビ』のような生きることの厳しさ・優しさを胸を鋭く衝く形で伝える作品を、徹底的に“ディズニー的”に分かりやすく変えてしまいます(「私はディズニー・アニメが好きだけれど、『バンビ』のような作品を観ると、たしかにディズニーという人は罪な人なのだ」江国香織『泣かない子供』)。またミラマックスも、そのあまりにもオスカー狙いの作風が批判されているそうです。

しかしそれらが批判されるのは、一つ一つの映画だけではなくて、それらを作る会社が確固としたイメージをもつからであり、それはつまりその会社が「どういう映像を作るのか」という理念をもっているからです。

それに対して、「どういう映像を作るのか」という基本理念を持たない場合、その時々にいい作品を作ったり作らなかったりするだけで、結局持続的にブランド・イメージを打ち出すことはできません。そのような映像のブランドを作っていないと著者たちが指摘するのが、コロンビア・ピクチャーズです。

中谷彰宏さんは対談『「まわりの人を一瞬でファンにする方法」』の中で、ブランドとはロゴではなく信用だと言います。つまり、顧客との信頼関係ですね。「この企業であればこうしてくれる」とお客が信頼感をもつことで、その企業はブランドを初めて作ることができます。

コンサルタントの神田昌典さんは、おそらくその対談を受けて「ブランドとは、いかに熱狂的なファンが多いかどうかを示すもの。それだけシンプル。芸術的なロゴやトレードマークは本質的には必要ではない。小さな会社がブランドをつくるには、ファンづくりにエネルギーを注ぐ」と述べています(『┃--「仕事のヒント」神田昌典365日語録-- No.107』)。

「お客の信用」「ファン」ということを、ポラスとコリンズの議論の文脈に置くと、要するに顧客が「この会社は何をしてくれるのか」ということをイメージしやすく、またそのイメージを思い浮かべた際に、お客さんたちがどこか胸にワクワクするものを感じたり、ホッとしたりといった、どこか肯定的な感情を感じることが、「ブランド」だということではないでしょうか。分かりやすく言えば、何か“夢”を与えてくれるような。

この本ではウォルマートも取り上げられていますが、ウォルマートはすべての販売商品に関して返品を受け付けたことで有名です。徹底的に安い商品を提供し、消費者のサービスに応え続けると言う同社の姿勢には影の側面もあるかもしれませんが(例えば「ウォルマート、好きですか?」 『裸のニュー・ヨーク』)。

しかし、ともかくも「ウォルマートは…してくれる」という期待を顧客に植え付けることには同社は成功しました。あるいはユニクロであれば「安くてわるくないデザインの服を作ってくれる」。スタバやドトールなら「安くてくつろげる場所を街の中に作ってくれている」。「この会社は…をしてくれる」という明確な期待を顧客がもてるようにすることができています。このような期待がブランドへとつながります。

そのように顧客の中に期待を作らせるのが企業の基本理念だと言えるし、企業が時代の変化を先取りして行動できる時というのは、時代の変化の中でその理念を生かすにはどうすればいいかを考えるからかもしれません。

理念があるからと言って、同じものを売り続けるわけではないし、同じことをし続けるわけではない。むしろ時代の変化の中で、その理念はどのように適用できるかを考えることができる、そのような普遍的な理念をもつことが大事なのかもしれません。

(だから、安さだけを追求するような理念は、顧客の人件費の圧縮→従業員の士気と生活水準の低下→社会の格差化へとマイナスの影響を社会全体に及ぼすため、これからも残り続ける企業を生むかどうかは分かりません)

ウォークマンやCDは、人類の技術の進化の流れを人より早く先取りしたもので、それはソニーの発明であると同時に人類の発明です。“Clock Builder”とは意味は違うかもしれませんが、人類の時計に自然に身を任せたがゆえに、誰よりも早く人類の時計の動きを読むことができたわけです。それは、技術の改善・進歩を体現するという理念をもっていたがゆえに実現できたことです。

しかし、そのような理念を忘れてしまった場合、人類の時計の動きが読めないので、HDD全盛の携帯オーディオの流れを読めなかったり、映画事業で持続的な成功を収められなかったりします。


“Built to Last” by J. C. Collins, J. I. Porras 2 に続く)

いやな記憶

2006年11月27日 | 日記

             “Leaves fluttering in the wind”


昨日は雨が降っていたので、一日中家にいました。図書館で借りた本の期限が来ていたけど、量が多いのでキャリーバックに入れなきゃならないし、キャリーバック全体と自分を覆うような巨大な傘は持っていないので、やむなく図書館行きは諦めました。

もっとも、前日の外出でよく歩いたので、疲れていたからちょうどよかったけれど。

一日中家にいたし、昨日は気温は高めだったので、体に寒さはたまりませんでした。だからお風呂も、湯舟には浸からず、石鹸をつけたタオルで軽く体を洗っておしまい。お風呂に入ることで消耗する体力を節約できた気分です。

今日は雨上がりだけど、冷たい空気と霧が立ち込めています。雨上がりだから、ひんやりと澄んだ空気で、曇りだけどこれはこれでいい感じです。明日はまた雨が降って、水曜には晴れるようです。

思い出したのは、10月頃に南ドイツを旅行したときのこと。とくにミュンヘン周辺に行ったとき、せっかくのアルプスなのに曇りと雨でいい景色も何も堪能できなかったこと。それなのに無理やり歩いて雨で足は濡れるし、疲れと惨めさだけが旅行中にたまっていきました。一体何だったんだろう?


涼風