joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

“The Eupsychian Ethic” Abraham H. Maslow

2006年11月18日 | Audiobook


アメリカの心理学者アブラハム・マズロー(1908 - 1970)が1969年に出版したワークショップの音声記録“The Eupsychian Ethic (Audio Cassette) ”を聴きました。

6本組みのテープで、5時間くらいの長さ。おそらく大学のゼミナールのような形式で、しかし参加者は必ずしも同じ組織に属している人ではないようです。ゼミの進行は、マズローが自分の考えを述べながら、時おり参加者が質問・意見を述べるというもの。マズローの声はマイクを通して聴き取りやすいのですが、参加者の意見は最初はちょっと聞き取りづらい(後に行くに従って改善されるけど)。

ゼミ特有の、議論の流れを無視して自説を滔々と述べる参加者もいて、マズローが“I don't agree(「そうは思わない」)”“We've lost each other(「ちょっと話が見えないですね」)”とうんざりした様子で言うのも聞こえて、聴いていて苦笑いしてしまいます。

話の内容は、「善い人間とは何か?」「自己実現とは何か?」「志向経験とは何か?」「人を助けるとは何か?」といったマズローの著書の議論をそのまま引き継いでいるように聴こえます。

ただ、これらのテーマは、あまりにも私たちが身近に考えすぎていたため、逆にアカデミズムの学問が真剣に避けている問題だったのでしょう。

その傾向は今でもそのまま引き継がれているように思います。マズローの名前を知っている人は多いし、マズローの議論も「自己実現の理論ね」「欲求段階説でしょ」と知識として知っている人は多いのですが、彼の議論を重要なものとして受け止めている人がどれだけ多いのかは、ちょっと分かりません。

私たちは相変わらず、自分の考えと違う人を野蛮で頭が悪く不誠実な人とみなして、真剣に内省することはないのですが、マズローの議論の核心は、単なる知識としての心理学ではなく、単に他人を批判することを超えて、自分はどうあるべきなのかということを考えるための手段だからです。

このゼミでは、マズローの議論の基本的な説明を超えて、それらの著書における議論を踏まえて、より彼のテーマを深めようとしています。

例えば、人が“善い”ことを行い、“善い人間”になったとして、「だからどうなの?」とマズローは問います。

“善い”ことを行なう、“善い”ことを想う、“善い”こころの状態にある。これらは私たちが普段から目指していることです。しかしそれら“善い”状態を実現したとき、すでにその“善い”ことはなされたのに、「自分は“善い”ことをしたのだ」「自分は“善い”人間なのだ」と想い続ける状態にとどまることは“善い”ことでもなんでもありません。

“善い”状態とは、「自分は“善い”かどうか?」という内省にとらわれていない状態だと言えます。その問いを持っていない時からその問いをもつようになるのは必要な過程かもしれません。しかし、その問いをもち、“善い”ことをなし、それでもなお“善い”という観念にとらわれ、「自分は“善い”ことをしたのだ」と想い続けるとき、それではすでに“善い”ことというマスターベーションの状態にあります。

マズローの主要概念の一つに“至高経験(peak experience)”というものがあります。この“至高経験”は、自分のしたいこと、自分の内的な欲求に従って行為するときに訪れる体験で、チクセントミハイが“フロー”と呼ぶ経験に近いものだと思います。マズローはこの“至高経験”も、それにとらわれるかぎりは、すぐにそれは“至高”なものではなくなると指摘します。

例えばセックス。多くのスピリチュアル・リーダーや心理学者が、セックスは一つの貴重な心的体験となりうると言っていますが(かと言ってセックスをしなければ人間的に成長できないわけではないでしょうが)、マズローはセックスによって“至高経験”を得られるのが事実だとしても、ただセックスだけにとらわれるなら、それは“son of a bitch”(「尻軽女」の意、しかし女性が男性に対して罵る際にも使われる)でも“至高経験”を得られることになってしまう、と述べます。

こうした“善き”ことへの固執の否定面ともかかわりますが、マズローにとって理想的な状態とは、そのような“善い”“悪い”のような二分法を破棄した状態だと述べます。それは“道教的感覚”であり、ただそのときそのときの経験に直面することが必要なことであり、図式にはめて判断することは“善い”こととは関係がないということです。


このような“善い”“悪い”という概念自体は“エゴ”の強化につながります。“エゴ”という構造体は、それら概念図式によって境界づけられることで、自分を硬直的で狭まっていくものにしてしまいます。

マズローにとっては、したがって、“自己実現”に近づくために必要なことは、そのような概念図式をどれだけ自分から解き放ち、“エゴ”を脱するかにかかってきます。マズローの言うように、“エゴ”を強くすることは結果的に自分を弱くすると言えるし、“エゴ”を解き放つことで逆に強い“エゴ”をもつことにもなります。

ただこういう議論の追求が必然的に至る場所として、“善悪”を解き放ち“エゴ”を解き放つといったことは、何か固定的な状態を定義づけることではないのですから、「“エゴ”を解き放つ」と言った時点で、それも“エゴ”を強化する一つの概念にもなりうるわけです。私たちは頭で考える限りはどこまで行っても、“善悪”などの二分法から解放されることはありません。「“善悪”はよくない」という言葉も一つの“善悪”の判断だからです。

だから結局は、おそらくマズローも意識していたことですが、言葉はつねに言葉の内容を実現することはできません。もし言葉に言えることがあるとしたら、言葉は言葉で表現しようとすることは表現できない、という事実かもしれません。

マズローが“道教的感覚”ということの重要性を言うのも、儒教のような強固な善悪の判断を批判する道教の柔軟さに惹かれたからだと思います。しかし同時に、“道教”もそれが言葉で表現されている以上、“道教”が表現しようとしたことを裏切り続けます。例えば「“流れ”を大事にする」と言った時点で、それは流れを無視したドグマになりうるからです。

結局はマズローが言おうとしたことも、マズローの著書からは分かることができません。いや、マズローの言おうとしたことはマズローの著書から分かるのですが、マズローの言っていることはつねに現実によって裏切り続けるということでもあります。

そのときそのときの現実に直面して行動していく際には、“善悪”の判断かも必要かもしれませんし、その判断や概念図式が流れの一部になっているかもしれません。

こう書くとまたマズローの言うことに戻りますが、“peak experience”とはやはり経験であって、後からリファレンスしてそうだったと確認できる状態です。最初から私たちは「“peak experience”とはこう」とは予測できないのかもしれません。それはひとつの“peak experience”という概念なのですから。

しかし一つの経験をした後に、「ああ、あれは“peak experience”だったな」とは言えるかも知れません。

“善悪”という概念も同じことかもしれません。私たちは前もって何が「善い悪い」とは言うことができません。そのように前もってああだこうだということは“議論”であり、“議論”とは不確実な未来を固定的な概念によって判断しようとする試みです。だから“議論”する際に必要なことは、自分はつねに間違っているかもしれないと意識し続けることであり、その間違っているかもしれない主張によって他人をコントロールしようとする欲の放棄です。

しかし、“peak experience”にしても“善悪”という判断にしても、ひとつの経験について振り返りあとから振り返り「ああ…だったなぁ」とリファレンスする際に使うことはできるかもしれません。

概念とはそのように、それまで起こったことを検討する際にリファレンスする道具として最も役に立つものであり、しかし不確実な未来を判断することに使う場合には、視野の無意味な固定化を招くだけなのかもしれません。

そのようなリファレンスには、たしかにマズローの議論はひじょうに有効なものなのだと思います。


『アビエイター』(2回目)

2006年11月18日 | 映画・ドラマ


劇場でも観た『アビエイター』をレンタルでも観てみました。

うーーん。この映画は二回目だとちょっと退屈かな。筋がちょっと単純すぎるのかもしれない。

ハワード・ヒューズという奇人のエピソードは、初めて見聞きすると度肝を抜かれるけど、二回目だともう知っているからあまり驚きません。だとすると、そうしたエピソードに頼らない物語の力が必要になるのですが、この映画はハワード・ヒューズという人の破天荒なエピソードをダイナミックに見せることに主眼が置かれているので、最初はびっくり仰天しても、二回目の鑑賞ではちょっと退屈してしまうのかもしれません。

あと、やはりスクリーンか大画面テレビで見ないと、この映画で感動するのは難しいかも。

この映画ではケイト・ブランシェットがオスカー助演女優賞を受賞したけど、正直この映画の彼女は他の映画ほどよくない。彼女が演じたキャサリン・ヘップバーンのことを僕は知らないけど、明らかにブランシェットは“モノマネ”をしているのです。それがいつもの彼女の演技の迫力を奪ってしまっている。他の映画では限りなくパワフルなのに、この映画のブランシェットは自分で自分に枠をはめて生気を失っている感じがします。

それに比べればエヴァ・ガードナーという往年の名女優を演じたケイト・ベッキンセールの方が気位の高い女性の気品と気高さをよく表していたと思います。

この映画を見て思うのは、アメリカ映画界の俳優の層の厚さ。無名の俳優でもみなリアルな演技をします。それはドラマ『ER 緊急救命室』を見ていてもいつも思うことです。製作者の腕さえよければ、誰もが名俳優に見えてしまうのです。

その中で主演のディカプリオの演技は上手いのかそうでないのか、ちょっとよくわからなくなりました。まわりの役者があたかもその時代・場面に溶け込んだ実在の人物であるかのようになっているのに対し、ディカプリオはその時代に溶け込むと同時に、そこから浮き上がって“ディカプリオ”というスターの輝きを放ちます。

スターはみんなそうだと言えばそうかもしれません。ディカプリオはたしかに他の人のもっていない輝きをもっており、それゆえに映画の主演をはることができます。単に普通の人をみるためなら、私たちは映画を見ません。

ただディカプリオの場合、たしかに演技がすごく上手い人だと思うのですが、彼の持つアイドル性・スターの輝きが強烈なので、現実のリアルさを表現しようとする映画とどこかでちぐはぐな関係を生んでしまっているように感じました。