joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

写真集 『女の下着心―AIKO OZAWA WORKS 1989‐91』 小沢愛子

2006年11月30日 | 絵本・写真集・画集


写真家小沢愛子さんの写真集『女の下着心―AIKO OZAWA WORKS 1989‐91』を観ました。

小沢さんのサイトで写真の一部を見ることができます。  〈Gallery〉

小沢さんはこの写真のシリーズで日本広告写真協会賞、経済産業大臣賞などを受賞されたそうです。素人の私はもちろん知りませんでしたが、広告写真の世界では有名な方なのだと思います。

図書館でこの本を見つけたとき、ページをめくったときに一瞬思考が止まりハッとさせられました。

この写真集ではモデルのような美しい女性たちが下着姿で撮られています。ただ、そこには男性が普通期待するようなエロチシズムというものは希薄です。その場合の男性が期待するというものは、女性が男性に媚びているようなポーズや視線ですが、そういうものはありません。

かといって、撮る側や撮られるモデルの女性が何か無理に自己主張するような、肩に力が入ったようなところもありません。

これは、この写真集がエロチックなイメージを写そうとしたのではないし、またファッション性を追求しようとしたのでもないことが作用しているのでしょう。

ここで纏われている下着は、男性が期待する女性のヌードの延長線上にある下着姿ではなく、また女性が期待するファンションの一つとしての下着とも違う感じがします。

ヌードというものは不自然です。私たちは普段部屋で裸にならないのに、裸でポーズをとっているからです。

それに対して衣服を着ている状態は、女性の場合は、男性でもそうですが、その衣服によって一つの役割を演じようとしています。その衣服があらわすファッション性が、一つのキャラクターをあらわす場合もあるし、女性的な衣装を着ることは社会における「女性」というキャラクターを表してもいます。

ヌードというものは不自然だし、衣服を着た状態も人は何かを演じようとしている場合が多い。

それに対して、下着は、裸という不自然な状態から、社会的役割が付着している衣服を纏うまでの間の中間にあります。

下着を着ているときは、裸という不自然な状態から、なんらかの社会的役割を演じるまでの中間点で、その中間点の時にいるときだけ、とりわけ女性の場合は、自然な自分に戻れるのかもしれません。この写真集は、そういう女性が自分に戻ることのできる僅かな時間を写しだそうとしているのかもしれません。

この写真集の女性たちは、みんな元気でもないし、落ち込んでいもいない。静かな時間の中で自分でいることに落ち着き、静かな安定を得ています。裸も衣服も社会的な視線を意識せざるを得ない現代の世界の中で、下着のときにだけは、そのような社会的イメージから解放された、自然な自分でいることができるみたいです。

そのような女性たちの静かな落ち着きが、観る者をも静かな世界に連れて行ってくれるようです。


涼風