joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『「引きこもり」を考える―子育て論の視点から』 吉川武彦(著)

2006年11月07日 | Book


精神科医の吉川武彦さん著『「引きこもり」を考える―子育て論の視点から』(2001年)を読みました。

「引きこもり」について多くの本を読んでいるわけではないので、他の論者との相違点はよくわからないのですが、読む人にとても納得しやすい議論がされている本ではないかと思います。

ます常識人としての立場から、著者は、「引きこもり」を当事者にとって“いつかは脱した方がよい状態”として位置づけます。

また同時に、「引きこもり」を100%否定するわけではなく、その当事者が「引きこもり」に至るには理由があること、それゆえ一方的に「引きこもり」を批判したり、是正するという立場は採っていません。

「引きこもり」に至るにはしかるべき理由がある。しかるべき理由があると言うことは、「引きこもり」をしている人たちが“悪い”わけではない。“悪い”わけではないが、本人にとっては、それはいつかは脱した方がよい状態である。そう著者が明示的に言っているわけではありませんが、でもそういう立場なんだと思います。



規範と欲求から成る“こころ”に

著者は「引きこもり」が生じる原因を説明する際に、人間の“こころ”のイメージを次のように説明します。

端的に言えば、“こころ”は、その人固有の欲求を表現します。それは子供の場合には、自分を守りたい、食べ物が欲しいという欲求から、お菓子やおもちゃが欲しいというものまでを含みます。

この“こころ”は、しかし本来は時を変えて変化します。“正常”な成長を“こころ”が遂げる場合、“こころ”はつねにその内部からの欲求と、大人などから与えられる規範との葛藤を経験します。

吉川さんの意見で、わたしが関心を持ったのは、彼が、人それぞれの「自分らしさ」というものは、その“こころ”の欲求それ自体でもなく、また大人や周りや社会から与えられる規範でもなく、欲求と規範との葛藤から生れるものだという主張でした。

“こころ”の欲求は、それだけをとれば“だらしない”ものかもしれません。自分のやりたいようにすることがその人の「自分らしさ」を表すと言うのは簡単ですが、人間の欲求にはひじょうに原始的で即物的なものもあります。

たとえば欲求に従えばいいからと言って、ピーナッツバターしか食べなかったり、テレビを見る《だけ》だったりすると、その人の中に「自分らしさ」が育つとは、私(たち)は思うことができません。私(たち)から見れば、それは端的に“だらしない”《だけ》の人に見えます。

しかし同時に、規範だけに沿って生きている人が立派な人だとは、少なくとも21世紀に生きる私(たち)は思わなくなっています。

親や社会が与える価値観に沿うだけの人は、社会的には「自立」した立派な人なのですが、そういう人に魅力を感じる人はどんどん少なくなっているのが、今の私(たち)の意識ではないかと思います。

吉川さんは、むしろその人らしさは、欲求と規範とが葛藤する中で生れると言います。これは、僕の言葉で言い換えれば、欲求は、規範と出会うことで、変貌を遂げると言えるかも知れません。

吉川さんは「欲求が大きくなればなるほど、ということは欲求が十分にたまってこそ、引き込まれる規範も大きなものになり、否応なくこころの入れ物である卵は大きくなる」と述べています(101頁)。

最初の欲求がそのまま全部認められてしまうと、例えばお菓子だけしか食べなければ、その子はお菓子人間になってしまいます。お菓子人間でしかない子には、もはや大人も社会も、何かを頼むということがありません。そのとき、そのお菓子人間の“こころ”は、もはや規範と出会うことが不可能になります。

それに対し、反対にお菓子を全部断られ続ける子供は、自分の欲求を主張することができなくなります。彼は、つねに決まりきった規範を与えられ続けることになります。彼は与えられる規範をすべて受容していくので、まわりは彼に既存の規範をすべて与え続けます。

しかしこの規範の受容は、大きな規範を引き入れることにはつながらないように思います。既存の規範を受け入れるだけの人は、既存の社会を肯定するだけなので、自分で判断できる力をもたないからです。既存の規範を受け入れるだけということは、彼の知っていることは、すでにまわりも知っていることだということです。彼に何かを教える人は後を絶たないかもしれませんが、彼から学ぼうとする人はいません。彼の知っていることは、彼でなくても知っているからです。

それらに対し、「引き込まれる規範が大きくなる」とはどういうことなのでしょうか?それは、僕の言葉で言い換えれば、「新しい規範を作り出す」と言えるのではないかと思います。そして、この「新しい規範」を生れる源泉は何かと言えば、やはり欲求を主張する“こころ”動きではないでしょうか。

規範を受け入れずに原初的な欲求を満たすだけのお菓子人間には、誰も社会の規範を教えません。それゆえ彼の欲求はつねにお菓子だけを追い求めます。

それに対し、規範を受け入れながら、同時に自分の欲求を主張する“こころ”をもっている人は、規範と欲求を調和するor超越する高次の規範を主張するようになります。

人はハードルを与えられなければ、ハードルを越すことはできません。そのハードルを越す方法は誰も知らないかもしれませんが、ともかくハードルが存在することを知らなければ、ハードルを越す方法を考えることはできません。

人は規範を知らなければ、その規範を超えて自分の欲求を満たす方法を考え出すことはできません。

吉川さんは欲求と規範との葛藤から「自分らしさ」は生れると述べていますが、この規範の超え方が「自分らしさ」に該当するのではないでしょうか。

欲求は、「自分らしさ」というよりも、より本能的な、ヒトに共通するものです。それに対し規範は、人から遊離した社会のものです。しかし、規範を超えて欲求を満たそうとするとき、その人は、ヒトでも社会でもない、その人固有の動きをしていると言えるように思います。

お菓子を食べることだけにわたしたちの「自分らしさ」があるわけではありません。また社会の仕組みにわたしたちを導くものがあるわけではありません。わたしたちの「自分らしさ」は、与えられた欲求と与えられた規範の葛藤を調和・超越し、その規範を超えて別の規範を作り出すところにあるのではないでしょうか。

「自分らしさ」とは、もともと自分の内面にあるものではない。同時に、社会の文脈によって決定されているわけでもない。与えられた欲求と与えられた規範の葛藤を超越するまさにその瞬間の行為に、その人の「自分らしさ」は現れます。

それゆえに「自分らしさ」は、欲求を持ちつつ、同時に規範をも受け入れる“こころ”がもたらします。

このことは、なんらかの自己成長を遂げる人を育てるには、欲求を発現させる力と、規範を受け入れる力の両方を育てる必要があることを意味します。その二つが発現しなければ、その二つを超越する行為は生れないからです。

“生きる”とは理想を言えば、その瞬間瞬間で、“新しいとき”を生きることです。その人固有の生を生きるとは、人類がいまだ体験していないこの新しい一秒一秒の中で、人類がいまだ知らない新しい生き方を生きることです。その新しい生き方は、その人固有の生にのみ存在します。

欲求をただ充足されるだけの人は、原初的な欲求の水準に生きるので、ヒトとして生きることはできても、その人「らしく」生きることはできません。

規範のみに従う人は、既存の社会を体現するだけで、これもその人「らしく」生きることはできません。今ある欲求と今ある規範を超える行為にのみ、「自分らしさ」は存在します。

こう考えると、「引きこもり」の問題は、自己の外部からの規範を超える気力をもてなくなったときに生じ、原初的な欲求に引き返しているところにあると言えます。

ただ同時に、その「引きこもり」が、自己の内的な欲求と規範との葛藤を経験し、それを超越する行為の一部になっている場合には、その「引きこもり」はむしろその人にとって必要なプロセスだと言えます。

既存の規範に疑問を持ち、社会のレールから一歩後退することで、規範と自分の欲求との葛藤を十分に“経験”することは、ある人にとっては、自分の部屋に一人でいることによってのみ可能となることは、十分考えられることだからです。

それゆえ、既存の規範に疑問をもっても、その規範との葛藤を十分に経験せぬままに、ただ原初的な欲求に逃避している場合には、その「引きこもり」は、ひょっとしたら、当人にとってよい経験とはなっていないかもしれません(もっとも、どこまでが当人にとって必要なプロセスかは、外からは簡単には言えないようにも思います)。

ともかく、「引きこもり」とは既存の規範に疑問をもつことだとすれば、それはその人の「自分らしさ」を見つける契機になる可能性をもっています。ただその際にも、その規範にも理があること、しかし自分の欲求も否定する必要はないこと、重要なことは欲求と規範との対立・葛藤を超越する新たな場を見出すことであり、それによって人は新たな欲求・新たな規範をもつことができること、そのことを認識することかもしれません。


親との関係と信頼

また個人的に吉川さんの議論で面白かったのは、このような人の“こころ”を育てる経験として、年上と年下の人との関係を指摘していることでした。

吉川さんによれば、年上(親・教師・上司など)の人との関係において、人は〈信頼〉することを学びます。

人は皆幼児のときの経験から、誰かに依存して欲求・期待を充足してもらうことを求めます。この経験により、どれだけ成長しても人は誰かに欲求を満たしてもらうことを期待し続けます。そこでは、もはや欲求の充足以上に、誰か親のような人にかまってもらうこと自体を求め続けているとも言えます。

人間が持つ〈信頼〉感は、この欲求充足の経験によってはぐくまれます。何も力を持たない幼児のときに、自分の欲求は満たしてもらえるという経験をすることで、人は親を信頼してよいのだということを学びます。一見自分は何もできない荒野に置かれたようであるけれども、それでも自分の欲求は満たすことができるのだと言う、世界・他者への信頼感を醸成します。

逆に幼児の頃に十分に欲求が満たしてもらえなければ、人はつねに自分の欲求を満たしてくれる何か・誰かを探し続けることになります。大人になっても、他者に依存し続けます。

先ほどの欲求・規範の葛藤との関連で言えば、ある程度の欲求を満たしてもらうことで、人は大きな規範を受け入れ、欲求と規範との葛藤を乗り越える新しい行為に踏み出すことができるのでしょう。

つねに欲求を満たしてもらうだけでは、規範を乗り越える力は生れません。“必要”な欲求は満たしてもらいながら、自分の欲求がつねに通用するわけではないことを学び、欲求と同時に規範をも受け入れることができて、その両者を超越する契機を手に入れます。

この超越という新しい行為は、未知の領域なのですから、それには勇気が要ります。その勇気を出す基盤が、自分にとって必要な欲求は満たしてもらえるという幼児のときの経験によってはぐくまれた他者・世界への信頼感です。

信頼とは、予測できない世界においても、自分の未来を信じることができる力であり、その力は子供の頃に親に“必要な”欲求を満たしてもらった経験によって育まれます。


年下との関係と自制心

親との関係が未知の領域に踏み出す行為の心理的基盤だとすれば、自分の欲求を抑制するために必要なのが年下との関係だと吉川さんは指摘します。

子供の関係では、年上は年下に対して圧倒的に力関係で優位であり、年上は年下に対していくらでも欲望の思うままに力を揮える立場にあります。

それゆえに、もし年下の子との関係の維持が重要だと認識するならば、人は自分の欲求を自制する必要を学びます。

社会に出て、人は上司との関係から何かを学ぶのでしょう。しかし、私は会社で働いたことがないのですが、おそらく人の成長は上司以上に部下との関係から学ぶことが多いんじゃないでしょうか。

上司との関係では、大学の世界で言えば指導教官との関係では、部下(生徒)は上の言うことを聞くか、あるいは反発します。

多くの人は両親との関係で葛藤を経験しているので、その経験を上司・指導教官との関係で思い出し、ただひたすら怖れを感じて上司の言うことを聞くか、あるいはただひたすら上司に反発します。「権威との葛藤」ですね。

この関係では、私たちは絶対的な無力な幼児の頃の自分と、圧倒的に力を持つ親を思い出すので、親・上司に服従・反発する態度を脱することはなかなかできません。私も、多くの先生を攻撃して困らせてきました。

このように「権威との葛藤」を抜け出すのは困難ですが、年下との関係では、自分に力があることは明白なので、むしろ比較的、力を抑制することを意識しやすいのではないでしょうか。つまり、自分の行動を改めることの大切さを学びやすいのではないかと思います。

私は大学院時代に、私を頼っていた多くの後輩を助けてやることができず、後悔の気持ちもあります。それでも、後輩との経験で、自分の“こころ”に少しの広がりを感じることができたのも事実です。

また後輩に攻撃されることで初めて、なぜ自分は先生たちを攻撃してしまったのかも分かりました。


同年同士の関係と結びつき

これら縦の関係に対し、同年同士との関係とは、争いとその克服を学ぶ場だと言えると吉川さんは言っているように私は読みました。

同じ力・同じ立場同士ですから、ゲーム感覚で争います。またその争いを通じて、自分の力と他人の力をより深く認識するようになります。

親的な人は、私たちにとってはいつまでも親です。精神的に信頼か依存し続けます。年下・後輩に対しては、私たちはいつまでも保護と配慮を与え続けます。

それに対して同年同士に対しては、力を直接ぶつけ合うことで、自分と他人の長所・短所を認識、共に助け合う仕方を学ぶようになります。吉川さんは次のように述べています。

「友達同士は、初めから仲がよくなるわけではないのです。互いに探り合い、互いに争って合って初めて自分の位置を発見します。相手との距離を測ることもできるようになるのです。こうして互いに助け合える関係に発展していきます。それが優しさであり、友情であり、愛情なのです。周囲と自分との関係を認識することによって、人と人の関係に積極的に関与する力がついたり、やりたいことにチャレンジする勇気が育ちます」(109頁)。

「権威との葛藤」における攻撃が、自分が絶対的に劣位にあった親との関係を再現しているとすれば、同年同士の競争は、より純粋に自分の力を発現させているということかもしれません。


「引きこもり」との関係で言えば、「引きこもり」は、この三つの関係すべてにおいて問題を抱えていると言えます。

未知の領域に踏み出さず自分の部屋にこもるということは、世界・他者に対する信頼感を失っている状態だと言えます(信頼感の欠如)。

また他者とのかかわりの中で自分の力を出すことを怖れてもいる場合もあるでしょう(競争への恐れ)。

同時に、自分の力を他者への配慮・保護に使う契機をも失い、欲求の抑制を学ぶこともできません(原初的欲求への後退)。

組織の圧力?

話が少しそれますが、多くの人が職を求めながら、同時に多くの人が会社で働くことに疲れていることの原因は、会社という場が、上記の三つの関係すべてにおいて、極度に注意を働かせることを求められる場だからないでしょうか。

組織にいることは、上司との関係ではつねに両親との関係を再体験しなければならず、同僚や他社との関係において競争をしなければならず、後輩との関係では欲求を抑制することを学ばなければなりません。

これらは人の“こころ”を成長させてくれる点でひじょうに重要な契機であり、それゆえ見方によっては会社という場所は人間の成長にとって最高の場であると言えます。

しかし実際には多くの会社で働く人が「こんな仕事から解放されたらなぁ」と思っているとしたら、もしそうだとしたら、それは上記の三つの関係すべてにおいて完璧な反応を求められているからじゃないでしょうか。


会社などの組織と対比して、より精神的な独立性を享受できる仕事の代表が、大学教授・医者・法曹家だと言えるように思います。

もちろん教授・医者・法曹家も組織に属しています。しかし会社と異なるのは、教授・医者・法曹家の場合、仕事の成果は、その人個人の力量に由来することを外からも認識しやすいことにあります。

この三つの仕事でも、上司や後輩の面倒や同僚との競争はあります。しかし、これらの仕事では(比較的)仕事が個人の裁量の範囲によってなされる度合いは、会社よりは多いのではないでしょうか。もちろんそうでない例もあるけれど。

だからこそ、それらの職の数少ないポストをめぐって、多くの成績優秀な人たちが争います。それらの仕事の面白さは、個人の力量をそのまま個人の裁量によって反映できる点にあると言えます。(比較的)最初から終わりまで、個人が自分の仕事をコントロールできます。そのような精神的な自由感が、教授・医者・法曹家といった仕事の魅力であり、だからこそ多くの人が憧れ、目指します。



話を戻します。

「引きこもり」が、吉川さんが言うように、信頼感の欠如・競争への恐れ・原初的欲求への後退だとすると、その中でも一番大きなファクターとなっているのが、信頼感の欠如ではないでしょうか。

もちろん十分に愛された人であっても、外界での争いで挫折することはあるでしょう。それでもその人が再度外界に目を向けるのに必要なのは、親的な人の愛情によって育まれる〈基本的信頼感〉のように思います。

これは吉川さんも、また斉藤環さんも述べていることですが、「引きこもり」を脱する上で重要なことは、その人が安心して引きこもれる環境づくりだということです。あるいは、子が親的な人(親には限らないが)を信頼できる状況の形成ということになります。

その具体的処方箋にかんしては、おそらくいろいろな本でいろいろな方法が述べられているのでしょう。この本では、ピカウンセリングという、「引きこもり」経験者による当人へのカウンセリングが紹介されています。


この本は、対象としている読者との関係から、心理を学んでいる人にとっては初歩的な語彙のみで物事が説明されているのかもしれません。しかし私のような素人にとってはなかなか興味深い本でした。

なかでも、人の“こころ”の成長を、年上・年下・同年との三つの関係から論じる視点は、よく知られた論じ方なのかもしれませんが、私にとっては「あっ、そうか」という感じでした。

人との関係で言えば、私たちは多くの場合、「競争」ということを論じますが、それは「同年同士」の表れとしての「競争」の場合が多いのではないでしょうか。

しかし実際の人間関係で私たちは、親との関係を再現した関係(上司との関係など)、年下の者との関係なども経験し、それぞれの場面で私たちが経験する力の行使の仕方or無力感は異なります。

私自身を振り返っても、“こころ”にとっては、指導教官や後輩との関係でいろいろな失敗をし、いろいろなことを教えてもらったように思います。

若いときは、同年同士との争いだけに集中しているかもしれません。しかし多くの人は多かれ少なかれ、上司あるいは部下・後輩との関係でも心理的につらい思いをするように想像できます。この三面の関係をすべて豊かにできる人が、成熟した人になるのではないかと思います。

また「引きこもり」というパターンをこの三側面と照らし合わせると、とりわけ信頼感の醸成が当人たちにとっていいことなのではないかと想像できます。

また同時に、欲求と規範との葛藤を重視する本書の視点により、「引きこもり」は、従来の規範を再検討する機会になっているかも知れず、本人たちにとって必要なプロセスなのではないかとも考えられます。

一般の人向けに書かれた本であり、またとりわけセンセーショナルなテーゼはありませんが、「引きこもり」という問題について、見晴らしをよくしてくれる本なのではないかと思います。