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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『赤ん坊と母親』 ドナルド・W・ウィニコット(著)

2006年11月15日 | Book


イギリスの小児精神科医ドナルド・ウィニコット(1896-1971)の講演集『赤ん坊と「母親」』を読みました。

私がこの本を読もうと思ったのは、アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』の中で人間が《信頼》感を自分の中で醸成することの重要性を指摘する際に引用していたのが、ウィニコットだったからです。

ウィニコットは著名な方ですが、私が彼の本を読むのは初めて。これは100頁ほどの薄い本ですが、それでも一回読んだだけでは著者の主張は頭に残りません。二回読んでも、読んでいる間はなんとなく読めているように感じるのですが、読み終わってさて彼の主張は何かと考えても、何も頭に浮かんできません。それでパラ~ッと拾い読みをして、それではじめてなんとなく著者の主張の輪郭が出てくる感じです。

これは、少なくともこの講演集では、ウィニコットという人は心理に関する何か明確な論理体系を述べようとしているからではないからだと思います。

この本は、赤ん坊と「母親」(女性だけでなく男性も「母親」になれるかもしれません)との関係の一般的な状態を観察していますが、「母親」に対して「ああしなさい」「こうしなさい」という主張は極力控えられています。

むしろこの本は、「母親」でも赤ん坊に対してでもなく、むしろ彼らを取り囲む医師や看護士や助産婦に「余計なことをしないように!」と言うために書かれていると言ってもよいものです。赤ん坊と「母親」との関係とは何かを客観的に考察して、「こういうものなんだよ」と私たちに諭すように著者は語っています。

ウィニコットからすれば、赤ん坊と「母親」との関係については、まわりの「専門家」が「母親」に教えることはとても少ないです。むしろ、「専門家」とは、赤ん坊と付き合いながら「赤ん坊との付き合いはこうですよ」というものを言葉ではなく態度で「母親」が示しているのを見て、そこから学ぶという立場にいるべきものです。

「専門家」とは、人々に教える存在ではなく、人々から学ぶ人のことだと、ウィニコットはそう言っているようにも見えます。少なくとも赤ん坊と「母親」との関係については。


抱っこ

この本でとりわけ取り上げられているのは、赤ん坊を抱っこすることの、赤ん坊にとっての大切さです。

抱っこは赤ちゃんにとって特別な経験です。そのとき赤ちゃんは、「母親」の呼吸運動や息の暖かさや、実に様々な「母親」の匂い、「母親」の心音を感じています。

そのとき「母親」は、赤ちゃんが身体を揺する速さが時によって違うことを感じ取り、そのときに適応した、そのときの赤ちゃんにとって最適な抱っこを実現します(107-108頁)。

生れたばかりの赤ちゃんが抱いて欲しがっているのか、降ろして欲しがっているのか、一人でいたがっているのか、寝返りを打たせてもらいたがっているのかを、「お母さん」が感じることができますが、そのとき二人は一体感を感じています。著者によれば、「こういうことが赤ちゃんに赤ちゃんとして存在する機会を与え、そこから行為、つまりしたりされたりを伴う次の段階」が生じ、「これが基礎となって、幼児は次第に自分が在ると経験できるように」なります(19頁)。

この「抱っこ」は、「普通の「お母さん」」であれば「自然に」分かるものです。普通の「お母さん」であれば、不安にもならないし、きつく掴みすぎることもありません。 どの「お母さん」も、赤ちゃんの要求に合わせて腕に加える力をうまく調節し、僅かに動いたりします。赤ちゃんは「お母さん」の息遣いを感じ、その息遣いや体温からくる暖かさから、赤ちゃんは抱っこは素晴らしいと感じます(30頁)。

このとき「母親」は、沈黙のうちに、ウィニコットの次のような言葉で表現されるコミュニケーションを行なっていると著者は言います。

「私を信頼していいのよ。――私が機械であるからではなくて、私があなたが必要とするものを知っているから。そしてあなたに関心をもち、あなたが必要とするものを与えたいと思っているから。これがあなたの発達のこの段階で私が愛と呼ぶものです」(105頁)。

(彼がアドヴァイスしていることの一つは、とても眠い時や抑うつ的な気分のときは、抱っこをせずに赤ちゃんをゆりかごに戻したほうがよいこと。なぜなら、そういうときは、周りの空間について赤ちゃんが何を感じているか、キャッチ・アップすることができないからです(32頁))。

このような経験により、赤ちゃんの中に「感じる能力」が形づくられ、赤ちゃんは世界と向き合うことができます(19頁)。


自我の統合

「お母さん」にしっかり保護された状況において、赤ちゃんは活動と感覚の断片のすべてが一つになり、依存的ではあっても一つのまとまった単位となります。「お母さん」の統一された自我による一貫性を持った行動が、赤ちゃんの自我を形づくるのです。

「お母さん」が赤ちゃんに安心できる保護的な状況を与えようと一貫した行動をとれば、赤ちゃんはその世界を安心だと感じ、安心だと感じることのできる状況にふさわしい行動を取るようになります。そのような場で赤ちゃんは怖がらずに自分の個性を主張できるようになります。

逆に「お母さん」がこの世界は危険だと感じながら子供に接すると、赤ちゃんもその世界を危険だと感じます。赤ちゃんは個性を主張する前に、つねに世界の動向を気にするようになります。自我は外界に依存するようになり、変化する外界に振り回され、自身で自我を統一することはできなくなります。ウィニコットは次のように述べます。「精神病院で見られる障害を予防するには、赤ちゃんの世話をみたいと思う「お母さん」が自然にするようになる幼児の世話がまず大切なのです」、と(25頁)。

しかし、この「「お母さん」が自然にするようになる幼児の世話」は、自然にするようになるのですから、本来は専門家があれこれ指示することではないし、また「お母さん」たちも専門家の言うことに振り回される必要もありません。自分が赤ちゃんに対してしたいようにすることが一番なのです。少なくともウィニコットはそう思っています。

もし「自然に」とは何なのか?とか言い始めるとしたら、それはその人が「感じる」能力を忘れ、本を読みすぎたのかもしれません。自分がしたいことを感覚で分からないのは、感覚よりも知識を優先させているからです。

「母親」は誰に教えられることもなく、幼児の要求に応える能力をもっています。少なくともそのことが観察されます。これは、「母親」が子供の感情に同一化する能力を有しているからであり、赤ちゃんは自分の感情に同一化してくれる「母親」という存在があって初めて、自分の苦悩が対処されて行き、それにより安心感を得て、自分という存在を確認することができるようになります。

この「母親」の同一化の能力は、「母親」自身が赤ちゃんだった経験から生じていると想像できます(ウィニコットはそう明示していないけれど)。「母親」の中には、「自身依存的でそしてしだいに自立を達成しつつある経験の集合体」としての赤ちゃんがどこかに潜んでいます。彼女(彼)は、「赤ちゃんになる遊びもしてきました」し、「病気の時には赤ちゃんに退行しました」。「そしておそらく、「母親」が弟妹の世話をするのを見て」きました。

これらの経験から、彼女(彼)は、赤ちゃんに同一化することを「自然」と捉えるようになっているのです。

最初赤ん坊は、「自分」というものを知りません。ただ世界に投げ込まれており、その世界への恐怖に直面するのです。その恐怖に対して、自分の欲求の充足が「母親」によってなされることで、自分の望んでいることを明確に認識するようになり、自分の欲求を知るようになります。そこから、彼or彼女の自我の統合への道が開かれます。

「母親」という自我があり、その「母親」の自我が子供の自我を汲み取り、子供に子供の自我を認識させ、子供の自我を確立させます。子供は「母親」の自我の助けを借りて、自分の自我を作るのです。

現実原則

この過程で赤ん坊は、自身と現実との間の適切な距離の取り方を学びます。赤ん坊にとって“現実” “環境”は、最初は無力な自分を覆う恐怖の対象です。しかし、周りの大人に自分の欲求を充足してもらい、恐怖に満ちた“現実”に取り囲まれながらも自分が生を営んでいるという経験をしていくことで、赤ん坊は“現実” “環境”を恐怖だけで構成されているものとはみなくなります。ここで赤ん坊は「現実原則」を受け入れることになるのです(67頁)。


信頼

こうして赤ちゃんは、世界を“恐怖”としてではなく“現実” “環境” “客観性”として見なすようになります。世界を“恐怖”としてみないこと、すなわち“客観的”なものとみるとき、赤ちゃんは世界を《信頼》しているようになっています。彼(彼女)にとって世界は、恐怖の海で自分をどこに流すか分からないものではなく、自分が相対して向き合う対象となっているのです。このような向き合いは、自身の自我が統一され、世界の中で自分の欲求は満たされると信じることで達成される態度です。もちろんそれには「「お母さん」」(男性でも「「お母さん」」の役割を担えるでしょうが)が大きく貢献をしている、というよりそれは「「お母さん」」の子供に対する「ほどよい母性的介護」“good enough mothering”にかかっていると言えます。


授乳

授乳は、何か神秘的な言説によって正当化されるものではなく、「お母さん」の体調や心理的葛藤がある場合には強制されてはならないものです。そのことを確認したうえで、ウィニコットは授乳がそれが可能である場合の積極的な側面を述べます。

赤ちゃんにとって乳首を口に差し出されることは、彼or彼女にとって攻撃的な衝動を呼び起こし、乳首を噛んだりするきっかけになります。

ここで重要なことは、そのような攻撃性を示しても、赤ちゃんはすぐに乳房を守るようになるということです。これはなぜでしょうか?

乳首を噛んだりする以外にも、赤ん坊は「お母さん」に対して、引っ掻いたり、髪の毛を引っ張ったり、蹴ったりします。

しかし、にもかかわらず「お母さん」がそのような赤ちゃんの攻撃性を理解して(それは何らかの意図を持つ攻撃性ではない。赤ちゃんはまだそこまでの意図を持つことができないのだから)、仕返しや復讐もしなければ何が起こるでしょうか。

ウィニコットによれば、そのとき赤ちゃんは「愛という言葉に新しい意味を見出」し、あたかも次のように言っているかのようになります。

「「お母さん」、あなたが私の破壊から生き残ってくれたので私はあなたを愛します。夢と空想の中であなたのことを考えるときはいつもあなたを破壊していますが、それはあなたを愛しているからなのです」と。

著者によれば、重要なのは、赤ちゃんの攻撃にもかかわらず、このように「お母さん」が生き残り、仕返しや復讐をすることもないことが、個人の健全な発達のための基礎だということです(42-44頁)。

それにより赤ちゃんは、自分の攻撃性にもかかわらず、自分を保護しようという存在があることを発見し、自分のいる世界の安心感を感じることができるようになります。


失敗

この最初の成功があったのちに、この成功を基盤として、赤ちゃん自身が「お母さん」の「失敗」に対処することができます。「お母さん」の失敗もある点では赤ちゃんにとって必要な機会です。ウィニコットは次のように述べます。

「欲求不満や環境の相対的な失敗に対処しうる装置がすでにできているのに、相変わらず全能感を経験し続けることは、人間の子どもにとって困ったことになるでしょう。絶望にまで至らない適度な怒りから得られる満足というものがあるのです」(20頁)。

失敗が役に立つのは、それが絶えず修復を要請するからです。「お母さん」が赤ちゃんの要求に応えるのに失敗するごとに、赤ちゃんは不満をもちます。彼(彼女)は怒りと嘆きを感じているかもしれません。しかしこの不満と、その不満の修復を経験することで、赤ちゃんはたしかに自分を世話している存在がそこにいるということをよりはっきりと認識するようになります。「母親」の適度な失敗とその修復により、赤ちゃんは自分の欲求がかなえられないことの不満と、かなえられることの幸せをより感じることができるのです。

すべてがあたえられる状態で赤ちゃんは全能感を経験し、しかし「母親」が失敗する過程で赤ちゃんは欲求不満を経験します。そして修復により再度不満が充足されるとき、赤ちゃんはこの世界が完全ではないこと、しかし自分には恵みが与えられることを学びます。それはウィニコットによれば、赤ちゃんが神から人間の個人にふさわしい謙遜へと至る道です。

それに対して、失敗が修復されない場合、つまり絶えず赤ちゃんが自分の要求をかなえてもらえない状態にある場合、そこには「剥奪」が生じると著者は述べます。この「剥奪」は、その後の赤ちゃんの人生の精神に大きな打撃を与える可能性を含みます。


統合失調症

「分裂病」すなわち統合失調症、あるいは境界例は、幼児の段階におけるこのような十分な安心感の達成、彼の言葉で言う“good enough mothering”(「ほどよい母性的介護」)がなされなかったことに原因があるかもしれない、とウィニコットは見ます。

「ほどよい母性的介護」がなされなかった場合、その人は自我を統合させるきっかけ、つまり「母親」の補助自我機能の助けを借りることができず、自らの欲求を達成させることができませんでした。

無力なまま世界に投げ込まれた幼児が、恐怖に満ちているように見える世界に対して何もできないとき、その幼児はそもそも何をどうすればいいか分からず、「程よい母性的介護」がない場合には、自分の欲求も充足されず、世界に対処することもできません。

彼(彼女)は徐々に自分の欲求を充足させることもなかったので、どうすれば自分の欲求が満たされるかも分からず、それゆえ自分の自我、自分と他との境界も分からないまま育ちます。

「自分」というものの存在が不確かであり、彼(彼女)は世界と自分との区別がはっきりつかず、「自分」も「世界も」も境界づけることができません。

そのとき彼(彼女)には、「妄想」の類が侵入する余地ができてしまいます。

逆に言えば、統合失調症の患者の人の語りには、赤ちゃんが直面している恐怖を我々が追体験意見する手がかりがあるということです。著者は次のように患者の人の語りを引用しています。

「彼女は自分が砂利の山の下にいるという夢を見ました。全身の表面が、想像を絶するほど非常に敏感になっていました。肌は火傷をしていました。それはきわめて敏感で脆弱だということの彼女流の表現でした。全身いたるところに火傷していました。誰かがやってきて、少しでも彼女に何かするとしたら、身体的にも精神的にもその苦痛に耐えられないということが彼女には分かっていました」(58頁)。


「ほどよい母性的介護」を受けた赤ちゃんは、人間との触れ合いによってのみ満たされる非常に微妙な要求をかなえてもらうことができます。すなわち、「お母さん」の呼吸のリズムに包み込まれ、大人の心音を聞くことができ、「お母さん」やお父さんの匂いをかぐことができ、環境の賑やかさや活気を示す音やあるいは色や動きを感じることができます(94頁)。

上で述べてきたように、そのような環境に包み込まれることで、赤ちゃんは世界への信頼を持つことができるようになります。逆に言えば、このような「ほどよい母性的介護」に包まれなかった赤ちゃんは、世界を恐怖に満ちたものとして引き続き体験し続けることを強いられます。ウィニコットはその言葉を次のように描写します。

「  
ばらばらになる
   どこまでも落ち続ける
   死ぬ死ぬ死ぬ
   新しい接触の望みの痕跡すら失う
                     」(94頁)

精神科医の中井久夫さんは、統合失調症者の心的体験を同じように描写しています。すなわち、患者さんは自他・内外の区別が不明確になり、「意識の天井が開いて青天井となり無限の高みに引き上げられる」または「奈落の底に墜落」するようなもの、と(『最終講義 分裂病私見』 )。



このウィニコットの本は、おそらくウィニコットの主著ではないのでしょう。読んでみると拍子抜けするほど専門的な記述がありません。私たちが育児に関して大事だと想像することがそのまま書かれてあると言ってもよいかもしれません。

ただそれでも、こうして冗長にでも彼の言うことを要約してみると、ウィニコットが赤ん坊の心的体験を丁寧に追い、赤ん坊にとって決定的な体験とは何かを冷静に見ようとしていることが分かります。それは「抱っこ」などなのだけど。

ただ、周りの大人の自我の統一の度合いが赤ん坊の自我の形成に影響を与えるという指摘は、心理を学んでいる人たちにとっては初歩的なことだろうけど、読んでいて「あっ」という感覚もありました。

「母親」の補助自我機能。「母親」が赤ん坊に同一化することにより、「母親」は赤ん坊の自我を読み取り、また「母親」が読み取った自我が育児による子どもに再度返されていくのです。赤ん坊が自分について知らないことを「お母さん」が読み取り、それを「お母さん」は子どもに教えていきます。

こうして私たちは、私たちの欲求を満たしてくれる人の行為を通じて、その人が私たちから読み取ったものを再度私たちがその人から読みとり自我を形成していきます。

このような育児の過程と赤ちゃんが信頼を得ていく過程はたしかに社会にとって注目すべき事柄です。そのような信頼を多くの人が獲得しているかどうかが、社会がよくなるかどうかを決定するのですから。




Children don't know anything.

2006年11月15日 | 日記


今日の神戸の朝はすっきりとした晴れ。私も朝起きるとびっくりするような時間になっていました。たっぷり眠ってしまった感じ。罪悪感も感じます。


中学生のときによく遊んだ友達のお母さんがつい最近亡くなりました。その友達の家にはよく遊びに行っていたので、お母さんにもよくお世話になりました。

その友達とは別の高校に行ったので中学卒業後はあまり会わず、高校卒業後は一度も会っていません。

そのようにその家とは疎遠になったけど、でも彼の母親が亡くなったという話は、少し驚きでした。まだ若かったと思います。

ウチの母親とは頻繁に会っていたようです。

私は知らなかったのですが、そのお母さんは私が中学のときにすでにガンにかかっており、そのガンはなんとか治ったものの、その後べつの箇所でまたガンが発生してしまっていたそうです。

私がその友達の家に行ってよく遊んでいたときには、すでに病気と闘っていたわけです。私は何も知りませんでしたし、ウチの母親はおそらく知っていたのでしょうが、私に何も言っていませんでした。

子供は大人のことを何も知らない。苦しみも苦労も何もかも。


涼風