joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

What's love?

2006年11月12日 | reflexion


ブルブルッと今日の朝は寒い。電気ストーブを点けてしまう。


先日あるお話をある50代くらいの男の人から聴きました。

恋愛というのは、最初はポーっとしている状態。相手のすべてがいいように見えてしまう状態。これは一種の病気の状態だそうです。絶対現実とは違う。

それが、恋愛が続いたり結婚したりすると、絶対に相手のすべてが嫌いになる時がやってくるそうです。「こういう人とだけは結婚したくなかった」という感じですね。想像だけど。

で、“愛”というのは、その状態のときに初めて始まる状態なんだそうです。

“恋”というのは浮かれている状態。「ロマンス」でウキウキ・ハッピーな状態ですね。恋愛の最初の一ヶ月くらいの状態だとよく言いますね。

それに対して、“愛”というのは「ロマンス」の段階が終って、「相手のすべてが嫌い」と思い始めたときに、初めて出せるものなんだそうです。

つまり、「相手のすべてが嫌い」だけど、それでも相手を大切にするぞ、という態度ですね。

そう言えば遠藤周作も同じようなことを言っていたなぁ。遠藤によれば、結婚というのは、相手に対して恋愛感情も持たず、相手のことを好きでもなんでもなくなったとき、それでも相手のことを大切にしようと思うことだ、だそうです。


こういう話を聞いて僕がなんとなく思ったのは、親子関係というのも、こういうものかもしれない。

たしかに多くの親は子育てが下手で、知らず知らずのうちに子供をたくさん傷つけているのかもしれない。親自身も、子供に対して配慮するだけの注意力が散漫になりがちで、自分勝手な態度を子供にとっているのかもしれなし、子供に嫌悪感を感じているのかもしれない。

それでも多くの親は、子供のことを嫌いになりながらも、家に置き、食事を与え、大人になるまで一緒に暮らし、育てようとしている。たしかに理想の状態からすれば100%完璧なマザー・テレサのような愛情(と言っても僕はマザー・テレサのことをよく知らないけど)を多くの親は与えていないかもしれない。それでも、子供に嫌悪感を感じていても、「それでも」子供と一緒に暮らし、食事を与え、多くのことをしようとしている。

そのとき、親は赤ちゃんに対するような嬉しい感情はもう子供に対して持っていないかもしれない。自分の思うような人間に育たない子供にイライラしているかもしれない(子供は、親の望むような人間にではなく、親のような人間になる)。しかしどれだけイライラしても、一緒に暮らして育てようとする忍耐力を多くの親はもっている。

どれだけ嫌っても一緒にいようという“コミット”を、多くの親はしているのだ。それは、「相手のすべてのことが嫌い」でも結婚を続けようとするときに生じる“愛”と同じようなものかもしれない。


では、育てることすら放棄する親に対して子供はどう考えればいいだろう?

たとえ育てることはできなくとも、出産という難事業にはすべての親が耐えています。


涼風