淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

「町でいちばんの美女」

2007年08月16日 | Weblog
 最近、余り本を読まなくなった。
 特に小説はほとんど読まなくなった。読むとしても、ご贔屓作家のエッセーとか仏教に関する本、あるいは「新潮社新書」とか「文春新書」とか「講談社新書」、いわゆるワンテーマものを扱った軽めの本がほとんどである。

 何か、現実の生活のほうが凄まじくて(勿論、色んな意味で)、小説の中で主人公が独白する苦悩や戸惑いや人生への決意のような言葉の群れを今更聞かされても、どこか白けて興醒めしてしまう。
 ただ、そんなふうに途中で投げ出してしまうケースの大半を占めるのは、新人作家の書いた小説であることもまた確かな事実ではあるんだけど・・・。

 ここ数日、熱帯夜が続いていて、暑さから中々思うように寝付けない。
 昨日の夜は、突然、永井龍男の短編小説が読みたくなって、本棚を探し、また「蜜柑」を読み直した。
 もうこの短編小説、これまで何百回読んだことだろう。
 10分もあれば読み切れる、かなり短い小説なのだが、その中身はとても芳醇で研ぎ澄まされている。

 以前にもこのブログで「蜜柑」の素晴らしさを書いたことがあったけれど、何度書いてもこの小説の美しさを語り尽くすことは出来ない。
 言葉を削りに削り、それでも残ってしまった最後の言葉だけを繋ぎ合わせ、文章として組み立て、わたしたちの前に提示する。
 洗練されていて、しかもシンプルで、文章の合間から、孤独や悲しみや刹那や愛が迸(ほとばし)る。こんな凄い短編小説を読まされたら、もう黙って立ち尽くすしか術はないだろう。

 中年の妻子ある男性がいる。
 彼は、30歳代前半の独身女性と伊豆への一泊旅行に出掛ける。
 彼女には良談が持ち上がっていた。彼女の心は少しだけ揺れ動いていて、愛する中年男性との密かな恋愛生活にピリオドを打たなければという気持ちと、新しい無垢な生活への憧れとの狭間で戸惑っている。
 男は、今回限りでその女性と別れることを決心する。だから、これが最後の旅行となるだろうと密かに思っている。

 二人の濃密な夜は終わり、やがて朝がやってきた。
 3月の、何処となく不安定な空模様。早春の朝の激しい風。
 二人はタクシーに乗って、お互いの家へと向かう。別れをどちらかが切り出すわけでもなく、曖昧で気だるい時間だけがゆっくりと過ぎてゆく。
 そして、そこに・・・。

 この小説に筋だけ問い質しても意味がない。
 勿論、今書いたような背景に則って物語は進んでゆくのだけれど、例えば映画「タイタニック」に対して、「ある若い男女がタイタニック号で知り合って恋に落ちるんだけど、そのタイタニック号が航海中に沈んじゃって、二人とも永遠の別れを余儀なくされちゃう物語です」と簡潔に言語ったとしても、映画自体の面白さを完璧に伝えたことにはならない。

 同じように、この日本文学史上、燦然と輝く傑作短編小説「蜜柑」もまた、小説を読んでこそ初めて知る衝撃と感動というものが存在する。
 研ぎ澄まされた言葉の群れ、男女の微妙な心の軌跡、二人の会話の中に篭(こも)る愛惜や嫉妬や情や連帯や拒否の感情・・・。
 何度読んでも、この愛に関する小説には新たな驚きや発見がある。

 などと、好きな小説のことをぼんやり考えていたら、今週末から首都圏においてマット・ディモン主演の「酔いどれ詩人になる前に」という、作家チャールズ・ブコウスキーの自伝的映画が公開されるということを思い出した。

 当然、この街での上映は首都圏封切り後、少し経ってからの公開ということになるのだろうけど、このチャールズ・ブコウスキー、とても風変わりで日本でいうところの無頼派とも呼ぶべき作家である。

 卑猥なフォー・レター・ワーズを連発し、飲んだくれのその日暮らし。小説を書きながら、女にだらしなく(しかし女にだらしないって、よく考えたらどういう意味なんだろう。自分で使っておいて何ですが・・・)、破滅的な日常を送っている。

 ところが、彼の書く短編小説もまた途轍もなく美しい。叙情的ですらある。
 その彼の小説の中に「町でいちばんの美女」という素晴らしい短編集がある。確かに上辺は、いい加減でだらしのない人間をモチーフに扱っているものの、何故か行間から漂ってくるのは、それらとは対極にある、静謐で、豊かで、切なさを伴った清楚な匂い・・・。

 やはり、美は乱調にあるらしい。諧調こそが偽りなのだ。 



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする