ドゥルーズの『シネマ2*時間イメージ』は、話題になっていても、きっと、というか、どうせ読みきることはできないだろうと静観していたのだけれど、朝日新聞に掲載された中条省平の書評を読むと、大きく惹かれしまう。
◆「
映画の最小単位であるショットは物や人の動きを映しだす。これが<運動イメージ>である。運動は、時間という変化する全体のなかで存在するが、映画で時間を表現するためにはショットを組み合わせて編集し、間接的に再現するほかない。……(略)……
ところが、ネオレアリズモとヌーヴェル・ヴァーグは、この(映画の約束事を支えている)感覚運動的な連続性を破壊し、運動イメージのスムーズな連鎖による時間の間接的再現を退けた。代わって現れたのが一つのショットのなかで直接的に時間を露にする<時間イメージ>である。
主人公が秩序ある空間のなかで目的に向かって行動する<運動イメージ>に対して、人間が無秩序のなかで彷徨する<時間イメージ>が映画の最前線を占めるようになる。
「現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。……引き裂かれるのは、人間と世界の絆である」
ことは単なる映画の手法の変化ではなく、世界の不可逆な変化であり、それを感知した映画の天才たちがこの恐るべき事態にどう対処したかという戦いの物語である。(朝日新聞070107)
」◆
この書評は短いながらも、ぼくのように映画やドゥルーズのことがよくわかっていないような人間の関心を最大限に引き上げる。実際のところ<運動イメージ>はわかっても、<時間イメージ>についての具体的なイメージはわきにくいし、引用されている「現代的な事態とは…」は、どのような文脈で記述されているのがわからないため、映画がなぜこのようなかたちで世界と人間の関係の話に拡張されていくのか正直なところさっぱりわからない。しかし、この中条の留め置きのおかげで、<時間イメージ>について知りたい欲求は加速するし、引用された一文の登場をマイルストーンとして待望しながら読み継ぐことは可能ではないか、と過信してしまう。おそらく書店では河出文庫の『意味の論理学』も並んでいるだろうが、こちらはたとえ小泉義之による新訳とはいっても、一筋縄ではいかないだろうから、中条の薦めにしたがってみようか。まあ、でもやっぱり読みきれないだろうけれど。
ところで、書評とえいば、荒川洋治の『文芸時評という感想』が、再燃しているようだ。ちょうど1年くらい前に入手して、気になるところをピックアップしながら読み続けていたのだが、いちどリニアに読んでみようと思う。「作品の感想を…素直に書」き、それを読めるテキストとして完成させる、という行為は、じつは書評よりも難しい。ときに書評に近いようなこういった文書を書いていると、「感想」と名づけてしまえば…と思うのだが、冷静に考えれば「感想」という方法にはなんのエクスキューズもなく、そればかりか主観というか自分の器量が色濃くでてくるわけだから、これほど恐いものもない。そのあたりの恐れをものともせず、荒川洋治が「感想」に立ち向かえたのは、やはり言葉のレンジの広さがありかつ、その(詩人として役割としての)レンジの限界を正確にわきまえているからからであって、言葉に無自覚な素人には到底真似できない話である。権威や評判ではなく、目の前にある言葉だけに対する純粋な感想。このあたりのブレのなさは、無理であってもなんとか学びたいところだ。久しぶりに箴言をメモしながら読む?
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映画の最小単位であるショットは物や人の動きを映しだす。これが<運動イメージ>である。運動は、時間という変化する全体のなかで存在するが、映画で時間を表現するためにはショットを組み合わせて編集し、間接的に再現するほかない。……(略)……
ところが、ネオレアリズモとヌーヴェル・ヴァーグは、この(映画の約束事を支えている)感覚運動的な連続性を破壊し、運動イメージのスムーズな連鎖による時間の間接的再現を退けた。代わって現れたのが一つのショットのなかで直接的に時間を露にする<時間イメージ>である。
主人公が秩序ある空間のなかで目的に向かって行動する<運動イメージ>に対して、人間が無秩序のなかで彷徨する<時間イメージ>が映画の最前線を占めるようになる。
「現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。……引き裂かれるのは、人間と世界の絆である」
ことは単なる映画の手法の変化ではなく、世界の不可逆な変化であり、それを感知した映画の天才たちがこの恐るべき事態にどう対処したかという戦いの物語である。(朝日新聞070107)
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この書評は短いながらも、ぼくのように映画やドゥルーズのことがよくわかっていないような人間の関心を最大限に引き上げる。実際のところ<運動イメージ>はわかっても、<時間イメージ>についての具体的なイメージはわきにくいし、引用されている「現代的な事態とは…」は、どのような文脈で記述されているのがわからないため、映画がなぜこのようなかたちで世界と人間の関係の話に拡張されていくのか正直なところさっぱりわからない。しかし、この中条の留め置きのおかげで、<時間イメージ>について知りたい欲求は加速するし、引用された一文の登場をマイルストーンとして待望しながら読み継ぐことは可能ではないか、と過信してしまう。おそらく書店では河出文庫の『意味の論理学』も並んでいるだろうが、こちらはたとえ小泉義之による新訳とはいっても、一筋縄ではいかないだろうから、中条の薦めにしたがってみようか。まあ、でもやっぱり読みきれないだろうけれど。
ところで、書評とえいば、荒川洋治の『文芸時評という感想』が、再燃しているようだ。ちょうど1年くらい前に入手して、気になるところをピックアップしながら読み続けていたのだが、いちどリニアに読んでみようと思う。「作品の感想を…素直に書」き、それを読めるテキストとして完成させる、という行為は、じつは書評よりも難しい。ときに書評に近いようなこういった文書を書いていると、「感想」と名づけてしまえば…と思うのだが、冷静に考えれば「感想」という方法にはなんのエクスキューズもなく、そればかりか主観というか自分の器量が色濃くでてくるわけだから、これほど恐いものもない。そのあたりの恐れをものともせず、荒川洋治が「感想」に立ち向かえたのは、やはり言葉のレンジの広さがありかつ、その(詩人として役割としての)レンジの限界を正確にわきまえているからからであって、言葉に無自覚な素人には到底真似できない話である。権威や評判ではなく、目の前にある言葉だけに対する純粋な感想。このあたりのブレのなさは、無理であってもなんとか学びたいところだ。久しぶりに箴言をメモしながら読む?