考えるための道具箱

Thinking tool box

◎魅力的な書評。

2007-01-08 19:47:38 | ◎読
ドゥルーズの『シネマ2*時間イメージ』は、話題になっていても、きっと、というか、どうせ読みきることはできないだろうと静観していたのだけれど、朝日新聞に掲載された中条省平の書評を読むと、大きく惹かれしまう。
◆「
映画の最小単位であるショットは物や人の動きを映しだす。これが<運動イメージ>である。運動は、時間という変化する全体のなかで存在するが、映画で時間を表現するためにはショットを組み合わせて編集し、間接的に再現するほかない。……(略)……

ところが、ネオレアリズモとヌーヴェル・ヴァーグは、この(映画の約束事を支えている)感覚運動的な連続性を破壊し、運動イメージのスムーズな連鎖による時間の間接的再現を退けた。代わって現れたのが一つのショットのなかで直接的に時間を露にする<時間イメージ>である。

主人公が秩序ある空間のなかで目的に向かって行動する<運動イメージ>に対して、人間が無秩序のなかで彷徨する<時間イメージ>が映画の最前線を占めるようになる。

「現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。……引き裂かれるのは、人間と世界の絆である」

ことは単なる映画の手法の変化ではなく、世界の不可逆な変化であり、それを感知した映画の天才たちがこの恐るべき事態にどう対処したかという戦いの物語である。(朝日新聞070107)
」◆
この書評は短いながらも、ぼくのように映画やドゥルーズのことがよくわかっていないような人間の関心を最大限に引き上げる。実際のところ<運動イメージ>はわかっても、<時間イメージ>についての具体的なイメージはわきにくいし、引用されている「現代的な事態とは…」は、どのような文脈で記述されているのがわからないため、映画がなぜこのようなかたちで世界と人間の関係の話に拡張されていくのか正直なところさっぱりわからない。しかし、この中条の留め置きのおかげで、<時間イメージ>について知りたい欲求は加速するし、引用された一文の登場をマイルストーンとして待望しながら読み継ぐことは可能ではないか、と過信してしまう。おそらく書店では河出文庫の『意味の論理学』も並んでいるだろうが、こちらはたとえ小泉義之による新訳とはいっても、一筋縄ではいかないだろうから、中条の薦めにしたがってみようか。まあ、でもやっぱり読みきれないだろうけれど。

ところで、書評とえいば、荒川洋治の『文芸時評という感想』が、再燃しているようだ。ちょうど1年くらい前に入手して、気になるところをピックアップしながら読み続けていたのだが、いちどリニアに読んでみようと思う。「作品の感想を…素直に書」き、それを読めるテキストとして完成させる、という行為は、じつは書評よりも難しい。ときに書評に近いようなこういった文書を書いていると、「感想」と名づけてしまえば…と思うのだが、冷静に考えれば「感想」という方法にはなんのエクスキューズもなく、そればかりか主観というか自分の器量が色濃くでてくるわけだから、これほど恐いものもない。そのあたりの恐れをものともせず、荒川洋治が「感想」に立ち向かえたのは、やはり言葉のレンジの広さがありかつ、その(詩人として役割としての)レンジの限界を正確にわきまえているからからであって、言葉に無自覚な素人には到底真似できない話である。権威や評判ではなく、目の前にある言葉だけに対する純粋な感想。このあたりのブレのなさは、無理であってもなんとか学びたいところだ。久しぶりに箴言をメモしながら読む?

◎宿題、というより誘惑と格闘する。

2007-01-08 00:48:39 | ◎書
昨日は、恒例のご近所飲み会だったのだけれど、珍しく後半にダウンしてしまった。もう風呂も入らず着替えもせずに寝入ってしまうなんて、ほんとうに久しぶりだ。昼間から多少体調に違和を感じていたので、そんなにはたくさん飲んでいなかったはずだったんだけれど、まあ19:00くらいから飲みだして24:00くらいまでだらだら続けていたので、けっこうな酒量は入っていたかもしれない。みなさまたいへん失礼しました。またリベンジのほどお願いします。

そのようなダウナーな目覚めであっても、残りの宿題をこなさなければならない。しかし、さすがに新しい形のブランディング手法は1日では結論はでず、そうとう苛立った1日だった。作業の後半は、もう今日のアウトプットはあきらめて、情報のインプットに徹する。

今回の課題で時間がかかっているのは、実体実感に立脚したブランディングの手法を考えているからである。もちろんブランドの要素として情緒的なイメージのようなものがある程度重要なのはわかる。しかし、大きな前提としてブランドを形成するのはあくまでも実体情報でありそれは言うまでもなく企業の提供する商品と商品情報である。それに多少の(使用経験以外の)集約情報と、ほんのわずかイメージ情報がプラスされることによりブランド認識のようなものが形成されるわけだから、本来的には実体情報の占める割合が多ければ多いほど、確かなブランドといえる。ここのところを大きな前提としてブランドを考えるのは、じつのところ骨の折れる作業である。ひとつひとつの商品に内在された膨大な情報をつぶさにかき集め、まず商品情報集積をつくることがスタートになるからだ。おそらく世の中の半分くらいのブランド論の人たちは、ここのところがよくわかっておらず、いやわかっていても(商品情報の集積がめんどうくさいから)徹底できずに、その結果、実体があまり見えにくいイメージのようなブランド・コミュニケーションを推奨してしまう。いや、パッケージング・グッズならともかく、耐久消費材でそんな甘ちゃんなことを考えている人はもはやいないですよ、という人がいれば、じゃあ、どうしてあんなようなダイワハウスのCFが生まれてしまうのか教えて欲しい。

ところでこういう地に足のついたブランド戦略の概念をまとめるときに、先日少しふれた『実践 ロジカル・ブランディング 曖昧な情緒論から硬質の経営論へ』はたいへん役に立つ。2005年の本なので当時の評価はわからないし、また、あくまで論なので企画資料などに援用する場合はいったんフレームワーク化が必要なのだが、すべての考え方が「勝負どころは製品実体」というところでブレがなく、またパッケージング・グッズではなく、いわゆるテクノブランドを中心に考えているため、製品や品質によるブランド戦略を考えていくときの礎となる。いくつかの概念図解もカスタマイズすれば、多くの製造業のブランド検討資料として使えるかもしれない。丁寧なまとめ方をしているので、ブランドについて初めて考える人の入門書としても適している。この考え方をインプリンティングされるべきだ。WEBブランディングについては言及されていないが、著者の菊池隆氏もそのことは了解しており、今後掘り下げる、としているので期待したい。

というわけで、当該企業のいろいろな情報を集めてようやくなんとなくこんな形でまとめっていったらいいのではないか、という落書きが2~3枚できたところで、いったん頭をからにしてみる。

というふうに書くと格好いいのだけれど、仕事を中断しているのは、ほんとうのところは、いくつかの誘惑に負けてしまっているからである。もちろんひとつは、昨日の余波を引きずる睡魔で、ずっとブランドのことを考えながらレム睡眠時の思いつきを急いでメモするという繰り返しを何時間か、くりかえしていた(あとで見返すと、まあたいしたアイデアはでていなかったけれど)。

別の誘惑は、例によって新入荷のメディアである。まず、文芸誌。なんだか最近、1月号もほとんど読めていないと言っていたばかりなのにもはや2月号である。公転が早くなっているような気がするのはぼくだけだろうか。前月と同じく『群像』『新潮』。『文學界』は昨年来なんだかエスタブリッシュメント化していて、ちょっと関心がわきにくい。そんな文学的関心がわきにくい出版社から賞が生まれるのも釈然としないので、今回はぜひ柴崎友香に一票を投じていただきたいところだ。あれは、ほんとうに良い小説だし。あ、でもやっぱり『文學界』九月号か。それならしようがないか。『1000の小説とバックベアード』は滑り込みで間に合わなかったのだろうか。

それはさておき、前にも書いたが『新潮』は、ほとんど平野啓一郎の「決壊」と舞城王太郎の「ディスコ探偵水曜日」のために買っているようなところもあり、昨年、文芸誌の「連載」小説の存在について投じていた大きな疑問を撤回しなければならなくなってきた。「決壊」については、斜め読みしかできていないが、WEB関連の逸話はちょっと出来すぎのような気もしないでもないし、登場人物の夫婦のあり方がうちとは随分違う(たとえば奥さんに秘密の日記ブログをそこまで隠す?とか)ので、多少違和感はないともいえないけれど、そのあたりがないと起こる決壊も起こらなそうなので、全体最適を期待したいところだ。もちろん(これも連載、というか長編の第一部だが)筒井康隆の中原昌也シンクロニシティ小説「ダンシング・ヴァニティ」も面白そうではある。『群像』はなんだろう。久しぶりに中村文則の鉛灰色の硬い文章を読んでみたい、というのもあったが、どちらかといえば、多和田、柴田、小野、野崎のシンポジウム「翻訳の詩学-エクソフォニーを求めて」や文芸記者の座談会「2006年文芸作品の収穫」とか、ちょっと細かいけれど福永信の『ミステリアスセッティング』評か。前者2つの鼎談を読む限りは、昨年から相当迷っている『アメリカ 非道の大陸』『真鶴』を我慢するのはやっぱり体によくない。

さらに誘惑のもうひとつは『STUDIO VOICE』の80年代特集。どこかの誰かが、先月のSVをみて今頃こんなような特集をするなんてイケていない、やっぱり雑誌は面白くない、なんて書いていたような気がするが、どうしてどうして、純粋に「雑」誌を楽しみたいという目でみたときに、『STUDIO VOICE』は充分にイケていて、この80年代特集もその例に漏れない(この雑誌の因習としてライターの軽薄さんにうんざりする部分はなきにしもあらずだが)。なんっていったって、「読む文字」が多いのがいい。確かに面白い雑誌は少なくなっているし、むかしはそうとう面白かったものだって、さすが平凡出版、「平凡」のような芸能雑誌に凋落しているものもあったりするわけだから、総体として雑誌に苦言を呈するのはわかるが、個別性やターゲット性こそが雑誌の特長なわけだから、「雑誌は面白くない」と語るのにはかなり慎重になる必要がある。

というところで、もういちどブランド関連の底まで達しておきたいのでこのあたりで誘惑を断ち切る。