そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

11月14日(月)さしたることもなき一日

2016年11月14日 | 公開

  永井龍男に、「私もそろそろ石になりたい」の一文で終わる随筆があるが(「五百羅漢」)、ああいう洒落た文章が書きたいものだと、つくづく思う。そう思いつつ、早めの通勤を心がけて電車に乗り、メトロに乗り継ぐ。車内は次第に混んできて、左脇の女子高生と密着するような仕儀とあいなった。吊革につかまり、左手で文庫本を開いて読む。女子高生が私の文庫本を覗き込んでいるのが分かるが、こんな老人随筆が、いったい面白いのかしらと、すこし可笑しくなった。

  昨夜はちゃんぽんで酒を飲まされたので、二日酔い気味である。A学部1年の眼鏡君が、酔っ払って、B学部1年の女子を口説いていたが、あまり相手にされていないみたいだった。十八、十九の恋愛は、もう老人にとっては、うざいかぎりである。選挙権は十八以上になったが、あらら、そうすると、この学生たちは飲酒してはならないのでは・・・と気づいたのが、後の祭り。生年月日を確認したわけでもないので、詮索はよしておこう。

  授業の準備が不十分で、朝いち演習のハンドアウトを、大学に着いてから処理し、アップロード、印刷もした。3人に発表してもらったけれど、辞書ひいて調べましたレベルの、担当教授としては実に不満の残る内容。2年の演習だからと、易しくたのが失敗だった。2時限の講義へ行って、1時限目の教室に懐中時計を置き忘れてきたことに気づく。次の先生が使っておいでなので、教室にもどって講義を続ける。ひとしきり話した後、最前列の学生に、いま何時だ?と尋ねると、ちょうど終了時刻。体内時計が機能したか。では、今週はここまでと締めくくり、1時限の教室へ行くと、時計は情報機器のキャビネットの上に、置いたままの状態でありましたわい。

  出欠を入力し、次週の指示などを送信して、さて、昼飯は?と思案の果て、N坂をのぼって行くことにした。金曜ものぼったので、少し控えるべきかなと、頭に過ぎったけれど、よしゑやし、死んでやるの気分で「高七」へと向かう。空いていた。

  掻き揚げ付きを定食、いつもの仕様でお願いする。「いつも」とは、天つゆ塩不要で、大根おろしのみをいただき、サーヴィスの自家製ふりかけも不要、ご飯は仏様のお供えほど、おつけも少なめもしくは薄めていただく、というものである。もちろん、米の汁も、熱めのお風呂程度にしていただく。大学に勤めて、「高七」で米の汁をいただきながら、昼飯が食えることが、至福といふべからむよ。

  4時限の講義が始まる頃合いには、米の汁はすっかり覚めている。1本だから、そんなものだ。十二分にアルコール消毒がなって、教室へ。今日は、曾禰好忠の話の続きを喋った。その後、用を済ませると、もう真っ暗である。急いで帰ることにする。

  先週金曜に打ってもらったインフルエンザの予防注射の痕が腫れ上がって、痛みがある。ひどければ医者にかかれと注意書きをもらったが、人工的に病気に罹ったわけだから、仕方あるまいと、我慢した。かゆみが残っているけれど、だんだん治まってきた。

  帰宅したら、I 美術館から、内覧の招待が来ていた。私は別の約束があるから、荊妻に行ってもらうことにする。姑殿は義姉上と旅行に出掛けられるというので、「松の葉」を包んだ。

  松江の老母への長い長い手紙を、巻紙にしたためた。名乗りを書き、「母上様」と宛名を記す。老母はここのところ、耳が遠くなってきたので、電話では伝わらないことが多くなった。「高七」の大女将と同い歳ののはずなのだが・・・。さらぬ別れのなくもがな・・・と願いつつ、切手の裏をぺろりと舐めて、封筒に貼り付けましたわ。