史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

いわき Ⅲ

2013年12月08日 | 福島県
(立鉾鹿島神社)
 平第六小学校の近くにある立鉾鹿島神社には、昭和七年(1932)に建立された各藩戦没者の供養塔がある。


立鉾鹿島神社


為戊辰役各藩戦病歿者追福

(蔵福寺)
 鹿島町蔵福寺は少し小高い丘の上にある。急な坂を昇ると、墓地が広がる。その中に戦死した仙台藩士を供養するために、明治十五年(1882)に地元の人が発起人となって建立した供養塔がある。
 葬られているのは、慶応四年(1868)七月十日、磐城七本松にて戦死した仙台藩士五名という。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、七月十日に七本松にて戦死したのは、鎌田幸七、高橋幸之進の二名のみ。


蔵福寺


為戦死供養

(供養塔)


供養塔


仙台藩三名墓

 江名のV字路に建てられている供養塔は、言い伝えによれば、戊辰戦争の折、新政府軍に撃破された仙台藩兵の死体が付近の海岸に漂着したものをこの地に葬ったものという。左手の小さな墓石には、三名の法名が刻まれているが、被葬者の氏名は不明である。

(真福寺)


真福寺

 江名の真福寺の本堂前に長州藩の安田源左衛門の墓がある。


長藩 良城隊 安田源佐衛門藤原治壽墓


水子供養塔にて

 安田源左衛門は、良城隊所属。慶応四年(1868)七月二十五日、磐城磐前郡作戦中病死。三十九歳。

(浄光院)


浄光院

 本堂前の新しい墓地に中に柳河藩今村関之丞と十時仙之進の墓がある。
 今村関之丞、十時仙之進ともに慶応四年(1868)七月十三日、磐城平にて戦死。今村は三十一歳。十時は十七歳。


柳河藩 今村関之丞藤原泰孝墓


柳川藩 十時仙之進太神惟義墓

(二ツ橋古戦場)
 厳城氏小名浜の二ツ橋付近では、慶応四年(1868)六月二十九日にこの橋を挟んで新政府軍と仙台藩兵が対決し、仙台藩では三十二名の戦死者を出した。二ツ橋の東側には仙台藩士の慰霊碑や合葬墓などが集められた空間がある。


仙臺藩戦死者之碑


戊辰役戦歿者 仙臺藩士 為大内進冥福

 一人だけ立派な墓石に葬られているのは、仙台藩士大内進である。大内進は、慶応四年(1868)八月十一日、磐城駒ヶ嶺にて戦死。


戊辰役戦死者の碑

 二ツ橋の戦闘だけでなく、小名浜周辺まで広げると仙台藩士の戦死者は七十三名となる。身後の石碑は、戊辰戦争から百年目の昭和四十三年(1968)に建立されたものである。


三二 忠臣戦死墓

(子安観音堂)


子安観音堂


明治戊辰五月廿八日
北白川宮能久親王御遺蹟

 慶応四年(1868)、五月二十八日、平潟港から上陸した北白川宮能久親王は、休息ののち陸路北上していわき泉町玉露の子安観音堂にて宿泊した。


贈従五位松井秀簡墓

 松井兵馬は泉藩の松井平蔵秀茂の三男。代官、郡奉行などを務めた。慶応四年(1868)、奥羽越列藩同盟に反対し、藩論が佐幕に決したことに抗議して、六月二十二日、泉城外鹿島神社にて自刃。四十三歳。

 これで福島県の浜通りの史跡は一巡した。双葉町と浪江町にも戊辰戦争戦死者の墓や関連史跡があるが、原発事故の影響で現在立ち入りが禁止されている。私の命のある間に、この地域を訪問することができる日が来るだろうか。


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