史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

川越

2009年02月07日 | 埼玉県
(川越城跡)
 川越は「小江戸」とも別称され、江戸のころの町並みを見事に再現しており、まるで映画のセットのようである。土産物屋の店先を冷やかして歩くだけで十分楽しい。早速、川越城跡から訪ねることにする。江戸の町並みを維持・保存しようという努力と比して、川越城の現状はお寒い限りである。唯一残されている遺構が、藩主斉典時代に建てられた本丸御殿であるが、残念なことに平成二十三年までは改修工事中である。


川越城本丸御殿(武徳殿)

 富士見櫓のあった土台は残っているものの、城郭らしい石垣や堀があるわけでなく、これには少々がっかりである。幕末まで存続しておきながら、これほどまでに姿を変えてしまった城は、ほかには沼津の城くらいではないか。


川越城富士見櫓跡


川越城趾碑

 川越は要所と位置づけられていた。歴代の藩主には、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保といった有名な老中、大老格が名を連ねる。幕末の川越藩主は、松平大和守家である。ペリー来航時には浦賀の警護を務め、彦根藩とともに品川台場の警備を命じられるなど、幕府の信頼が厚かった。

 文久二年(1862)の遣欧使節団の副使に任じられた松平石見守康英は、当時棚倉藩主であったが、慶応三年(1867)正月、川越に転封されている。康英(のちに康直)は、神奈川奉行兼外国奉行、寺社奉行、老中と、重職を歴任した。欧州訪問時に撮影された写真が残っているが、涼やかでいかにも育ちの良さそうな顔立ちである。川越藩主を命じられると、本姓の松井姓に戻し、松井康英と称した。川越に何か足跡が残されていないかと思い、まず川越市立博物館で文献を漁ってみたが、康英が川越に居住した期間は短く、何もそれらしいものは見つけることはできなかった。

(喜多院)
 喜多院は、別名川越大師と呼ばれ、毎年多くの初詣客で賑わうらしい。寛永十五年(1638)の川越大火で、大半の建造物は焼失した。そのとき唯一焼け残ったのが山門である。


喜多院山門


喜多院多宝塔

 美しい姿を見せる喜多院の多宝塔も、寛永年間に建てられたもので、内部には阿弥陀如来がまつられている(非公開)。


故松平周防守寛隆公□塋碑

 喜多院、松平大和守家廟所の前に松平周防守寛隆公□塋碑という石碑を見つけた。松平周防守家というのは、ほかならぬ松井家のことである。残念ながら碑文はよく読みとれなかったが、ひょっとしたらここに康英のことも記されているのかもしれない。


松平大和守廟所(松平直侯の墓)

 喜多院の松平大和守家廟所には、松平家五代の墓がある。最も古いのが朝矩(とものり)、継いで直恒、直温(なおのぶ)、斉典(なりつね)、そして直侯(なおよし)である。
 松平直侯は、徳川斉昭の八男で安政元年(1854)川越藩を襲封した。英明闊達で、藩風の改革に着手し、文武を奨励した。将来を嘱望されていたが、病を得て家督を譲り、文久元年(1861)十二月に二十三歳の若さで没した。



喜多院斎霊殿

 喜多院斎霊殿には、広い墓地があり、古い墓石が並んでいる。幕末に関係したところでは、まず西川練造。清河八郎と親交の深かった尊攘派の志士である。


西川練造之墓

 西川練造は、文化四年(1807)川越小仙波村の医師の家に長男として生まれた。尊王攘夷活動に身を投じ、遂には妻子を離別し、医業の傍ら清河八郎らの志士たちと交わった。清河八郎は、駐日総領事ハリスの通訳ヒュースケンの暗殺の嫌疑、ついで酔いに乗じて一庶民を無礼討ちにしたことが重なり、幕吏に追われる身となった。清河は入間郡奥富村(現・狭山市)の西川練造宅に潜伏していたが、これが幕吏の探知するところとなり、急襲された。このとき西川練造と北有馬太郎(中村貞太郎)の二人が捕えられ、江戸伝馬町の獄に送られた。西川練造は病を得て、文久元年(1861)の十二月、獄死。四十五歳であった。西川の遺体は千住回向院に葬られたが、明治二十五年(1892)に喜多院に移された。墓碑銘は清河八郎の書いたものという。別れた妻の墓が隣り合って建てられている。


河越大夫小河原政甫之墓

 小河原家は、松平大和守家の執政(家老)の一族である。小河原政甫は、松平斉典に仕え、藩財政の立て直しに尽力するとともに、浦賀に黒船が来航した際には、海防警備のため出張した。松平大和守家が前橋に移封されると、小河原一族も川越を去っている。


高林謙三之墓
高林濵子之墓

 高林謙三は天保二年(1831)に生まれ、十六歳のとき父母のもとを辞して毛呂の権田直助の門に入り医業を学んだ。三年後、佐倉の順天堂に移って外科を修めた。川越で藩主松平大和守の侍医になったが、明治後は重要輸出品である茶の製造機械の発明に没頭した。明治十八年(1885)、遂に三種の製茶機械の発明に成功した。折しも専売特許法の施行にあたって、特許二号・三号・四号を獲得した。更に機械の改良を重ねたが、品質本位を自任する狭山茶業者は頑なに受け入れず、高林の存命中は採用されることはなかった。高林謙三は、明治三十四年(1901)、七十一歳で一生を閉じたが、高林式製茶機は広く利用されることになり、狭山茶の隆盛に寄与した。

(光西寺)


光西寺


松井家累代之墓

 光西寺には、松井家累代の墓があるが、康英はここには葬られていない。川越市立博物館で入手した「第三企画展 松平周防守と川越藩」によると、墓は谷中霊園にあるらしいが、墓石不明だという。時代のエリートにしてはあまりに哀れな末路である。

(蔵のある町並み)


時の鐘

 時の鐘は、川越のシンボル的な存在となっている。最初に作られたのは藩主酒井忠勝の頃(十七世紀前半)というが、その後大火で焼失し、藩主松平信綱のとき再建された。


蔵のある町並み

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2 コメント

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Unknown (吉盛と申します)
2020-12-09 09:30:31
楽しく拝読させて頂きありがとうございます。松平大和守家の松平直正さんと昵懇で川越も歩いた事があり懐かしく思い出されました。松平(松井)康直(康英)さんの墓は川越と聞いておりましたが不明なのですか!!
天徳寺に葬られたようですがてっきり川越に移葬されたものと思い込んでいました。
もし詳細が判明いたしましたら是非ご教示下さい。宜しくお願い致します。
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松平康英の墓 (植村)
2020-12-29 09:35:36
吉盛様

川越市立博物館刊の「松平周防守と川越藩」には、歴代松平周防家の戒名、菩提所の一覧が掲載されていますが、康英の項には戒名「恭徳院殿謙誉覚道翠山大居士」と記載があり、谷中墓地(墓石不明)とされています。二代から四代の墓は、京都長安院(金戒光明寺塔頭)五代以降十二代康泰(康英の父)までは天徳寺から川越光西寺に改葬されているようです。
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