史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「人間臨終図巻」 山田風太郎著 角川文庫

2015年10月30日 | 書評
古今東西、老若男女を問わず、職業も政治家、芸術家、作家から俳優、スポーツ選手、犯罪者に至るまで、様々な人間を対象として、臨終つまりどのように死を迎えたかを紹介した「天下の奇書」である。紹介されているのは約九百人におよび、その人の経歴や事績などの紹介よりも、徹底的に死の間際を描き出す。その姿勢はもはや偏執的といってもよいくらいである。作家、山田風太郎の「死」への執着を感じさせる一冊(正確には上中下三巻)となっている。
本書は十代で死んだ人を筆頭に、死亡した年齢順に臨終を紹介する。これを見ると、現在では有名な芸術家であっても、生前は作品が正当に評価されずに不遇のうちに亡くなった人が実に多いことに気付く。たとえば三十一歳で亡くなったシューベルト。短い生涯であったが、九百曲以上の作品を残した。この人の作品 ― 歌曲にしろ、ピアノ曲にしろ、管弦楽曲にしろ ― を聴けば聴くほど、天才としか形容のしようがない。歌曲集「冬の旅」の底知れぬ寂寥感。とても三十歳代の若者の作品とは思えない。最後のピアノ・ソナタ第21番。ドラマティックではない淡々とした曲でありながら、静かな感動を呼ぶ。合唱曲では「水の上の聖霊の歌」水の流れを視覚化して見事である。どうして同時代の人は、シューベルトの楽曲を聴いてその天才性を見抜けなかったのだろうか。

山田風太郎はいう。
――― もし自分の死ぬ年齢を知っていたら、大半の人間の生きようは一変するだろう。従って、社会の様相も一変するだろう。そして歴史そのものが一変するだろう。

幕末の頃、日本人の平均寿命は三十代半ばくらいであったと言われる。今でこそ日本は世界に冠たる長寿国となったが、平均寿命が五十歳に達したのは第二次世界大戦の前後のことだそうだ。動乱に身を投じた活動家たちだけでなく、一般庶民にとっても死は身近なものであった。この時代、人は実によく死んだのである。
だからこの時代の人たちは、常に死を意識しながら生きることになった。死を考えることは即ち如何に生きるかを考えることである。幕末の若者たちが輝きを放っているのは、生に対する執着の無さ、言い換えれば何かのためにあっさりと自分の命を投げ出す潔さを持っているからである。翻って現代の我々を顧みると、ほとんど日常において死を意識することが少ない。本当は道を歩いていていきなり自動車が突っ込んでくることだってあるかも知れないし、乗っている飛行機が墜落してしまう恐れだってある。現代人とはいえ死と隣合わせであるはずなのだが、敢えて考えたくないことは遠ざけて、我々は死を意識することがほとんどない。「如何に美しく生きるか」などと考えることもないのである。その結果、日本人は、世界的にみても情けないほど意地汚い人種に堕してしまった。オレオレ詐欺やマルチ商法、カード詐欺など、確かにあれはあれで(高度ではないにしろ)知能犯なのかも知れないが、全く崇高さが感じられない。これは平均寿命が伸びてしまったがための弊害ではないのか(そりゃ、幕末でも程度の低い犯罪者は存在したと思うが…)。日本人は幕末人の生き様を見て、もっと死を意識して生きるべきであると、最近つくづく思うのである。
約九百人に及ぶ死にざまを見ると、ほとんどの人は自分の死期を意外な形で迎え、「やり残したことがある」と悔しい想いをしながら死の床に就いている。お世話になった人や愛する家族に御礼と別れを告げ、苦しむことなく静かに死を迎えるのが理想であるが、現実はそう甘いものではない。やはりほとんどの人が病魔と戦い七転八倒しながら、ようやく終焉を迎える。今、生きている我々もピンピンコロリという理想的な死に方ができるとは思わない方が良かろう。
上・中・下の三巻にわたる分厚い書であるが、人の死を見て己の生を考えるにはこれ以上ない本である。

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