史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「維新風雲回顧録」 田中光顕著 河出文庫

2010年10月07日 | 書評
本書は、昭和三年(1928)に刊行され、その後、昭和四十三年(1968)、平成二年(1990)に再刊され、本年改めて河出文庫より刊行されたものである。田中光顕は、幕末維新の風雲を潜り抜け、昭和十四年(1939)まで長生した。司馬遼太郎先生に言わせれば「典型的な二流志士」であるが、長寿にかけては超一流と言えるだろう。田中光顕の強運は長寿だけではない。この人の現場運は全く奇跡的である。吉田東洋の暗殺実行犯であり天誅組の変で戦死した那須信吾を叔父に持ち、美作土居で命を散らした井原応輔とともに脱藩し、高杉晋作の下にいて奔走し、新選組の襲撃を間一髪で逃れ、中岡慎太郎の組織した陸援隊に参加し、坂本龍馬暗殺現場に事件直後に駆けつけた。これほどの履歴はほかに類を見ない。維新史において何か重要な役割を果たしたかと問われれば、確かにこれといった事績はないが、それでもこれだけの経験はほかの追随を許さない。本書では現場に居合わせないと分からないような証言もあり、まるで講談を聞いているように非常に面白い。
この本では天誅組の変の犠牲となった五条代官鈴木源内は「権威をふるい、重斂を行い、支配下の庶民は、いたく難渋していた」と一方的に悪者にされているが、一方で鈴木代官は善政を敷いて領民に慕われていたとも言われる。どちらが正しいのか判断する材料は持ち合わせないが、少なくとも頭からこの本の記述を鵜呑みにするのは慎重でありたい。
巻末のあとがきは、直孫の田中光季氏によるものである。それによれば、田中光顕は生前「墓地無用論」を語っていたという。つまり「日本の国土は狭い。それなのに一家がみんな一カ所ずつ墓地を作っていたのでは大変もったいない」「自分が死んだら、灰にして富士山の上から風に飛ばしてくれ」などと言っていたそうである。なかなか味のあることを言っているが、実は田中光顕は護国寺に大きな墓を建てている。光顕の遺志に反して建てられた可能性もあるが、いずれにしてもこの辺りが「二流」と分類される遠因かもしれない。
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