史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

北九州 小倉南

2016年06月11日 | 福岡県
(開善寺)
 開善寺は小倉南区湯川二丁目の坂の途中にある。その前の道をさらに進むと、山頂近くに開善寺の墓地がある。一見すると比較的新しい墓石が多いが、その中にあって一際古さが目につくのが小宮家の墓所である。なかなか分かりにくい場所にあるが、どういうわけだか一切迷うことなく直線的に行き着くことができた。


開善寺


小宮民部墓

 小宮民部は文政六年(1823)小倉藩士秋山衛士助光芳の二男に生まれ、のちに小宮親泰の養子となる。通称は民部のほか、又彦、小三郎、四郎左衛門とも。諱は親懐。天保十一年(1840)小宮家を相続し、嘉永六年(1853)家老に就いて藩財政の確立に尽くした。功により加増された。この頃、民部の名を賜った。慶応元年(1865)、藩主小笠原忠幹の死後、幼君豊千代丸を護り難局に当たった。長州再征の戦闘中、総督小笠原長行および応援の諸藩が小倉を去ったため、慶応二年(1866)八月、小倉城を焼いて藩庁を田川郡香春に移し、守備陣地を後方の天険に布いた。しかし、小倉城自焼の責を問われ、自刃した。年四十七。

(成就寺跡)
 小倉南区津田二丁目の住宅街の中に忽然と墓地が広がるが、かつてここには浄土宗護念寺の末寺成就寺があった。現在は墓地のみが残されている。ここに幕末の名手永(てなが)中村平左衛門の墓がある。


中村平左衛門維良墓

 中村平左衛門は豊前国菜園場村(現・北九州市小倉北区)に生まれた。文化五年(1808)、十六歳で企救郡勘定役(人馬方)に就任した。文政五年(1822)、小森手永(手永とは小倉藩における行政区画のこと)の大庄屋に任命された。継いで富野手永、津田手永の大庄屋に転じた。天保六年(1835)、旱魃に悩まされていた下曽根村(現・小倉南区)のために大池を造成した。その後、京都郡の延永、新津両手永の大庄屋に任命された。安政四年(1857)、高齢と病身を理由に大庄屋退任したが、その二年後、城野手永の大庄屋として異例の再登板をすることになった。文久元年(1861)、ようやく退任が認められ隠居生活に入った。慶応三年(1867)、七十七歳にて没。平左衛門は、文化八年(1811)から慶応二年(1866)まで五十六年にわたって日記を残した。幕末期の小倉藩の政治動向や社会の様相が描かれた貴重な資料となっている。
 中村平左衛門の墓の隣には、平左衛門の息でやはり藩政時代に手永を務めたほか、維新後は企救郡の初代郡長を勤めた津田維寧の墓もある(維新後、地名の津田に改姓)。

(蒲生八幡神社)


蒲生八幡神社


幸彦社

 蒲生八幡神社の境内社幸彦社は、国学者西田直養(なおかい)を祀るものである。
 西田直養は、寛政五年(1793)、小倉藩士の家に生まれた。文化十一年(1814)、白黒騒動では小姓役として使者を務め、天保十年(1839)以来、京都、大阪の留守居役となり、用人格まで昇った。安政元年(1854)蟄居を命じられると、藩の役職を退き、蟄居を解かれたあとも各地を巡って著述に勤しんだ。この時代の小倉藩を代表する国学者であり、「金石年表」「篠舎漫筆」「神璽考」など多くの著書を残した。慶応元年(1865)三月、七十三歳で亡くなって小倉の本立寺(現在、みやこ町豊津に移転)に葬られた。性洒脱、多芸多才で交友範囲も広く、野村望東尼らもその門を訪れた。没後、門人たちが計って蒲生神社内に幸彦社を建て、亡師を祀った。

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