(高城郷土資料館)
高城郷土資料館の建つ中世城址高城(月山日和城)は、南北朝時代の武将である肝付兼重による築城とされ、廃城となるまでの約二百八十年間、城主が度々変わり、都城盆地をめぐる争いの舞台となった場所である。都城島津家の中興の祖といわれる八代当主北郷忠相(ほんごうただすけ)が、晩年に居城としたことでも知られている。
郷土資料館は、いかにも天守閣風であるが、本来中世の城郭としては、このような建造物ではなかったであろう。
高城郷土資料館
郷土資料館の前には、西南戦争関係の石碑が多数建てられている。一番大きな石碑は、招魂塚である。高城郷から薩軍に従って戦死した二十六名の姓名、死亡年月日、戦死地が刻まれている。
招魂塚
右側の笠付きの四角柱二基は、招魂塚建立のために寄附を行った戦死者遺族二十一名および従軍者百六名の姓名を刻んだものである。
二基の石燈籠(これも佐多浦氏の寄進)にはさまれた、自然石の手水鉢には、高城郷内で従軍者を募り、参加した佐多浦三省の自伝が刻まれている。佐多浦は、熊本城、田原坂の激戦の後、木留で被弾し、日向病舎で治療を受けたことや、その後宮城監獄に収監され、明治十二年(1879)六月に赦免されたことが記されている。
西南戦争石碑群
聖上御統監之地
昭和十年(1935)、陸軍特別大演習時に、この場所が野外統監部となり、昭和天皇がここに立って演習を統監した。そのことを記念した石碑である。
(間ヶ塚(哀れが塚))
間ヶ塚(哀れが塚)
「日本の戦死塚」(室井康成著 角川ソフィア文庫)の巻末リストに都城市高城町穂満坊の哀れが塚が掲載されている。被葬者は「内山覚左衛門の妻子」という以外本書では分からないのだが、であれば現地で確認するしかないと思い定めて、穂満坊の哀れが塚を訪問した。塚らしきものは発見したが、雑草に被われていてとても奥深くに進入できる状態ではなかった。残念ながら墓石らしきものは発見できなかった。
(薩摩街道)
熊野神社
国道10号線を北上すると、有水地区に「東商店」と書かれた民家がある。その交差点で国道を横切るように東西に走っている道が、かつての薩摩街道である。
薩摩街道の由来
さつま街道 国見峠
さつま街道 さつま峠
熊野神社の前に「薩摩街道の由来」を解説した説明板が建てられている。
さつま街道は、藩内の要衝を結ぶ道として領域の拡張とともに、順次伸長してきた街道である。軍事上の目的以外に、藩主の参勤交代や経済社会の発達に伴う、人や物資の輸送道、さらに地方との連絡道として重要な使命を追っていた。
文久二年(1862)、生麦事件を起こし、イギリス相手に一戦を覚悟した島津久光は、この街道を通って飛ぶように帰国した。
西南戦争では、谷村計介の父が、鹿児島県庁へ出かける途中にこの峠で殺害されている。
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