史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

甲賀 Ⅰ

2020年02月22日 | 滋賀県

(真徳寺)

 

真徳寺

 

表門

 

 真徳寺の表門は、もと水口城内に所在した家老屋敷の長屋門だったものである。石高八〇~六〇石程度の中士の格式を表すもので、一部に改造が見られるものの、旧城下に残る数少ない遺構となっている。

 

(水口城)

 水口(みなくち)城は、寛永十一年(1634)、将軍徳川家光が上洛するのに伴い、宿館として築城されたものである。工事は小堀遠州ら作事奉行のもと、幕府直営で行われた。構造は平城で、堀に囲まれた本丸とその北側の二の丸から成る。本丸殿舎の建物構成は京都の二条城の類似している。堀には注水坑がないことから、別名碧水城と呼ばれる。

 家光上洛以後、番城として幕府の管理下に行かれ、天和二年(1682)に加藤明友が入封して水口藩が成立し、その居城となった。

 王政復古後、公卿邸の警衛を命じられ、反幕的気運の中で維新を迎えた。

 

史跡 水口城跡

 

 維新後、廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸の敷地のみは保存された。現在は水口高校のグラウンドが広がっている。平成三年(1991)、出丸に矢倉が復元され、水口城資料館として開館した。

 

水口城

 

(蓮華寺)

 蓮華寺には水口城の客殿玄関が移築されている。

 

蓮華寺

 

水口城御殿玄関

 

(大岡寺)

 

大岡寺

 

栗園中邨先生壽蔵碑

 

 中村栗園は、文化三年(1806)の生まれ、父は中津藩画員片山東籬。初め帆足万里について学び、ついで亀井昭陽の門に入った。弘化初年、篠崎小竹の推薦によって水口藩の儒員となり、藩儒中村介石の養子となった。藩校において学を講ずるも、腐儒たるに甘んぜず、時務を論じ志士と交わった。米艦来航後は、藩論沸騰したが、藩主は栗園を抜擢して政治に参与せしめたので、水口藩は幕末維新に際し藩論統一して向途を誤らなかった。明治元年(1868)、藩主加藤明実に召されて上京するや、率先東征の議を主張し、岩倉具視に頼って意見を大総督府に献言した。明治二年(1869)、版籍奉還によって明実が知藩事となると、大参事として藩政の改革を助けたが、翌年老を理由に致仕、自適に生活に入った。明治十四年(1881)、年七十六で没。

 

確堂中村先生之碑

 

 中村鼎五は天保三年(1832)の生まれ。確堂は雅号。十五歳で中村家に入り、十七歳で養父栗園に代わって学校および藩庁で書を講じた。同志の城多董、豊田謙次と往来し、栗園の命により天下の形勢を探り、藩内俗論党の巨魁を斬らしめた。また「靖康伝信録」を校訂翻刻して尊王教育に努めた。征長の役あるいは戊辰戦役では常に先鋒で活躍した。明治二年(1869)六月、藩制改正に当たり、学校督学となり、明治六年(1873)、太政官正院(修史館)に奉職した。明治十二年(1879)以来、埼玉県、滋賀県の学校にて教鞭をとり、明治十九年(1886)、京都に寓居した。明治三十年(1897)、年六十六で没。

 

従三位巖谷君之碑

 

 この碑は、水口出身で明治時代を代表する諸家、巖谷一六の業績を称えて、明治四十四年(1911)に建てられたものである。

 撰文は漢学者三島中洲、揮毫は一六とともに近代書道の確立に邁進した日下部鳴鶴、題額は一六らに大きな影響を与えた清国の金石学者楊守敬の手になる。

 

 

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