(西念寺)
西念寺
西念寺は、かつて中京区六角裏寺町にあったが、西京区御陵大枝山の新興住宅街に移転している。移転に伴って古い墓石もこの地に移された。中村武生著「池田屋事件の研究」(講談社現代新書)によれば、西念寺は西川耕蔵の菩提寺であるが、長らく忘れられていた。一族の西川太治郎(近江新報社社長、のち大津市長)が、明治三十八年(1905)にこの寺の存在を知り、妻と母の墓の横に西川耕蔵の墓を建てたものである。
贈従五位西川耕蔵直純之墓
山門をくぐって右手の小さな地蔵堂の中に西川耕蔵(および夫人)の古い墓石が残されているが、墓地には建て替えられた新しい墓が置かれている。
(旧)西川耕蔵墓
右手の墓は、「久下氏墓」と刻まれているが、安政六年(1859)に六十九歳で亡くなった西川耕蔵の老母久下静のもの。左手の墓石「巽氏之墓」とあるのは、安政五年(1858)に死んだ西川耕蔵の妻、巽愛(享年三十)のものである。
西川耕蔵は、文政六年(1823)京都の書肆の家に生まれた。勤王の志固く、梅田雲浜の塾生となってその感化を受けた。安政五年(1858)、雲浜が大獄に連座して捕えられると、幕吏の追求を受けて、逃走、各地に潜伏した。元治元年(1864)の池田屋事件直後、新選組に捕えられ、六角の獄舎に留置された後、斬殺された。享年四十三。
西念寺
西念寺は、かつて中京区六角裏寺町にあったが、西京区御陵大枝山の新興住宅街に移転している。移転に伴って古い墓石もこの地に移された。中村武生著「池田屋事件の研究」(講談社現代新書)によれば、西念寺は西川耕蔵の菩提寺であるが、長らく忘れられていた。一族の西川太治郎(近江新報社社長、のち大津市長)が、明治三十八年(1905)にこの寺の存在を知り、妻と母の墓の横に西川耕蔵の墓を建てたものである。
贈従五位西川耕蔵直純之墓
山門をくぐって右手の小さな地蔵堂の中に西川耕蔵(および夫人)の古い墓石が残されているが、墓地には建て替えられた新しい墓が置かれている。
(旧)西川耕蔵墓
右手の墓は、「久下氏墓」と刻まれているが、安政六年(1859)に六十九歳で亡くなった西川耕蔵の老母久下静のもの。左手の墓石「巽氏之墓」とあるのは、安政五年(1858)に死んだ西川耕蔵の妻、巽愛(享年三十)のものである。
西川耕蔵は、文政六年(1823)京都の書肆の家に生まれた。勤王の志固く、梅田雲浜の塾生となってその感化を受けた。安政五年(1858)、雲浜が大獄に連座して捕えられると、幕吏の追求を受けて、逃走、各地に潜伏した。元治元年(1864)の池田屋事件直後、新選組に捕えられ、六角の獄舎に留置された後、斬殺された。享年四十三。
情報提供有り難うございます。
ところで本圀寺墓所というのは、山科の本圀寺にあるのでしょうか。
このブログに存在を始めて知りました。
本圀寺墓所についてはこの後情報は有りませんでしょうか。
小生、西川太治郎のひ孫です。
西念寺には年一参内しています。
当ブログをご訪問いただき有り難うございます。
山科に移転した本圀寺へは何度か足を運んでいますが、そこに西川家ゆかりの人の墓は見つけられていません。境内にある墓地は本圀寺には似合わないほど小規模なもので、境外に墓地が集約されているのかもしれませんが、私には今のところよく分かりません。お役に立てず、申し訳ありません。何か情報がありましたら教えてください。
ご返信ありがとうございます。
当家は耕蔵とは直系ではなく、親戚筋です。太治郎が調べた系図、諸資料を読んではいますが、今一つ関係を明確に読み取ることが出来ていません。
現在の当家の墓は明治40年の太治郎が大津市内に建立し耕蔵も入魂されていますが、それ以前のものも長浜市南浜町に残っています。耕蔵もこの付近の出であることは間違いないと思います。
また、何か判ればご教示下さい。
何卒、宜しくお願い申し上げます。
貴重な情報有り難うございます。いつか長浜の南浜町を訪ねてみたいと思います。