史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

ロンドン Ⅲ

2015年09月06日 | 海外

今回、七年振りにロンドン出張の機会を得た。前回は到着の日の夜と出発の日の早朝しか史跡探訪の時間はなかったが、今回はロンドンに四泊したので、かなり時間が取れた。時差を修正しきれずに、毎日、目覚まし時計がなくても早朝に目が覚めてしまうので、日の出から朝食までの数時間、精力的に史跡を訪ねることができた。毎日、早朝活動して、何食わぬ顔をして戻って、朝食を上司とともにとった。
今回、短期間ながらロンドンに滞在して痛感したのが、ロンドンの物価の高さである。恐らくポンド・ベースではさほど物価が上昇しているわけではないだろうが、この七年の間に円は俄然弱くなった。羽田空港で両替したところ、一ポンド二百円を超える為替であった。正確に覚えていないが、七年前は百三十円か百四十円くらいだったのではないだろうか。ホテルの朝食が四十ポンドと聞いて魂消てしまった。とてもそんな高価な朝飯には手が出ない。毎日、ホテル近所のレストランで朝食セットを取ったが、それでも十ポンド以上はした。

(ヴィクトリア駅)
ヴィクトリア駅は、かつてここから様々な豪華列車が発着した、ロンドンを代表する駅の一つである。現在もドーヴァーやカンタベリーなどへの列車がここから出ている。


ヴィクトリア駅

 明治四年(1871)の岩倉使節団も、パークスらの案内でヴィクトリア駅を起点として、汽車に乗ってブライトンやポーツマス、サウザンプトン、ウィンザーなどを訪れている。

(聖メアリー病院)


聖メアリー病院

 文久二年(1862)四月十四日、遣欧使節の一員福沢諭吉らはチェンバーズ博士(詳細不明)とともに聖メアリー病院を訪れている。この病院は1845年に創設されたもので、今もパディントン駅近くに現存している。福沢は帰りに博士の家でお茶を御馳走になっている。
 聖メアリー病院は、見るからに歴史を感じる重厚な建物である。壁にこの二階でフレミング博士がペニシリンを発見したと記載されたプレートが付されている。

(ハイド・パーク)
1851年にハイド・パークにて万国博覧会が開かれ、大変な評判を呼んだ。これを受けて、ケンジントン(現在の自然史博物館、科学博物館のある辺り)に常設博覧館が1856年に創立された。岩倉使節団一行もケンジントンの博覧館を観覧している。


ハイドパーク

(大英博物館)


大英博物館 日本の展示


ミイラ

前回出張時に大英博物館を訪ねたのは夜中だったので、ほとんどその展示を見て回ることはできなかったが、今回は駆け足であったが鑑賞することができた。
とても短時間で見切れるものではない。想像を絶する規模の博物館であるが、入場無料というのに二度驚かされる。


有名なロゼッタ・ストーン

 文久二年(1862)の遣欧使節団も竹内下野守、松平岩見守、京極能登守の三使以下で四月二十四日、大英博物館を訪れている。市川渡るは「また数個の人腊(じんせき=人体の意)あり。布を以って全体を包裹せし(つつんでいるの意)故にその肢肉を諦観する能わざれども、世俗の所謂木乃伊(みいら)は蓋しこの類ならん」とエジプト・ギャラリーでミイラを見たときの印象を書き留めている。
 明治四年(1871)八月二十五日、この日は雨だったようであるが、岩倉使節団も大英博物館を訪れている。久米邦武は博物館の教育的意義を書き留めている。

(ロンドン大学)
前回も訪問したロンドン大学の薩長の留学生の記念碑を今回も訪ねた。碑は同じ場所に建っていたが、中にはカフェのような建物が新設されており、何だか石碑が肩身の狭そうな感じになっていた。


日本の先駆者たちの記念碑

 この記念碑は、平成五年(1993)日英友好協会と日英文化記念クラブおよびその他有志の寄付によって建立されたもので、時の駐英日本大使北村汎氏によって序幕されたものである。

(ロンドン動物園)


ヂラフ

 動物園が史跡というのも不思議な感じもするが、実は文久二年(1862)の幕府遣欧使節団も、明治四年(1871)の岩倉使節団もリージェント公園内のロンドン動物園を訪れている。久米邦武は「ヂョーロチ・ガーデン」禽獣園を詳細に報告している。因みに我が国初の動物園が東京上野に開園したのは、明治十五年(1882)のことである。
 ロンドンの動物園は、1828年に貴族のスタンフルラッセル、ハンフリーデビー、オークランドらの発意にて、貴族が資金を出し合って開園したもので、上野動物園の半世紀も前のことになる。

 「米欧回覧実記」に「ヂラフ」は〈長頸の大鹿〉と紹介されている。「首を翹(あ)ぐれば、屋宇を狭し」と描かれる。


カンクロウ

 カンガルーのことは「カンクロウ」と表現されている。〈肚に袋ある獣〉である。「脚を曲げ尾を跕(ちょう)として飛越す」とされるが、現実のカンガルーは軽快に飛び跳ねるより、獣舎で寝ころんでほとんど動かなかった。


ラクダ

(ロンドン塔)
 明治四年(1871)八月十六日、パークスとアレクサンドル氏の案内で使節団一行はロンドン塔やポストオフィス(郵便局)を見学している。やはり久米邦武はこのときの見聞を刻銘に記録している。


ロンドン・タワー

 久米邦武の記録によれば、ロンドン塔(タワー・オブ・ロンドン)は、ノルマンディー家の祖ウィリアム征服王の創築した城で、その後の歴代イギリス王はここに居住した。宮廷としてよりも、牢獄、拷問、処刑の場としての歴史を重ねて来た。
――― 周囲は樹木葱然たり。門に入り進行すれば、石垣牢固にして鉄関を施す。時に幽暗の処をすく、人をして意思竦然たらしむ。古時、囚牢の跡あり。昔時英王が婦人を斬戮せる跡あり。城に入れば、壁内に二王子を殺して屍を隠せし所あり。その他、古来淫虐惨暴を行いし跡多く、今にしてその蹟をみても、なお人の毛髪を立てしむ。(「米欧回覧実記」より 一部現代仮名に書き直し)

 処刑された二王子とは、エドワード五世(当時十三歳)とその弟リチャードのことである。

(タワー・ブリッジ)
 タワー・ブリッジは、1894年の完成というから、文久二年(1862)の幕府遣欧使節団も明治四年(1871)の岩倉使節団も、この付近にあったドックを訪れているが、この橋は見ていない。


タワーブリッジ

(セント・ポール大聖堂)
前回の出張時、そして今回も、二度までセント・ポール大聖堂を訪ねたが、いずれも拝観時間外であった。日を改めて三度目の正直で、ようやく拝観することができた。拝観には入場料十八ポンドを支払わなくてはいけない。券を売る女性から「閉館まで十五分しかない。全部を見るには一時間半はかかるけど良いのか」と確認されたが、私には十五分あれば十分であった。しかし、彼女は「こちらはそれでも十八ポンド払うのかと確認しているのだから、文句を言われても困る」とブツブツ言っていた。


セント・ポール大聖堂

セント・ポール大聖堂の地下は有名人の墓や顕彰碑などが数多く並べられている。中にはウェリントン将軍やネルソン提督といった歴史に名を残した著名人の墓もある。私の目当てはパークスの記念碑である。無数の墓碑や記念碑の中からパークスのものを探し当てるのは容易ではない。時間の限られた中で、暗い回廊の中にパークスの記念碑を発見したときは、大いに感動した。


パークスの記念碑

(税関)
 明治四年(1871)、岩倉使節団は税関を見学している。久米邦武の「米欧回覧実記」に「コストンハウス(運上所)」と記録されているのがそれである。ただし、当時と現在の建物が同じものか、同じ場所に立地しているのかは不明。ただ「米欧回覧実記」に残っているイラストを見る限り、現在の税関所とそっくりであるから、間違いないと思う。


税関

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