史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

田原

2009年11月28日 | 愛知県
(田原城趾)


田原城大手門

 豊橋鉄道渥美線に揺られて三十五分ほどで終着の三河田原に到着する。始発である新豊橋駅を出たときには、そこそこ乗客で埋まっていたが、最初の三つ目の駅まででほとんどの客は降りてしまって、そのあとの車内は閑散としていた。三河田原駅で無料レンタサイクルを借りて、市内の史跡散策を開始する。田原は小藩ながら、渡辺崋山という優れた先覚者を生んだ土地である。


二ノ丸櫓

 田原藩の石高は一万二千石。江戸初期は戸田氏、その後、寛文四年(1664)に三宅康勝が移封されると、三宅氏が廃藩置県まで十二代にわたり藩主を務めた。十一代康直は、文政十一年(1828)に藩主の座に就くと、藩政改革に着手した。康直は積極的に人材を登用したが、なかでも渡辺崋山を重用し、財政再建、農政改革、山積する難問の解決に尽くした。康直は嘉永三年(1850)に家督を康保に譲るが、明治二十六年(1893)まで長命している。享年八十三であった。幕末の難局にあたった十ニ代藩主康保は、戊辰戦争勃発時、江戸の藩邸にあって徹底抗戦を主張したが、藩士の説得を受けて官軍に恭順することになった。国許にあって崋山の次男、家老渡辺諧(かのう)が藩論を勤王に統一し、東海道鎮撫総督橋本実簗に帰順を表した。


田原市博物館

 田原城趾には、大手門や二ノ丸櫓などが再建されている。田原市博物館には、渡辺崋山を始めとして、田能村竹田、谷文晁、酒井抱一ら著名な画家の作品が並ぶ。地方の博物館と思えないほど充実している。

(市立田原中部小学校)


市立田原中部小学校

 田原城大手門前にある田原中部小学校は、藩校成章館跡に当たる。成章館が設立されたのは、文化七年(1810)九代藩主三宅康和のときである。

 写真では分かりづらいが、田原中部小学校の校舎の前には、十ニ歳の渡辺崋山をモデルとした「立志像」が置かれている。小学校にある像といえば、薪を背負って本を読む二宮尊徳と相場が決まっているが、さすがに田原では崋山がとってかわっている。渡辺崋山が十ニ歳のとき江戸日本橋にて備前候の行列に触れて、衆人の前で辱めを受けたときの図である。このとき崋山は王侯に屈しない人間になることを心に誓ったという。


藩校 成章館跡

(崋山神社)


崋山神社

 昭和四十一年(1966)に造営された崋山神社は、田原城趾に隣接している。いうまでもなく渡辺崋山を祭神とした神社である。渡辺崋山は寛政五年(1793)江戸の田原藩邸で生まれた。崋山は号で、通称は渡辺登といった。鷹見星皐、佐藤一斎、松崎慊堂といった著名な学者に入門するとともに、金子金陵、谷文晁といった一流の画家のもとで絵を学んだ。天保八年(1837)に描いた「鷹見泉石像」は、崋山のというより、我が国肖像画の頂点をなす作品である。現在、国宝に指定されている。
 崋山が家老になったのは四十歳のときである。崋山は報民倉の設置、藩校成章館の充実、人材の登用など、藩政改革に尽力した。その一方で、高野長英、小関三英ら、時代を代表する蘭学者と交わり、幕府の鎖国政策を批判した。このことが幕府の忌諱に触れ、天保十年(1839)、捕えられて北町奉行の揚屋に投獄された(蛮社の獄)。続いて在所田原における蟄居を命じられた。その二年後、累が藩侯に及ぶことを恐れて、幽居で自ら命を絶った。四十九歳。


渡辺崋山の碑

(報民倉跡)


報民倉跡

 報民倉というのは、領民の飢餓対策に天保六年(1835)に崋山の建言を受けて設けられた穀倉である。田原藩は、直後に大飢饉に襲われたが、報民倉のおかげで一人の餓死者も出さなかったという。

(池ノ原公園)


渡辺崋山像

 池ノ原公園には、渡辺崋山が蟄居を命じられて幽居生活を送った住居が再現されている。崋山は天保九年(1838)「慎機論」を著し、外国船撃ち払いの非を説いた。このことで幕府に在所田原蟄居を命じられた。池ノ原は天保十一年(1840)から翌年十月の自刃まで、崋山が幽居生活を送った地である。崋山は、ここで日々論語、易経を読み、絵を描き畑を耕す毎日を送った。
 画弟子福田半香らは、崋山の絵を売って恩師の生計を救おうとしたが、このことで藩内外の批判が高まった。藩主にまで災いの及ぶことを恐れた崋山は、この屋敷で自刃した。


渡辺崋山池ノ原幽居跡


崋山先生玉碎之趾

 池ノ原公園には東郷平八郎の書で、「崋山先生玉碎之趾」碑が建てられている。

(霊巌寺)


霊巌寺

 霊巌寺は、田原藩主三宅氏の菩提寺である。墓地奥にある三宅家の墓所には、徳川家康に仕え三河挙母城主となった初代三宅康貞のほか、田原藩主に移封された康勝(四代)、渡辺崋山を登用して藩政改革に取り組んだ十四代康直、最後の田原藩主となった十五代康保らの墓がある。


田原藩主三宅家墓所


十四代康直(左)
十五代康保(右)の墓

 三宅家墓所の入口付近に小さな二体の地蔵が置かれている。十三代藩主三宅康明の弟三宅友信の三男、貞三郎は藩士の娘於阿佐と深い仲となり、このことが藩主の怒りを買って切腹を命じられたという。於阿佐も自害を迫られた。せめて子供を産ませて欲しいと嘆願したが、容れられず首を刎ねられた。二人を哀れと思った人が、墓のそばに一対の地蔵を建てたが、不思議なことにこの地蔵の首は何度付け替えても落ちてしまうため、いつしか人々は首なし地蔵と呼ぶようになったという。と、解説されていたが、私が確認した限りしっかり首は繋がっているように見えた。


首なし地蔵


忠臣真木定前墓

 真木重郎兵衛定前(さだちか)は、藩の用人として、天保の飢饉では必死の働きをもって餓死者、流亡者を一人も出さずに切り抜けた。
 十四代藩主康直は、姫路藩から迎え入れられた。三宅家の血統が絶えることを懸念した家老渡辺崋山は先代藩主の弟友信を推したが、財政難に苦しむ田原藩では持参金目当てに養子を迎えることに決した。このとき友信の長男(のちの康保)を次代藩主にすることが誓約されたが、崋山亡きあと、康直はこの約束を反故にして実子に家督を継がせようとした。これに対して真木定前は敢然と諫言したため、次第に君前から遠ざけられるようになった。弘化元年(1844)、参勤交替の途中、金谷宿にて諌死した。四十八歳。この報を受け取った康直は、自らの不明から忠臣を失ったことを深く悔い、康保を後継とすることを決し、自ら「忠臣真木定前墓」の碑銘を書いて三宅家菩提寺である霊巌寺に墓を建てたという。

(城宝寺)


城宝寺


崋山先生渡辺君之墓

 三河田原駅のすぐそばにある城宝寺には、渡辺崋山の墓がある。中央が崋山の墓、向かって左が夫人たか、右は母おゑいの墓である。
さらに左手には崋山の次男、小華の墓がある。小華は、諱は諧(かのう)。父崋山が自刃したとき、わずかに七歳であった。十三歳のとき、崋山門下の椿椿山のもとで絵画を学んだ。元治元年(1864)に田原藩家老に任じられ、戊辰戦争にあたっては藩論を勤王に統一した。


小華渡辺先生之墓


渡辺崋山句碑
見よや春大地も亨す地虫さへ

 レンタサイクルを駅に返却したのは、ちょうど借りてから一時間後であった。慌ただしかったが、充実した一時間であった。

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 岡崎 Ⅱ | トップ | 汐留 Ⅱ »

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (shin666)
2009-11-30 10:07:57
こんにちは。

いつも充実した史跡巡り
感服致します。
私も渡辺崋山という人物に
大変興味があり
一昨年、田原を訪問しました。
管理人さん仰せの通り
私も田原城周辺は地方の博物館とは
思えない充実ぶりで驚いた次第です。

また城宝寺内部の崋山の位牌堂の
天井は崋山ゆかりの画家達が描いた
絵により、彩られ大変感動したのを
思い出しました。

話は変わりますが…
管理人様は漫画を
読みますでしょうか?
みなもと太郎作『風雲児たち』という
漫画は大変おすすめです。
幕末を書く為に関が原からより
書いているという
大変スケールの大きい漫画であり
現在約20年以上連載が
続いております。
私はこの漫画で幕末黎明期の人物
江川太郎左衛門、渡辺崋山
高野長英等の真実を知り
大変感動を致しました。

もし宜しければ、ネット等で評判を
確かめてみるのも良いかもしれません。


それでは失礼致します。
返信する
Unknown (鳴門舟)
2009-12-01 06:44:02
 横から失礼します。
「風雲児たち」は幕末ファンの間では相当読まれているようで、私も勧められた事があります。
 おまりに大作らしくて、私はまだ手が出せていませんが。
返信する
Unknown (植村)
2009-12-01 23:21:25
shin666様
鳴門舟様

コメント有り難うございます。
残念ながら、私は全然漫画を読まないもので、ご推薦のあった「風雲児たち」という作品もまったく存じ上げませんでした(娘は漫画に夢中ですが…)。
今度、本屋に行ったとき探してみます。
返信する

コメントを投稿

愛知県」カテゴリの最新記事