(伊藤常足旧宅)
伊藤常足翁旧宅
伊藤常足は、鞍手郡古門村(現・鞍手町古門)の古物神社の神官を代々務める家に生まれた。現在残る旧宅も、古物神社の参道から入ることになる。常足は、亀井南瞑に儒学を、青柳種信に国学を学んだ。常足の最大の学問的業績は筑前国の地誌である「太宰管内志」全八十二巻の編纂である。三十八年という気の遠くなるような年月をかけて、天保十二年(1841)、六十八歳の時、これを完成させ、福岡藩主黒田長溥に献上している。その他にも多くの著書、評論、和歌集、日記などを残した。安政五年(1858)、年八十五にて病没。
伊藤常足翁顕彰碑
この旧宅は天明六年(1786)に建てられたもので、伊藤常足は十三歳の頃から起居していたと伝えられる。伊藤家資料や古図面に基づいて推定復元されたもので、平成元年(1989)から翌年にかけて「ふるさと創生事業」の一つとして修理復元されたものである。
旧宅内
常足は五十七歳のとき、桜井神社の神庫学館の創立に関わり、その後教授として「日本書記」などを教えた。また、下関、黒崎、底井野、植木、芦屋などで和歌を指導し、多勢の門人を育て、執筆や講義を続ける学究の生涯を全うした。
伊藤常足翁旧宅
伊藤常足は、鞍手郡古門村(現・鞍手町古門)の古物神社の神官を代々務める家に生まれた。現在残る旧宅も、古物神社の参道から入ることになる。常足は、亀井南瞑に儒学を、青柳種信に国学を学んだ。常足の最大の学問的業績は筑前国の地誌である「太宰管内志」全八十二巻の編纂である。三十八年という気の遠くなるような年月をかけて、天保十二年(1841)、六十八歳の時、これを完成させ、福岡藩主黒田長溥に献上している。その他にも多くの著書、評論、和歌集、日記などを残した。安政五年(1858)、年八十五にて病没。
伊藤常足翁顕彰碑
この旧宅は天明六年(1786)に建てられたもので、伊藤常足は十三歳の頃から起居していたと伝えられる。伊藤家資料や古図面に基づいて推定復元されたもので、平成元年(1989)から翌年にかけて「ふるさと創生事業」の一つとして修理復元されたものである。
旧宅内
常足は五十七歳のとき、桜井神社の神庫学館の創立に関わり、その後教授として「日本書記」などを教えた。また、下関、黒崎、底井野、植木、芦屋などで和歌を指導し、多勢の門人を育て、執筆や講義を続ける学究の生涯を全うした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます