(真野新町)
今回の佐渡の旅の一番の目的が真野新町の司馬凌海生家跡を訪ねることにあった。JA真野を目指せばすぐに発見できると高を括っていたが、なかなか見つけられない。市役所真野支局まで行って教えてもらい、ようやくたどり着くことができた。実際に生家があった場所は、JA真野の北側、今は道路になっている。
司馬凌海先生生家跡
司馬凌海は、天保十年(1839)にこの地に生まれた。幼名は伊之助(または亥之助)といった。姓の島倉の音から司馬と称した。通称は凌海。名は盈之(みつゆき)。十二歳で江戸に出て松本良輔、佐藤泰然について蘭医学を学び、のちに長崎に出てオランダ医師ポンペについた。語学の天才と言われ、六ヶ国語に通じた。維新後、ドイツ語の私塾「春風社」を開いた。我が国初の日独辞典「和訳独逸辞典」を出版したことでも知られる。明治十二年(1879)神奈川県戸塚にて死去。享年三十九。
以上の履歴を読んでも面白くも何ともないが、この人物が、司馬先生の小説「胡蝶の夢」に副主役として登場する。恐らく現代の精神科医に診断させれば、アスペルガー症候群もしくは発達障害という病名がつくであろう。歴史の波間に一種の奇人が紛れ込み、周囲の著名人を巻き込んで混乱させる様子が実に面白い。
山本邸
「胡蝶の夢」では、司馬凌海の生家のとなりに山本家があるという設定になっているが、実際には斜め向かいである。今も表札は「山本半右衛門」となっている。この家からは郷土史家の山本修之助、修巳(当主)のほか、実業家からのちに政治家に転じ、昭和初年に農林大臣を務めた山本悌ニ郎、戦前外務大臣を務めた有田八郎が出ている。
(真野小学校)
真野小学校の校舎傍らに司馬凌海の顕彰碑が建てられている。篆額は山県有朋、撰文石黒忠悳、山本半蔵の書。明治三十九年(1906)に建立されたものである。
司馬凌海顕彰碑
(佐渡奉行所跡)
佐渡奉行所跡
司馬遼太郎先生の「街道をゆく~佐渡のみち」では、佐渡奉行所について「建物はなに一つ残っておらず、学校の運動場のようにそっけない」と記録している。佐渡奉行所は昭和十七年(1942)に全焼したが、平成十二年(2000)に復原再建された。因みに司馬先生がこの地を訪れたのは昭和五十年代のことであった。
勝場(せりば)というのは、鉱石を粉砕して比重によって金銀分を分離採取する、いわゆる比重選鉱の工程である。
勝場(せりば)
佐渡は金を産出したため奉行所を置いて管理する天領であった。奉行所は、地方役、町方役、書役といった民政や財務を担当する部署のほか、山方役、筋金所役といった金山を管理する佐渡奉行所特有の組織を備えていた。公事方や御裁許所といった、現代でいうと裁判所的な機能も有していたので、奉行所内には白州もあった。
御白洲
天保十一年(1840)、幕末の名官吏川路聖謨が佐渡奉行として赴任している。川路の佐渡在勤は一年足らずの期間であったが、その間「佐渡奉行在勤日記」を残している。
幕末の佐渡奉行は、鈴木重嶺(しげみね)である。世情不安定な時期に佐渡を治められるのは彼をおいてほかはないと、勝海舟が推薦したという。慶応四年(1868)維新により免官となったが、相川県参事に任命され明治九年(1876)に新潟県に合併されて廃県となるまで在職した。鈴木は和歌・国学に秀いで、県参事時代に清楽社を結成して活発な作歌活動を行った。明治三十六歌仙の一人に数えられる。
北沢地区施設群
佐渡金山は、大立地区、高任地区(道遊の割戸がある)、間ノ山地区、北沢地区に製錬・選鉱施設が建設された。佐渡奉行所の駐車場から北沢地区の施設群を見下ろすことができる。奥に見えるのは五十㍍シックナ―、手前のレンガ造りの建物は発電所跡である。向かい合って立っている新しい建物は、相川技能伝承館。北沢地区の工場は、昭和二十七年(1952)まで稼働していた。
(佐渡金山)
道遊の割戸
佐渡奉行所から佐渡金山に向かう途中、「道遊の割戸」を遠望することができる。「道遊の割戸」は、佐渡金山発見の端緒となった主要鉱脈道遊脈の露頭堀跡である。山頂を真っ二つに割った採掘跡は佐渡金山の象徴となっている。道遊の割戸のことを司馬先生は酷評している。「ながめていて気持ちのいいものではない」「自分が無宿人ででもあるかのように、しかもこれら異様な空間の中に立たされているような思いに襲われる」。確かに不気味な造形ではあるが、長い時間をかけた人間の営みの結果だと思うと神々しくもある。
佐渡金山 宗太夫坑
佐渡金山 地下排水作業
佐渡金山は、観覧料を払って坑内に入ることができる。江戸時代に採掘された宗太夫坑コース、明治に入って近代的な方法によって掘進された道遊坑コース、いずれも大人八百円、小中学生四百円である。両コースを見学する場合は、千二百円と割引きが適用される。
宗太夫坑内の展示は、ある意味では予想とおりというか、日本人が鉱山と聞けば連想するような、「暗い」「汚い」「キツイ」さらに「危険」、すなわち4Kを忠実に再現している。実際に佐渡金山に連行されて強制労働をさせられた無宿人は、数年で珪肺になって死んだという。
――― 四十をこえたるはなく、多く三年、五年のうちに肉おち、骨かれて、頻りに咳出て、煤のごときもの吐きて死する(川路聖謨「島根のすさみ」)
無宿人というのは、江戸時代独自の存在である。人別帳から抜かれて、無戸籍者となって江戸や大坂といった都市に流入した人たちのことである。坑内に置かれた説明によれば、江戸時代に佐渡金山に連行された無宿人は千八百四十二名。「意外と少ない」と書いてあるが、誰にとって意外なのだろうか。罪もない人を千八百四十二人も連れてきたと考えれば、十分多い数のように思う。
佐渡金山の蝋人形展示は、予想とおりのものではあったが、著しく坑内労働のイメージを歪めていることも事実である。現在の坑内労働はずっと快適で安全である。日本人もそろそろ坑内労働の前近代的イメージを塗り替えて欲しいものである。
我が国で金山というと、この佐渡金山が抜きんでて有名であるが、産出金量でいえば江戸時代から平成元年(1989)の閉山まで採鉱されたのは七十八トンである。現在、国内で唯一稼働している金属鉱山である菱刈鉱山(鹿児島県)は昭和六十年(1985)の出鉱以来、既に百八十六トンを産出しており、その量は佐渡金山を大きく上回り日本一となっている。
(明治紀念堂)
明治紀念堂 開導館
レンタカーのカーナビで明治紀念堂を目指す。近くまで来ているのだが、見つけられない。市役所で聞いてようやく行き着くことができた。
明治紀念堂開導館は、日露戦争で戦死した佐渡出身者四十名の兵士を弔うために建てられた。堂内には大山巌元帥の書「忠魂」のほか、各種資料が展示されているというが、予め連絡をしておかないと開けてもらえない。
ロシア水兵の墓
日露戦争の後、佐渡の海岸に二名のロシア水平の遺体が流れ着いた。得勝寺の住職本荘了寛は、埋葬して墓標を建てた。
(宿根木)
三角形の家
佐渡の史跡訪問の旅、最後の訪問地は宿根木である。宿根木は、佐渡島の南西端に位置する小さな集落であるが、狭い空間にパズルをはめ込むように木造の民家が建てられている。
中でも最も目を引くのが三角形の家である。最大限に土地を活用するためにこのような形で家が建設されたものらしいが、船大工の技術が応用されているという。
柴田収蔵生家
「胡蝶の夢」の冒頭に登場する柴田収蔵の生家である。柴田収蔵は、文政三年(1820)に宿根木に生まれ、江戸で苦学の末、幕府に登用され蕃書調所絵図取締役に取り立てられた。当時としては極めて正確な世界地図「新訂坤與略全図」を作成して出版した。卵型をしたこの世界地図は、この時代としてはかなり正確に描かれているが、ロンドンやパリと並んで、佐渡島や宿根木が書き込まれているところがユニークである。安政六年(1859)江戸で死去。
称光寺
称光寺には、柴田収蔵の墓がある。墓は柴田家の墓域にあるが、深く苔むしており、文字はほとんど読み取れない。
柴田収蔵の墓
大浜
小木港に帰り着いたのは、予定とおり十八時であった。夕陽が山の向うに沈むところであった。
今回の佐渡の旅の一番の目的が真野新町の司馬凌海生家跡を訪ねることにあった。JA真野を目指せばすぐに発見できると高を括っていたが、なかなか見つけられない。市役所真野支局まで行って教えてもらい、ようやくたどり着くことができた。実際に生家があった場所は、JA真野の北側、今は道路になっている。
司馬凌海先生生家跡
司馬凌海は、天保十年(1839)にこの地に生まれた。幼名は伊之助(または亥之助)といった。姓の島倉の音から司馬と称した。通称は凌海。名は盈之(みつゆき)。十二歳で江戸に出て松本良輔、佐藤泰然について蘭医学を学び、のちに長崎に出てオランダ医師ポンペについた。語学の天才と言われ、六ヶ国語に通じた。維新後、ドイツ語の私塾「春風社」を開いた。我が国初の日独辞典「和訳独逸辞典」を出版したことでも知られる。明治十二年(1879)神奈川県戸塚にて死去。享年三十九。
以上の履歴を読んでも面白くも何ともないが、この人物が、司馬先生の小説「胡蝶の夢」に副主役として登場する。恐らく現代の精神科医に診断させれば、アスペルガー症候群もしくは発達障害という病名がつくであろう。歴史の波間に一種の奇人が紛れ込み、周囲の著名人を巻き込んで混乱させる様子が実に面白い。
山本邸
「胡蝶の夢」では、司馬凌海の生家のとなりに山本家があるという設定になっているが、実際には斜め向かいである。今も表札は「山本半右衛門」となっている。この家からは郷土史家の山本修之助、修巳(当主)のほか、実業家からのちに政治家に転じ、昭和初年に農林大臣を務めた山本悌ニ郎、戦前外務大臣を務めた有田八郎が出ている。
(真野小学校)
真野小学校の校舎傍らに司馬凌海の顕彰碑が建てられている。篆額は山県有朋、撰文石黒忠悳、山本半蔵の書。明治三十九年(1906)に建立されたものである。
司馬凌海顕彰碑
(佐渡奉行所跡)
佐渡奉行所跡
司馬遼太郎先生の「街道をゆく~佐渡のみち」では、佐渡奉行所について「建物はなに一つ残っておらず、学校の運動場のようにそっけない」と記録している。佐渡奉行所は昭和十七年(1942)に全焼したが、平成十二年(2000)に復原再建された。因みに司馬先生がこの地を訪れたのは昭和五十年代のことであった。
勝場(せりば)というのは、鉱石を粉砕して比重によって金銀分を分離採取する、いわゆる比重選鉱の工程である。
勝場(せりば)
佐渡は金を産出したため奉行所を置いて管理する天領であった。奉行所は、地方役、町方役、書役といった民政や財務を担当する部署のほか、山方役、筋金所役といった金山を管理する佐渡奉行所特有の組織を備えていた。公事方や御裁許所といった、現代でいうと裁判所的な機能も有していたので、奉行所内には白州もあった。
御白洲
天保十一年(1840)、幕末の名官吏川路聖謨が佐渡奉行として赴任している。川路の佐渡在勤は一年足らずの期間であったが、その間「佐渡奉行在勤日記」を残している。
幕末の佐渡奉行は、鈴木重嶺(しげみね)である。世情不安定な時期に佐渡を治められるのは彼をおいてほかはないと、勝海舟が推薦したという。慶応四年(1868)維新により免官となったが、相川県参事に任命され明治九年(1876)に新潟県に合併されて廃県となるまで在職した。鈴木は和歌・国学に秀いで、県参事時代に清楽社を結成して活発な作歌活動を行った。明治三十六歌仙の一人に数えられる。
北沢地区施設群
佐渡金山は、大立地区、高任地区(道遊の割戸がある)、間ノ山地区、北沢地区に製錬・選鉱施設が建設された。佐渡奉行所の駐車場から北沢地区の施設群を見下ろすことができる。奥に見えるのは五十㍍シックナ―、手前のレンガ造りの建物は発電所跡である。向かい合って立っている新しい建物は、相川技能伝承館。北沢地区の工場は、昭和二十七年(1952)まで稼働していた。
(佐渡金山)
道遊の割戸
佐渡奉行所から佐渡金山に向かう途中、「道遊の割戸」を遠望することができる。「道遊の割戸」は、佐渡金山発見の端緒となった主要鉱脈道遊脈の露頭堀跡である。山頂を真っ二つに割った採掘跡は佐渡金山の象徴となっている。道遊の割戸のことを司馬先生は酷評している。「ながめていて気持ちのいいものではない」「自分が無宿人ででもあるかのように、しかもこれら異様な空間の中に立たされているような思いに襲われる」。確かに不気味な造形ではあるが、長い時間をかけた人間の営みの結果だと思うと神々しくもある。
佐渡金山 宗太夫坑
佐渡金山 地下排水作業
佐渡金山は、観覧料を払って坑内に入ることができる。江戸時代に採掘された宗太夫坑コース、明治に入って近代的な方法によって掘進された道遊坑コース、いずれも大人八百円、小中学生四百円である。両コースを見学する場合は、千二百円と割引きが適用される。
宗太夫坑内の展示は、ある意味では予想とおりというか、日本人が鉱山と聞けば連想するような、「暗い」「汚い」「キツイ」さらに「危険」、すなわち4Kを忠実に再現している。実際に佐渡金山に連行されて強制労働をさせられた無宿人は、数年で珪肺になって死んだという。
――― 四十をこえたるはなく、多く三年、五年のうちに肉おち、骨かれて、頻りに咳出て、煤のごときもの吐きて死する(川路聖謨「島根のすさみ」)
無宿人というのは、江戸時代独自の存在である。人別帳から抜かれて、無戸籍者となって江戸や大坂といった都市に流入した人たちのことである。坑内に置かれた説明によれば、江戸時代に佐渡金山に連行された無宿人は千八百四十二名。「意外と少ない」と書いてあるが、誰にとって意外なのだろうか。罪もない人を千八百四十二人も連れてきたと考えれば、十分多い数のように思う。
佐渡金山の蝋人形展示は、予想とおりのものではあったが、著しく坑内労働のイメージを歪めていることも事実である。現在の坑内労働はずっと快適で安全である。日本人もそろそろ坑内労働の前近代的イメージを塗り替えて欲しいものである。
我が国で金山というと、この佐渡金山が抜きんでて有名であるが、産出金量でいえば江戸時代から平成元年(1989)の閉山まで採鉱されたのは七十八トンである。現在、国内で唯一稼働している金属鉱山である菱刈鉱山(鹿児島県)は昭和六十年(1985)の出鉱以来、既に百八十六トンを産出しており、その量は佐渡金山を大きく上回り日本一となっている。
(明治紀念堂)
明治紀念堂 開導館
レンタカーのカーナビで明治紀念堂を目指す。近くまで来ているのだが、見つけられない。市役所で聞いてようやく行き着くことができた。
明治紀念堂開導館は、日露戦争で戦死した佐渡出身者四十名の兵士を弔うために建てられた。堂内には大山巌元帥の書「忠魂」のほか、各種資料が展示されているというが、予め連絡をしておかないと開けてもらえない。
ロシア水兵の墓
日露戦争の後、佐渡の海岸に二名のロシア水平の遺体が流れ着いた。得勝寺の住職本荘了寛は、埋葬して墓標を建てた。
(宿根木)
三角形の家
佐渡の史跡訪問の旅、最後の訪問地は宿根木である。宿根木は、佐渡島の南西端に位置する小さな集落であるが、狭い空間にパズルをはめ込むように木造の民家が建てられている。
中でも最も目を引くのが三角形の家である。最大限に土地を活用するためにこのような形で家が建設されたものらしいが、船大工の技術が応用されているという。
柴田収蔵生家
「胡蝶の夢」の冒頭に登場する柴田収蔵の生家である。柴田収蔵は、文政三年(1820)に宿根木に生まれ、江戸で苦学の末、幕府に登用され蕃書調所絵図取締役に取り立てられた。当時としては極めて正確な世界地図「新訂坤與略全図」を作成して出版した。卵型をしたこの世界地図は、この時代としてはかなり正確に描かれているが、ロンドンやパリと並んで、佐渡島や宿根木が書き込まれているところがユニークである。安政六年(1859)江戸で死去。
称光寺
称光寺には、柴田収蔵の墓がある。墓は柴田家の墓域にあるが、深く苔むしており、文字はほとんど読み取れない。
柴田収蔵の墓
大浜
小木港に帰り着いたのは、予定とおり十八時であった。夕陽が山の向うに沈むところであった。
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