(瀬田の唐橋)
幕末維新の史跡ではないが、せっかくの名所なので写真を一枚。
瀬田の唐橋
瀬田の唐橋は、日本三名橋の一つ(三大名橋には諸説あります)で近江八景「瀬田の夕照」で名高い名橋である。古くは、瀬田橋・瀬田の長橋とも呼ばれ、日本書紀にも登場している。織田信長により現在の大橋・小橋に整備された。「唐橋を制するものは天下を制す」とまでいわれるほど、京都へ通じる軍事・交通の要衝であることから幾度となく戦乱の舞台となった。現在の橋は昭和五十四年(1979)に架け替えられたものである。
(神領)
山崎友親宅趾
山崎司馬之允(しばのじょう)の住居跡である。
山崎司馬之允は、弘化元年(1844)の生まれ。司馬之允は通称。石碑にある友親は諱である。膳所藩正義派(尊王攘夷派)に属し、いわゆる膳所城事件に関与したため、慶応元年(1865)閏五月、藩の獄につながれた。同志十一人が死罪に処され、彼自身も死を覚悟したというが、譴責閉門にとどまった。戊辰戦争において膳所藩が新政府側に味方するに至ったのは、司馬之允の功に追うところが大きいといわれる。のち近江自由党の領袖となり、栗太郡長、栗太野洲郡長を経て、明治二十三年(1890)、衆議院議員に当選した。明治三十年(1897)、年五十四で没。
手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、山崎司馬之允の墓は、「神領墓地」にあるとされている。その神領墓地の場所が分からない。今後の課題である。
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