(妙法華寺)
妙法華寺へは、JR三島駅前から玉沢行のバスに揺られること三十分。終点の玉沢で降りると、眼前に妙法華寺の境内が広がる。妙法華寺は、弘安七年(1284)宗祖日蓮嫡弟日昭上人が鎌倉の海浜玉澤の地に創立したという古い歴史を持つ寺である。その後、戦乱を避けて新潟村田、伊豆加殿を経て、慶長九年(1604)現在地大木沢に移転した。その際、由緒ある玉澤という地名に改められた。寛永二年には二代将軍秀忠より約五十万坪という土地を御朱印地として寄進された。また家康の側室で紀州頼宣、水戸頼房の生母である養珠院(於萬の方)および英勝院(於勝の方)、太田道灌家五代太田道顕らの絶大な支援を受けて玉澤道場が竣工した。境内には養珠院手植えの桜のほか、道灌の流れを汲む名家太田家の歴代の墓がある。
妙法華寺
私が妙法華寺を訪ねたのは、太田資始、太田資功、太田資美ら歴代掛川藩主の墓を掃苔することにあった。太田家霊廟は、本堂(玉沢道場)から少し離れた墓地(玉澤霊園)の奥にある。
太田家霊廟
源朝臣(太田)資始之墓
太田資始の墓である。太田資始は掛川藩五代藩主(太田家九代)。寛政十一年(1799)近江宮川藩主堀田正穀(まさざね)の三男にうまれ、文化七年(1810)、太田資言の末期養子となって掛川藩を継いだ。十一代将軍家斉の側近として重用され、寺社奉行、京都所司代、大阪城代といった要職を歴任したのち、天保五年(1834)には老中に登用された。しかし、老中首座の水野忠邦と合わず、天保十二年(1841)罷免されて隠居を余儀なくされた。跡は長男の資功が継いだ。ところが安政五年(1858)井伊直弼が大老に就任すると、堀田正睦、松平忠固らを罷免し、代わりに太田資始、間部詮勝、松平乗全ら、いずれも老中経験者が起用された。ことに資始は隠居の身であり、異例の起用であった。しかし、安政の大獄をめぐって井伊直弼と意見が対立し、わずか一年余りで再び老中を罷免された。文久三年(1863)にも老中に再任されたが、わずか一か月後に辞任している。慶応三年(1867)、六十七歳にて死去。
私は、これで間部詮勝、松平乗全と合わせて、井伊直弼に登用された三老中の墓を全て訪ねることができた。
源朝臣(太田)資功之墓
太田資功(すけかつ)は、資始の長男で、天保十二年1841)資始の隠居により家督を継いだ。奏者番や寺社奉行といった重職を歴任した。しかし、安政三年(1856)病気を理由に辞職。文久二年(1862)、三十六歳という若さで世を去った。跡は養嗣子の資美が継いだ。
正三位子爵太田資美之墓
太田資美(すけよし)は、掛川藩七代藩主。文久二年(1862)、養父資功が死去すると、わずか八歳で家督を継いだ。当時、存命中であった資始が後見したという。徳川宗家が駿府に移封されたため、上総夷隅に転封を命じられた。のちに上総松尾藩知事となった。在職中は藩校教養館や病院好生所の開設など、手腕を発揮した。明治十七年(1884)子爵。大正二年(1913)死去。
墓の側面には、「法諡顕譲院殿道美日好大居士」と刻まれている。
玉澤から三島駅に戻るバスは決して本数が多くない。次を逃すと、一時間待たなくてはならない。妙法華寺滞在時間はわずかに二十分という慌ただしさであったが、太田家霊廟を訪ねて大満足であった。
妙法華寺へは、JR三島駅前から玉沢行のバスに揺られること三十分。終点の玉沢で降りると、眼前に妙法華寺の境内が広がる。妙法華寺は、弘安七年(1284)宗祖日蓮嫡弟日昭上人が鎌倉の海浜玉澤の地に創立したという古い歴史を持つ寺である。その後、戦乱を避けて新潟村田、伊豆加殿を経て、慶長九年(1604)現在地大木沢に移転した。その際、由緒ある玉澤という地名に改められた。寛永二年には二代将軍秀忠より約五十万坪という土地を御朱印地として寄進された。また家康の側室で紀州頼宣、水戸頼房の生母である養珠院(於萬の方)および英勝院(於勝の方)、太田道灌家五代太田道顕らの絶大な支援を受けて玉澤道場が竣工した。境内には養珠院手植えの桜のほか、道灌の流れを汲む名家太田家の歴代の墓がある。
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妙法華寺
私が妙法華寺を訪ねたのは、太田資始、太田資功、太田資美ら歴代掛川藩主の墓を掃苔することにあった。太田家霊廟は、本堂(玉沢道場)から少し離れた墓地(玉澤霊園)の奥にある。
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太田家霊廟
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源朝臣(太田)資始之墓
太田資始の墓である。太田資始は掛川藩五代藩主(太田家九代)。寛政十一年(1799)近江宮川藩主堀田正穀(まさざね)の三男にうまれ、文化七年(1810)、太田資言の末期養子となって掛川藩を継いだ。十一代将軍家斉の側近として重用され、寺社奉行、京都所司代、大阪城代といった要職を歴任したのち、天保五年(1834)には老中に登用された。しかし、老中首座の水野忠邦と合わず、天保十二年(1841)罷免されて隠居を余儀なくされた。跡は長男の資功が継いだ。ところが安政五年(1858)井伊直弼が大老に就任すると、堀田正睦、松平忠固らを罷免し、代わりに太田資始、間部詮勝、松平乗全ら、いずれも老中経験者が起用された。ことに資始は隠居の身であり、異例の起用であった。しかし、安政の大獄をめぐって井伊直弼と意見が対立し、わずか一年余りで再び老中を罷免された。文久三年(1863)にも老中に再任されたが、わずか一か月後に辞任している。慶応三年(1867)、六十七歳にて死去。
私は、これで間部詮勝、松平乗全と合わせて、井伊直弼に登用された三老中の墓を全て訪ねることができた。
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源朝臣(太田)資功之墓
太田資功(すけかつ)は、資始の長男で、天保十二年1841)資始の隠居により家督を継いだ。奏者番や寺社奉行といった重職を歴任した。しかし、安政三年(1856)病気を理由に辞職。文久二年(1862)、三十六歳という若さで世を去った。跡は養嗣子の資美が継いだ。
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正三位子爵太田資美之墓
太田資美(すけよし)は、掛川藩七代藩主。文久二年(1862)、養父資功が死去すると、わずか八歳で家督を継いだ。当時、存命中であった資始が後見したという。徳川宗家が駿府に移封されたため、上総夷隅に転封を命じられた。のちに上総松尾藩知事となった。在職中は藩校教養館や病院好生所の開設など、手腕を発揮した。明治十七年(1884)子爵。大正二年(1913)死去。
墓の側面には、「法諡顕譲院殿道美日好大居士」と刻まれている。
玉澤から三島駅に戻るバスは決して本数が多くない。次を逃すと、一時間待たなくてはならない。妙法華寺滞在時間はわずかに二十分という慌ただしさであったが、太田家霊廟を訪ねて大満足であった。
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