2007年8月15日初版の「津軽の標準語」という622ページの本が目の前にある。著者は農家の方だそうで、久米田いさおさん。いわゆる私家本というものなのかもしれない。新聞に掲載されたものを家内が見て、購入したのだそうである。
「赤だんぶり」とは秋空を群がって飛ぶ「赤とんぼ」のことである。青色の布地の表紙に赤いトンボが二匹銀色の岩木山に向かって飛んでいる。
トンボや美しい環境、そして津軽弁もみな無形文化財である。つまり今はあって当たり前のものがいつか亡くなっていくものである。なくなって欲しくないものがある。しかし時代や文明は流行り廃れを繰り返してきた。今は亡きものもたくさんあるのだ。つい先日の新聞に出ていたが、弘前の繁華街を流れる土淵川に幻の羽黒トンボが写真撮影された。一度は絶滅したかと騒がれたものがまた復活したりもあるが、二度と見えない、聞こえない、味わえないものもあるのだ。
私が老人ホームでお年よりに夏食べたいものを聞いたところ、「マグァ」と答えた人がいた。わたしは若い寮母さんに聞いたが誰もわからなかった。年配の人(50代)に聞くと、「あーっ!それはマクワ瓜のことだね」と教えてくれた。私の子どもの頃は筋のついてフットボールのような形をした売瓜が美味しかったし、当時は皆それであった。今は品種改良が進んで、お宅的な人でないと作らない果物である。
私が青森に来てからの試練はまさに言葉「津軽弁」であったし、それは長く住んでいればクリアできるものでもないことがよくわかった。もう津軽人として認めて欲しいくらいの30年の生活で、未だによそ者を意識させられるのはまさに津軽弁は聞けても、「しゃべらえね」(話せない)のだ。それくらいに津軽弁は難しい。
ずいぶん前の話だが、近所で亡くなった方があり、おばあさんが我が家に来て「ダミするはんで、○○日の○○時に集会所サ集まってケロって、口ズシコで頼みス」と言われた。それがわかるまで、長い時間がかかった。「「ダミ(葬式)するはんで(しますので)、○○日の○○時に集会所サ集まってケロ(ください)って、口ズシコ(口伝え)で頼みス(お願いします)」だった。通常回覧版など紙に書いて伝えるのだが、急ぐ場合には口伝えでの連絡方法があるというのだった。
津軽弁は「訛り(なまり)」と「方言」の二種類がある。訛りとは標準となる言葉があって、それが変形したものだ。「アベ」とは「歩け」とか「来い」という意味だ。方言は「どんず」のように「尻」を言う。「かちゃくちゃね」は「いらいらする」など気持ちを表わす言葉だ。「あずましい」は「ここちよい」「とぺかぺ」は軽率でおっちょこちょいなこと。ゴミは「投げる」が「捨てる」ということ。自動車は「ふっぱる」が「運転する」などだ。
津軽弁には濁りがある。そして名詞にはお尻に「コ」がつく。「ネコッコノコッコ」とは「猫の子」のことである。そして中にはとてつもなく短縮する会話もある。有名なものには「ドサ?ユサ」がある。「これからどちらに行くのですか?」「お風呂に入りに行くのです」が「どさ?湯さ」なのだ。奥行きが深い津軽弁であり、繊細なこころを絶妙に表現することができるのも津軽弁なのだ。
文化や言葉は、後世に伝えていく人がなければ消えていくものである。どのように残していくのかは、日常の価値観を人々がどこに置くのかにかかっているような気がする。人と人の関わり方が濃厚でさえあれば、それは守って行くことができる気がしている。
「赤だんぶり」とは秋空を群がって飛ぶ「赤とんぼ」のことである。青色の布地の表紙に赤いトンボが二匹銀色の岩木山に向かって飛んでいる。
トンボや美しい環境、そして津軽弁もみな無形文化財である。つまり今はあって当たり前のものがいつか亡くなっていくものである。なくなって欲しくないものがある。しかし時代や文明は流行り廃れを繰り返してきた。今は亡きものもたくさんあるのだ。つい先日の新聞に出ていたが、弘前の繁華街を流れる土淵川に幻の羽黒トンボが写真撮影された。一度は絶滅したかと騒がれたものがまた復活したりもあるが、二度と見えない、聞こえない、味わえないものもあるのだ。
私が老人ホームでお年よりに夏食べたいものを聞いたところ、「マグァ」と答えた人がいた。わたしは若い寮母さんに聞いたが誰もわからなかった。年配の人(50代)に聞くと、「あーっ!それはマクワ瓜のことだね」と教えてくれた。私の子どもの頃は筋のついてフットボールのような形をした売瓜が美味しかったし、当時は皆それであった。今は品種改良が進んで、お宅的な人でないと作らない果物である。
私が青森に来てからの試練はまさに言葉「津軽弁」であったし、それは長く住んでいればクリアできるものでもないことがよくわかった。もう津軽人として認めて欲しいくらいの30年の生活で、未だによそ者を意識させられるのはまさに津軽弁は聞けても、「しゃべらえね」(話せない)のだ。それくらいに津軽弁は難しい。
ずいぶん前の話だが、近所で亡くなった方があり、おばあさんが我が家に来て「ダミするはんで、○○日の○○時に集会所サ集まってケロって、口ズシコで頼みス」と言われた。それがわかるまで、長い時間がかかった。「「ダミ(葬式)するはんで(しますので)、○○日の○○時に集会所サ集まってケロ(ください)って、口ズシコ(口伝え)で頼みス(お願いします)」だった。通常回覧版など紙に書いて伝えるのだが、急ぐ場合には口伝えでの連絡方法があるというのだった。
津軽弁は「訛り(なまり)」と「方言」の二種類がある。訛りとは標準となる言葉があって、それが変形したものだ。「アベ」とは「歩け」とか「来い」という意味だ。方言は「どんず」のように「尻」を言う。「かちゃくちゃね」は「いらいらする」など気持ちを表わす言葉だ。「あずましい」は「ここちよい」「とぺかぺ」は軽率でおっちょこちょいなこと。ゴミは「投げる」が「捨てる」ということ。自動車は「ふっぱる」が「運転する」などだ。
津軽弁には濁りがある。そして名詞にはお尻に「コ」がつく。「ネコッコノコッコ」とは「猫の子」のことである。そして中にはとてつもなく短縮する会話もある。有名なものには「ドサ?ユサ」がある。「これからどちらに行くのですか?」「お風呂に入りに行くのです」が「どさ?湯さ」なのだ。奥行きが深い津軽弁であり、繊細なこころを絶妙に表現することができるのも津軽弁なのだ。
文化や言葉は、後世に伝えていく人がなければ消えていくものである。どのように残していくのかは、日常の価値観を人々がどこに置くのかにかかっているような気がする。人と人の関わり方が濃厚でさえあれば、それは守って行くことができる気がしている。
私は子供の頃、宮城県の田舎に夏休みにかならず
行っていたのですが、祖母の喋る方言が最初は
ほとんど聞き取れなかったものですが、
一緒に寝起きしている日々で、なんとなく分かるようになっていったことを思い出しました。
妻の実家の沖縄も地域ごと、島々によって方言が違うというのですから。方言のみでは私は聞き取れないです。標準語がなければそれぞれの方言だけでは意思を伝えられないでしようね。
しかし、若い人たちが、綺麗な標準語を使って、
方言をあまり使えなくなる現状は文化の衰退ですから、寂しいです。
津軽弁の大会とかはあるのでしょうか?
鮭も生まれた川に舞い戻りますが、我々人間も年を取ると少しずつ故郷が恋しくなるものですね。ぼくも新潟に帰りたいと思いつつも、恐らくは無理でしょうね。
石川啄木は、上野駅で「訛りなつかし停車場のひとごみのなかにそを聞きにゆく」という歌がありますが、歳を重ねるにしたがって、啄木の気持ちがよくわかるような気がします。結局は、故郷には帰れなかった啄木でしたが、私は子供が独立し、夫の両親を看取ったら(私の両親のほうが10歳ほど若い)、こればかりはわかりませんが、晩年は故郷に帰りたいです。
高木恭三さんの「まるめろ」などは、とても哀調のある詩ですね。ぼくも好きです。
そうですかふんわりさんは盛岡がご出身でしたか。私も岩手に友達がいて、皆親切な方ばかりです。
「市役所」のことです。
「市」が抜けてしまいました。
暮らしているうちにその言葉の中にある
含みのある意味や温もりのある語感を
感じ取っていくことができました。
私も遂に津軽弁を駆使することは出来ず
標準語で通しました。
役所へ行ったときは受付の方は
癖のない標準語を話してくれて
さすがと安心いたしました。
津軽弁、秋田弁、山形弁など日本海側の方言は喧嘩言葉のようですが、太平洋側になると、青森でも南部弁になります。宮城は「~だっちゃ」、福島は平坦で抑揚がない方言です。
私は盛岡出身なので、友達と電話で話ていると、方言で話しているようです。
でも、津軽弁は一種独特なものがありますよね。伊那かっぺい氏、詩人の故高木恭三、一戸賢三の方言詩や朗読を聴いたら、素敵だなーと思います。