夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

親の安心

2010-11-21 09:23:28 | つれづれなるままに
11月20日(土)

 今週も元気な姿を見せて帰宅した二人の娘である。この家にはこの家の娘達の想いがあり、きちんと見分けているのだと思うと受け入れをしていることの意味は重たいと思う。
 先週もそうだったのだが、長女ネネムは帰宅すれば着替えももどかしそうにキーボードの間に這って移動している。そしてお腹がすいた頃には自分で又舞い戻って来ている。少なくともこうして彼女は最低2往復は自分でしているのだから、重たいハンディはあるとしても、こういうことのできる彼女はもはや自立しているといえるのではないかと思う。
 次女は次女でピアノのレッスンをしているかのように、一日3時間は鍵盤を叩いている。こういう自由は、今のケアホームでも保障されないだろう。
 夜9時には入浴を済ませ、10時に就寝して朝6時起床が彼女たちの生活リズムだ。
何にも増して二人がわずらうこともなく、日々を元気で暮らしていてくれるのがありがたいと思う。
 親として30数年間を共に暮らしてきて、今ケアホームのスタッフにすべてを依頼している生活である。スタッフの献身的な支えによって二人のいのちが続くのだ。あたり前だと思う親の子への支えだったが、いざ手放すとなればそのことの継続的な日々は、とんでもなく重たい日々でもあったと気づかされる。仕事として世話をすることと、親が子に対して情愛を注ぐことの根本的な違いはそこにあるのかもしれない。12,220日間を長女とは共に過ごしてきたのであるから、その33年と6ヶ月間の日々の堆積された親子の歴史は限りなく重厚というほかはない。良い時もそうではなかった時も含めた、すべての34年間である。私は父親としてというよりも、人間として娘たちに鍛えてもらったことを感謝しなければならないと思っている。