音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

プレゼンス (レッド・ツェッペリン/1976年)

2010-07-27 | ロック (イギリス)


「フィジカル・グラフィティ」は私個人に取っては最初に遭遇したゼップのアルバムであることは以前に書いたが、そういう意味では、この1年後に出たこの「プレゼンス」は、実に衝撃的な内容であった。というか、私的に言うと、「フィジカル~」からこの1年の間にすべてのツェッペリンのアルバムを聴いていた。「フィジカル~」の次に聴いたのは「Ⅳ」であるが、その後はファーストアルバムから順番に聴いた。このブログに投稿した順番に聴いたのであるから、ゼップのハード・ロックの可能性を集約した完成形であるという評価、また、他の言葉で形容すれば、この時点ではロックという世界で表現できる最高のアルバムという言い方をしても良いと思った。

特に「アキレス最後の戦い」は、ジミー・ペイジも発売当時に言っているように、彼らの音楽の集大成であるというのは正しいと思う。しかし、それには幾つかの歴史的事実という伏線があった。まず、ゼップは「フィジカル・グラフィティ」を軸としたツアーが大成功し、それに呼応してアルバムも大ヒットしたが、ロバート・プラントがロードス島で交通事故を起こしたことにより、後半のツアーをキャンセルし、レコーディングのため全メンバーはスタジオに籠ったために、様々な憶測が飛んだ。最初に出てきたのは、次のアルバムは「オベリスク」というタイトルであり、まさにこれは、古代エジプトの記念碑であるように、彼らの金字塔となるアルバムであるという噂(これは、実はアルバムジャケットのモチーフとなったモノリスが勘違いとして伝わったことだった)が先行し、そのために噂と期待が交錯した結果、ゼップの次回作は自他共に認める凄いものになるという期待であった。結果、オベリスクの要素は残ったが、更にプレゼンスという「存在感」を示すタイトルが発表になり、更にその期待が高まったのである。実際に前述した1曲目の「アキレス~」はイントロからして今までのゼップのどの曲よりも迫力と存在感があり、プラントのヴォーカルと、その他の楽器のコンビネーションは最高潮に達しており、初期の「ハート・プレイカー」の迫力と、「天国への階段」の流れである詩の深さと音楽ファンを引き付ける展開の妙、さらに「聖なる館」で発表された「永遠の詩」に共通するメロディアスなロックという部分は、まさしく集大成という言葉に等しい内容であった。ただ、逆にこの1曲目のど迫力に比べると、ハードな音に拘っているものの、その後の曲は可なり単調であると言える。更に言い方を変えれば、曲よりもプラントのヴォーカルとしてのセンスが光っている内容に終始しまっていそる。この辺りを、実は、私の様に、間にゼップの全作品を挟まずに、「フィジカル~」から直接次の作品として聴いてみると、良し悪しは別として、前作のとても多岐に渡った作品であり、そう考えると、ゼップ的なのではあるが、かなり物足りなさを感じてしまう。最後の「一人でお茶を」は、個人的には、またまたゼップ的に極めたブルース(というか、彼らの場合、ブルースとハードロックの間を行ったり来たりしている内に角がとれて丸くなったブルース)としては絶品だとは思うのだが、あくまでもこれはゼップが演奏しているから(ロバート・プラントというヴォーカリストがなくては成立しない曲)である。そういう意味では、ハードロックとしての追求は出来ているから、彼ら的には最高傑作といってもよいのかもしれないが、音楽市場は敏感に反応し、チャートは一時的に上位にいたが、ソフトの売り上げは今までの彼らの中では最低のセールスとなった。ここに初めて、彼ら自身と彼らに求めるファンとの大きな相違が生まれてしまったのである。

勿論、市場的には、同じ年にすぐ初めてのライヴアルバムが発表され、同時に映画化もされたので、ファンの興味が次の作品に行ってしまったということは歪めないが、今までの彼らのアルバムなら、そうは言ってもジリジリ浸透する筈で、一方で商業化しつつある音楽時代に入り、ヒットのサイクルが短くなってきたということが、この超大物バンドですら影響を受けるということになったのであろう。色々な誤解と悲劇が重なったアルバムなのである。


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