すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

酷暑

2018-07-23 22:13:42 | 読書の楽しみ
血を吐くやうな 倦うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麥に陽は照り
睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな 倦うさ、たゆけさ

空は燃え、畑はつづき
雲浮かび、眩しく光り
今日の日も陽は炎ゆる、地は睡る
血を吐くやうなせつなさに。
   (中原中也「夏」(前半)) 
 これくらい、今日この頃の様子をぴたりと言い得ている言葉が他にあるだろうか。やはり中原中也は天才だ。
 ぼくは子供の頃、父がこの詩をつぶやいているのを聞いたことがある。というより、この詩は父がつぶやいていたので鮮明に覚えている。
 考えてみれば、中也の頃も、父の頃も、猛暑というのはあったはずだ。気温は今ほど高くなくても、エアコンなんか無い時代だから、堪え難く暑かったかもしれない。

 ところで、一編の詩は、あるいは良い文学作品の一節は、ぼくらが猛暑に耐えるひとつの手がかりになってくれるものと思う。猛暑に圧倒される一方でなく、堪えるための力をもらうことができるように思う。
 ただしそれは、エアコンのきいた部屋にこもって手にするのでなく、ポーチに入れて敢えて外に出て、カフェのオープンテラスか木陰のベンチで手にするのが良い。ぼくの好みの場所は目黒区民キャンパスのカフェか林試の森のベンチだ。
 次の文も、そういう手掛かりのひとつ。

 「ナタナエル、君に期待の話をしよう。私は見た、夏の間野原が待つのを、少しばかりの雨を待つのを。路上の塵埃はすっかり軽くなって、そよ風にも舞い上がった。それはもはや欲望ではなかった。むしろ疑懼(ぎく)であった。大地は水を吸い込めるだけ吸おうとしているのか、すっかりひび割れていた。曠野の花の香りは堪え難いほどだった。烈日のもとにすべては気息奄々としていた。我々は毎日午後になるとテラスへ行って、激しい日の光をわずかに避けて休息した。ちょうどそのころは花粉をつけた松柏科の植物が枝をいとも楽々と揺すって、彼らの繁殖作用を少しでも遠くへ広めようとしているときだった。空は嵐を孕み、自然はひたすら待ちもうけていた。あらゆる鳥も声を潜めていたので、その瞬間は息塞がるばかりの厳粛な瞬間となった。大地からは燃えるような一陣の風が吹き起ったので、人は喪心するかと思い、松柏類の花粉は黄金の烟のように枝から舞い立った。――それから雨が降った。」
   (アンドレ・ジッド「地の糧」)
コメント
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