東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

発見し、共に考えることから始める社会科

2014年05月23日 | インポート
Photo 江戸川教育文化センターのブログから社会科の授業実践を紹介する。

 教科書の採択を巡って文科省が介入して大問題になっているが、そのことはさておき、教科書の絵を十分に観察させる授業を紹介したい。
 私は、教科書はその内容の良し悪しはあるにせよ、有効に活用している。仮に問題があれば、そこをこそ発見させて論議する。要するに深く観察させるわけだ。
 6年生くらいになると社会科の好き嫌いははっきりしてくる。でも、この観察学習をすればそんなことは吹き飛ぶ。
 いわゆる縄文時代や弥生時代の学習は土器等の発掘物はともかく、ほとんどが想像絵画やイラストによる説明である。ナウマン象と戦う毛皮をまとった原始人の様子を描いた資料にはちょっと引いてしまうが、東京書籍の教科書は結構そのまま使える。
 左右に見開くと4ページ分もある想像の絵がある。左側が縄文期で右側が弥生期である。同様な絵は各社の資料集にもあるが、何はともあれまず教科書の絵を注意深く観察させる。これが大変よくできていて、その頃の特徴がほぼ網羅されている。極端に言うと、この中身を全て理解するとその時代の学習は終わってもよい。
 さて、生活の糧は狩猟や採集が中心だった頃から時は進み、稲作が始められ生活環境が大きく変わりつつあった頃の学習である。
 子どもたちは、例によって見開き2ページの絵を観察して発見したことをどんどんノートに書き込んでいく。どんなことでも良い。勘違いであろうが、見当違いであろうが、自分がそう思ったことを書くのだ。まずは各々の教科書を見て書くが、それを基に次々に発表する中で、一斉に同じものを観察させたい場面がやってきた。
 例えば、「儀式のようなことをやっている」と発言した子がいた時だ。ここで登場するのが区教委自慢の書画カメラ、所謂ICT教育というやつだ。子どもが指摘した部分を書画カメラでクローズアップして大型テレビ画面に映す。老眼の私でさえ、ハッとさせられるほどの描写である。たしかに巫女のような者が祈りのようなことをしている様子が分かる。
「何故、そのようなことをしているのか?」一つの考えるべき問題ができる。
 また、「遠くの方で何か田んぼか畑のようなものが見える」と子どもが発表する。書画カメラでアップするが、あまり断定的なことは言えない。ところが、「家の造りが縄文時代とは違って、立派になってきたし、床の高い家はきっとコメを蓄える倉庫だと思うと、予習をしてきたような子が発言する。すると、先ほど田んぼではないかと言った子が、「そうだろう。だから僕が発見したのは田んぼなんだよ。そこで取ったコメを倉庫に入れておくんだよ」と、いかにも訳知り顔で言う。このパターンは更に続く。始めの方の自由発言でたくさん出た「柵」や「堀」、そして随所にいる「見張り」のような人。ここで話がつながってくるから面白い。
 「コメを盗まれないように見張りがいるんだよ。」
 「柵や堀は、敵に攻められないように、守るためにあるんだと思います。」計算し尽くされたように良い答えが返ってくる。
 しかし、意外なことで立ち往生する。
 「何か物を並べて売っている人がいる。」
 「売ってるなら、お金があるんですか?」
 「まだお金はないから、石をお金にしていたんだと思います。」
 「えっ、そんなことはないよ。それは、もっと昔のことじゃないの。」
 「売っているように見えるのは、実はそうではなくて並べて見せているんだよ。」
 「多分だけど、お金の代わりに何か他の物と交換してるんだと思います。」
 色々な考えが出てくるが、容易に解決しない。そこで、次の時間にインターネット等で調べることになった。
 通説的には「和同開珎」なる鋳造貨幣が日本で最初の公的な貨幣で、それは8世紀と言われているからまだ先のことであるが、ここで子どもたちの興味関心が貨幣に集まったことは今後の学習にも引き継げる大切な視点だと思う。
 この「見て、発見して、話し合う」授業はあっと言う間に一時間が経過してしまった。そして、ほとんどの子どもが何らかの発言をしたし、ノートには全員がびっしり書いていた。
 歴史学習の全てがこの手法でいけるわけではないが、どの時間でも教科書の何かをしっかり観察せることから始めるのは私の常套手段である。ねらい通りのこともあるが、先の貨幣の様に意外な所へ発展する場合もあるから面白いものだ。
クマザサ


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