東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

ワッカ・ナイ

2013年04月10日 | インポート
Img_5084 千葉県の八街(やちまた)は、明治の初めに失業した武士の救済と食糧増産を図るために始めた北総開発で開墾されたところだ。
 明治2年、北総台地の西側の初富(はつとみ、鎌ヶ谷市)から始まり、二和(ふたわ、船橋市)、三咲(みさき、船橋市)、豊四季(とよしき、柏市)、五香(ごこう、松戸市)、六実(むつみ、松戸市)、七栄(ななえ、富里市)、八街(やちまた、八街市)、九美上(くみあげ、香取市)、十倉(とくら、富里市)と続く。つまり、開墾した順番に地名をつけた訳だ。それにしても、ただ数字を並べて北総1区、2区などとしなかったところがいい。開墾した地域の発展を祈り数字だけでない字をつけた人々の気持ちが伝わってくる。でも、十倉の後が十余一(とよいち、白井市)、十余二(とよふた、柏市)、十余三(とよみ、成田市・多古町)とつけたところは情けない。数値化、効率化への歴史の過渡期を思わせる。その十余三に成田空港がつくられた。
 地名には歴史や由来があるが、アイヌ民族の地名は自然と人々の営みによってつけられた。例えば、稚内は、「冷たい飲み水の沢」を意味する「ヤム・ワッカ・ナイ」。漢字の当て字で、その意味は失われてしまったが、地名で、そこに美味しくて冷たい水があることを共有していた。
 地名を無味乾燥な数字にしてしまっても、地元では昔の町名で町会を名乗っているところが多いのも頷ける。
 ところで東京教組書記局のある神保町は、旗本・神保長治の屋敷(三省堂のあたり)があったことに由来する。